とある邪神の休日
吾輩は無貌の神、或は這い寄る混沌と呼ばれる者である。
ナイアルラトホテップ、ナイアーラトテップ、ニャルラトホテプ、ニャルラトテップなどと人々は呼び、吾輩もそれを名乗っている。だが、本当の名前を吾輩以外は知らぬ。教えるつもりも無いがな。
扨。そんな吾輩は今、とある街に訪れている。所謂、暇潰しである。愚劣で滑稽な人間共を破滅へ導き、その様を嘲笑う――そんな日々に少々飽きたので、ぶらぶらと人間の街を彷徨することにしたのである。
この街は良い街だ。他の街よりも酷く冒涜的である。道を歩くだけで喰屍鬼や深き者と擦れ違う。先程はミ=ゴや蛇人間とも擦れ違った。
勿論人間とも擦れ違った。中にはティンダロスの猟犬と冒涜的生物の蛸を連れて散歩している人間も居た。流石の吾輩も我が目を疑ったぞ、あの猟犬が普通の犬と見紛う程に飼い慣らされていたのでな。人間にも侮れん奴が居るようである。
人間に対する評価を少し上げつつ、吾輩は近くのコンビニへ行くことにした。最近のコンビニでは、値段以上の価値を有する甘味が置いてあるのでな。
吾輩は甘味が大好物なのである。他人の不幸もクッキーやケーキも、吾輩にとっては素晴らしく甘美なのだ。
という訳でコンビニに入店したのだが――。
「いらっしゃいませ」
「らっしゃっせぇっ」
「いぃらぁっしゃあぁいぃまぁせぇっ」
何てことだ、此処は本当に地球なのか。
あの地味な男は喰屍鬼で、如何にも遊んでいる風の男は人間で、妙に間延びした口調の奴は――見れば誰でも直ぐに判る、クトーニアンだ。
何だ此処は、新世界か。人間の割合が33%――小数点切り捨て――しか無いではないか。
「ああ、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませっ!」
いや、人間の割合は20%であった。店の奥から深き者と、スキュラ種が現れたからである。
何という混沌とした名状し難い冒涜的なコンビニなのだろう。この吾輩も未だ嘗て見たことが無いぞ。
それにしてもスキュラ種が働いているということは、奴等の人権が認められたというのは真だったのだな。人間は寛大なのか狭量なのか、大胆なのか臆病なのかよく判らん。得体の知れぬものを排斥するかと思えば、理解の範疇を超えたものを許容する。人間の考えは不思議である。
「――あれ? もしかしてニャルさんですか?」
吾輩が人間の思考回路に対して思いを馳せていると、突然深き者が吾輩の正体を言い当てた。
何故判った、今の吾輩は極々普通のAPP18男児であるぞ。この深き者、一体何者だ。
「如何にも。吾輩は無貌の神、這い寄る混沌である。ニャルラトホテプでもニャルラトテップでも呼び方は自由にすれば良い。それよりも貴様、何故吾輩の正体に気付いた?」
わくわくと心を踊らせつつ深き者に尋ねると、奴は顔を歪ませながら――恐らく微笑んでいる――答えた。
「いやあ、当て推量ですよ。美しい御客様には皆『もしかしてニャルさん?』っていつも聞いてるんです。ほら、ニャルさんっていつも美しい人間の姿で現れるじゃないですか」
「何だ、魔術的なもので見破った訳ではないのか」
「がっかりさせてしまって済みません」
申し訳なさそうに謝る深き者に、吾輩は謝る必要など無いと告げ、店内を見渡した。
「それより吾輩は甘味を所望している。ケーキやシュークリームを沢山買わせて貰うぞ」
「買うんですか?」
鰓をぱくぱくとさせながら、深き者が吾輩を見る。何を聞いているのだ此奴は。
「当たり前だろう。何かを得るには同等以上の物を支払う、どの世界線でも共通のルールであるぞ」
「御供えしなくて良いんですか?」
「吾輩は熱心な信者からの御供えしか受け取らぬ主義なのだ。それに金なら有る。吾輩は高給取りなのでな」
吾輩がそう言った瞬間、この店内唯一の人間が大声を上げた。
「高給取りっ! 凄いっすね! どんな仕事してるんっすか!」
無駄にでかい声が吾輩の鼓膜のような器官を劈く。この声だけで相手にダメージを与えられるのではないだろうか。恐ろしい男だ。
それより何より、吾輩があの有名な邪神であると知った上でのこの馴れ馴れしさ。何という図太さだろうか。
「詳しくは言えぬが、人を絶望させる仕事であるとだけ教えてやろう」
「何すかその仕事! 最早仕事かも判らないっすね!」
吾輩、器が大きい方なのだが、この男はどうも好かんな。一度泣かせて狂わせてやらねばなるまい。
ぎゃあぎゃあと大声を張り上げる男を無視し、吾輩は己の身を変化させる。人の姿をした皮を破り、冒涜的で絶望的な、吾輩の姿の一つへと化けてやった。
さあ、これで貴様も発狂――。
「すげぇっ! 何か変身した! 結構可愛い!」
何此奴怖い。青白い皮膚が爛れた、顔の無い触手の塊になった吾輩を可愛いと言いおった、怖い。
「ああ、その子オリハルコンメンタルなんでSAN値削れませんよ」
深き者はそう言って笑っているが、吾輩のプライドはずたずたである。良くて1D100、悪くても1D10のSAN値は抉ってやれると思っていたのに、まさかこのような人間が居るだなんて想像もしなかったぞ。
