地雷に注意すれば良い

 

 海猫が鳴いている。にゃあにゃあと可愛らしい鳴き声を上げ、潮風を浴びながら上空を悠々と舞っている。俺はそんな海猫を一瞥し、釣糸を海に垂らした。
 不規則な波によって船が揺蕩い、身体が振れる。地上では味わうことの無い揺れに嘔気を覚えるも、態々船を借りてまで此処に来たというのに、何の釣果も上げられずに帰るだなんて以ての外である。
 せめて一匹でも釣れてくれれば良いものを、餌が悪いのか針が悪いのか場所が悪いのか、五時間以上も粘っているのに一匹も釣れない。偶に魚信は有るものの、糸を巻き上げても掛かっていない。しかも餌だけが無くなっている。恐らく、餌だけを上手に食べているのだろう。何と小賢しい。
 空を仰ぐ。太陽が煌々と輝き、じりじりと俺の肌を照り付けている。日が昇る前に来たというのに、もうあんなところに太陽が在るではないか。
 釣りは日の出、日の入が良いというので、もう望みは無いだろう。流石に夕方まで粘る体力も気力も無い。明日も仕事が有るので、俺は帰る準備をすることにした。名残惜しむように釣糸をゆっくり巻き上げ――ぐんっ、と何かが引っ掛かった。
 重い、何だこれは。そう思った瞬間、それは恐ろしい程の力で此方を引っ張って来た。そして俺は漸く理解した、魚が掛かったことを。
 帰る間際に掛かるだなんて、まるで釣り番組のようだ――そう思いながら相手の動きに合わせて竿を左右に振り、ゆっくりと確実に糸を巻く。なかなかの大物なようで、巻き上げるのにかなりの力が要る。竿も折れそうな程に撓り、糸もぎりぎりと悲鳴を上げている。
 竿も糸も、俺自身も限界だ。頼む、釣れてくれ。頼む。そう願いながら一心不乱に巻き上げる。汗を拭う暇も無く、額から垂れた汗が頬を伝う。
 腕が痺れてきた。最早船の揺れや酔いなどを感じている間も無い。錆びた歯車を回すように、力を込めて糸を巻く。
 数時間経ったように感じる数分間の闘いも、漸く終わりが見えてきた。見えてきたのだ、掛かったものが。俺の巻き上げる速度に合わせて、海底から上がってくるものが。
 長かった。五時間以上粘って一匹だけというのは寂しいが、一匹も釣れないよりは増しである。
 数分間の激しい格闘で力尽きたのか、それはもう目立った抵抗は見せず、温和しく海面へと浮上した。
 それは、魚などではなかった。ゆらゆらと水死体のように浮かぶそれは、どう見ても人間で――驚いた俺は疲労も相俟って、尻餅を搗いてしまった。
 死体? 俺は死体を釣り上げてしまったのか?
 俺は恐ろしさのあまりに戦慄き、釣竿を放り投げてその場に蹲り、頭を抱えた。どうしよう、どうしよう。警察に連絡すべきなのか。もし犯人だと疑われたらどうしよう。会社での信用が危うくなるかも知れない。恐ろしい。怖い。どうしよう。
 俺が恐慌状態に陥っていると、ぺたり――という粘着質な音が聞こえた。波の音に掻き消されてしまいそうな程に小さなその音は、規則的に何度も何度も聞こえてくる。何なんだ、一体何なんだ。
 がたがた震える身体に鞭を打ち、音の発信源を見る。それは、放り投げた釣竿のすぐ近く――船の下へと垂れる釣糸の先からだった。
 まさか、死体が船に上がって来ている? いや、そんな馬鹿な。死体が動く筈は無い。そうだろう、頼むからそうであってくれ。
 がたがたと震える我が身を抱き締め、糸の先を凝視する。気の所為だ。大丈夫だと自分に言い聞かせるも、それは無駄な行為だった。
 ずるりと、手が生えた。船へ上がろうと蠢くその手は、正に人間のそれで――その手は手探りで引っ掛かりを見付けると、それを掴んで船へ少しだけ上がって来た。
 上半身が見える。頭だ。どう見ても人間の頭だ。虚ろな双眸には生気が感じられず、左目の奇妙な痣は稲妻のような形をしていて――ん? 左目の痣?
 落ち着いてそれをよく見てみる。それは這うように船へ上がり、全身が露わになった。
 下半身が無かった。いや、正確にはあるのだが――殆ど無いと思える程に短い。脚が。いや、触腕が。
 ぜえぜえと肩で息をしているそれは、耳のような鰭をぱたぱたと動かしながら、此方に向かって指を差した。

「ふ、ふははっ! こっ、この――制圧せし、深海の覇王である俺様を――はぁっ、釣り上げるとはっ――はぁっ、大した奴、だっ」

 それだけ言うとそれは甲板に倒れ伏し、動かなくなった。微妙に肩が動いているので、死んではいないだろう。しかし、間抜けというか恥ずかしいというか――うっかり忘れていた自分が情けない。
 この海域には冒涜的生物が棲んでいるということを忘れていただなんて。
 五時間以上もぼうっと釣糸を垂らしていた所為か、脳の機能が著しく低下していたのかも知れない。
 気を取り直す為に頭を軽く振り、それ――冒涜的生物を見る。俺の知識に間違いが無ければ、これはスキュラメンダムだろう。独特の物言いと、全体的に黒い服のようなものを着た特徴的なこの容姿。こんな蛸はスキュラメンダムしか居ない筈だ。
 釣り上げたものの正体が判り、俺は一安心した。死体だったらどうしようかと思っていたので、本当に良かった。
 これにて一件落着――としたいところだが、この釣り上げたスキュラメンダムはどうしたら良いのだろうか。海に帰すのも惜しい。漸く釣り上げた一匹なのだ、帰してしまったら坊主ではないか。
 しかし連れ帰るとすれば――ううむ、どうしたものか。俺の家にはスキュラソウダコが居るのだが、其奴はかなりの曲者で、主である俺も手を焼く相手だ。
 もしこのスキュラメンダムを連れて帰ったとしたら、どうなるだろうか。俺の予感では、このスキュラメンダムが大変な目に遭う。
 しかし、もしかしたら良い方向に作用して、あのスキュラソウダコも温和しくなるのではないだろうか。
 個体によって差はあれど、スキュラメンダムは基本的に癖の有る性格をしている。先程の独特な物言いもその一つで、気難しい不思議な種である。だが根は真面目で、他種族にも優しい。それがスキュラメンダムなのだ。
 なので、もしかしたらこのスキュラメンダムは、我が家にとっての救世主になるやも知れない。いや、なる筈だ。きっとこのスキュラメンダムが釣れたのも運命に違いない。
 そう確信した俺は、スキュラメンダムを我が家へ連れて帰ることにした。




――――




「まさかこの俺様が、人間如きに拐かされるとはな」

 スキュラメンダムは忌々しそうに俺を睨み付けながら、渡しておいた水入りの霧吹きを自分に掛けている。
 スキュラメンダムは車の助手席に座っており、俺は運転席に乗って車を運転している真っ最中だ。クーラーボックスに入る大きさではないので、直接車に乗って貰ったのである。
 我が家のスキュラソウダコもよく助手席に乗るので、防水シートを車内に常備していたのが幸いだ。そのまま乗られると、助手席が濡れてしまうからな。

「もうすぐ俺の家だぞ」
「ふんっ」

 無理矢理連れて帰ったことを根に持っているようで、先程から色々話し掛けたりしているのだが、返事らしい返事をしてくれない。
 自業自得ではあるが、少し悲しい。これから一緒に暮らしていけるのだろうか。無理そうならば、元の海へ帰しに行くしかないか。