何だか少し悲しくなった吾輩は元の美男子姿に戻り、さっさと甘味を買って直ぐにコンビニを出た。レジをしていた喰屍鬼がおまけでクッキーも呉れたが、吾輩の心は曇り空である。殆どの人間は、吾輩の姿を見ただけでSAN値直葬だというのに。
遣る瀬無い思いに沈みながら買ったばかりのシュークリームを貪り、吾輩は当ても無くぶらぶらと歩いていた。うむ、矢張り最近のコンビニは素晴らしい甘味を置いているな。少し気分も良くなってきたぞ。
我ながら単純な思考だなと笑いつつ歩いていると、とある公園に辿り着いた。なかなか広い公園で、中央には噴水が設置されてある。先程見掛けたティンダロスの猟犬と蛸、そしてその飼い主も居た。恐らくこの近所に住んでいるのだろう。
吾輩は甘味をじっくり味わう為に、近くのベンチに腰を下ろした。きゃあきゃあと騒ぐ幼き喰屍鬼と人間や、噴水の中で寛いでいるスキュラ種と小さな――クトゥルフの落とし子にしてはだが――クトゥルフの落とし子や、砂場で遊んでいる砂に棲む者達。驚く程に平和で冒涜的な光景である。豆腐のように脆い精神をしている人間が見れば、即発狂するであろうな。
そうしてその穏やかな狂気に満ちた公園で甘味を食べていると、ふと良い匂いが鼻を擽った。この匂いは蛸焼きだろうか。何処から漂っているのかと探してみると、公園近くの小さな店から匂いがしていることに気付いた。
蛸焼きか。甘味を食ったばかりだが、別腹なので問題無い。吾輩はベンチから立ち上がり、甘味を包んでいた袋などをゴミ箱に捨て、蛸焼き屋へと向かった。
何味にしよう。ソースも良いが醤油も――と思いながら向かうと、吾輩は我が目を疑った。
「冒涜的蛸を使った蛸焼き、だと」
思わずそう呟いてしまう程に吾輩は驚いた。店主を見る。どう見ても人間である。従業員らしき者も居ない。一人で切盛しているのか。確かに小さな店ではあるが、かなり客が殺到しているぞ。
と思っていたが、良く見ると蛸も蛸焼きを焼いていた。我が脚を文字通り削り、且つそれを焼いているとは。何という究極の奉仕活動、奉仕される側である吾輩には一生判らんな。
そう思いながら吾輩は列に並び、三十分程待って蛸焼きを買った。コマエダコ蛸焼きとソウダコ蛸焼きを十個ずつ頼み、コマエダコの方は醤油、ソウダコの方はソースにした。この組み合わせが一番だと店主が言っていたのでな。
再び公園に戻って来た吾輩は、先程と同じベンチに座り、蛸焼きを食べることにした。袋から蛸焼き入りのパックを二つ取り出す。確か上のパックがコマエダコだったかな。コマエダコのパックを開け、蛸焼きに突き刺さっている爪楊枝を使い、一つ口に放り込む。
旨い。濃厚な蛸の旨さと醤油が、お互いを壊すことなく絡み合っている。あまりにも旨いので一つ、また一つと食べてしまい、直ぐに無くなってしまった。だがしかし、吾輩にはまだソウダコが残っている。
わくわくしながらソウダコのパックを開け、一つ食べる。旨い。濃口のソースとあっさりめな蛸の風味が堪らない。旨い旨いと一心不乱に食べた結果、ソウダコも無くなってしまった。吾輩、今までこれほど旨い蛸焼きは食べたことが無いぞ。感動した。
そうだ、親父への土産に買って帰ろう。あの盲目白痴な馬鹿親父も、この蛸焼きを食べれば喜ぶに違いない。普段は馬鹿にして嘲笑っているが、あれでも吾輩の父親だ。少しは良いこともしてやらねばな。
そう思って再び蛸焼き屋へ行ったが、今日の分の蛸焼きは売り切れたらしく店は閉まっており、あれほど居た客も居なくなっていた。数十分前まで開いていたのに、何という人気か。もしかして吾輩、運良く買えただけなのか。
土産の蛸焼きは諦め、吾輩はまた街を彷徨することにした――のだが、突然吾輩の携帯が冒涜的な賛美歌を打ち鳴らした。この着信音は電話だな。
吾輩は携帯を懐から取り出し、携帯の画面を見て顔を顰めた。表示されていた電話番号が、熱狂的な信者のものだったからである。
今日はプライベートだと言うのに。ちゃんと各団体にも連絡したのに。沸々と湧き上がる黒い感情を抑えながら電話に出ると、信者の大声が吾輩の耳を劈いた。思わず携帯を耳から離し、何を言っているのか耳を欹ててみると、内容が何となく判った。
どうやら暇を持て余した親父が勝手に地球へ降臨したらしい。しかも何故か機嫌が悪い、なので息子である吾輩が何とかしろ――という内容である。
確かに何とかせねば地球が滅びるな。吾輩の親父で地球がやばい状態である。仕方ない、とりあえず近くのコンビニ――先程行ったコンビニ以外の――で甘味を買って、それを土産に宥めるか。
やれやれ、折角の休日が潰されてしまうとは。まだ半日も残っているというのに。
とりあえずあの馬鹿親父を一発鉤爪で抉ってやろうと決意し、吾輩はコンビニを探してまたふらふらと彷徨することにした。
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