「着いたぞ」

 車を停止させ、車庫の鍵を開ける。リモコンで開くのだから、本当に楽で便利だ。因みにこれは元からの機能ではない。スキュラソウダコが改造してくれたのだ。
 車庫に車を停めた俺は車から降り、助手席の扉を開けてスキュラメンダムに付けていたシートベルトを外し、彼を胸に抱いて家の玄関へ行く。ぐちょりと服に水気が宿るが、スキュラメンダムを船から車に運ぶ時に濡れたので、もう諦めた。後で洗うから問題無い。

「一人で歩ける、離せ!」

 そう言ってスキュラメンダムは身動いだが、俺は離してやるつもりなど無い。
 何故ならスキュラメンダムの歩みは、他のスキュラ種と比べて遥かに遅いからだ。触腕が短い故の弊害である。俺は喚くスキュラメンダムを無視し、玄関の鍵を開けて中に入った。

「ただいま」
「――お帰りなさい」

 廊下の奥からひょっこりと顔を出したのは、俺の家族であるスキュラソウダコだ。
 莞爾として此方を見ていた彼だが、俺が抱えているものを見るや否や触腕を蠢かせて此方へ歩み寄り、まじまじとスキュラメンダムを見詰め始めた。

「これ、何?」

 そう言ってスキュラソウダコはスキュラメンダムを指差した。これ扱いされるとは思わなかったのだろう、スキュラメンダムは目を見開いて呆然としている。

「これじゃないだろ、お前と同じスキュラ種なんだから」
「知ってるよ、スキュラメンダムだろ。それが何で此処に居るのかって聞いてんだけど」

 スキュラソウダコは鋭い目付きを更に鋭くさせて俺を睨み、スキュラメンダムを一瞥して再びを俺を睨み付けた。

「何、浮気? 俺を捨てて、それと一緒に暮らすつもり? 許さねえ。今まで尽くしてきたのに、俺を捨てるなんて許さねえ。裏切ったら殺すって言ったのに、許さねえ。殺す殺す殺す殺す」

 淡々と早口で捲し立てたスキュラソウダコが、突然俺に向かって両手を伸ばしてきた。その行く先は俺の首。どうやら俺を絞殺するつもりらしい。
 しかし温和しく殺されてやる趣味も無いし、明らかなる誤解と言い掛かりなので、俺はその魔の手をひょいと避けた。

「誤解だ、お前は捨てないよ」
「嘘だ、じゃあ何でそれが」
「新しい家族として連れて帰ったんだよ、お前は捨てない。俺はお前を裏切っていない。裏切るつもりも無い」

 信じてくれないのか? 最後にそう締め括り、俺はスキュラソウダコに歩み寄った。不安げに揺れる彼の目を見詰め、俺は裏切らない――ともう一度告げる。
 するとスキュラソウダコは、にっこりと微笑んだ。

「そうだよな、お前が俺を裏切る筈無いもんな。ごめんな、つい」

 えへへと可愛らしく笑うスキュラソウダコの頭を撫で、抱えたままだったスキュラメンダムを床に下ろした。

「これから家族になるスキュラメンダムだ、改めて宜しく。仲良くするんだぞ」
「おう、宜しくな」

 先程の態度と打って変わって穏やかに挨拶をするスキュラソウダコに、スキュラメンダムは顔面蒼白でぶるぶると震え、宜しくお願いします――と言って頭を下げた。
 完全に脅えている。あの高慢で尊大で不遜な振る舞い――表面上はだが――をすることで有名なスキュラメンダムが、脅えている。臆病で有名な筈のスキュラソウダコに。

「メンダム、家ん中案内してやるから付いて来いよ」

 人好きのする最高の笑顔でそう言ったスキュラソウダコは少し屈み、スキュラメンダムの手を優しく握った。
 するとスキュラメンダムは、びくりと震えて身体を硬直させた。だが暫くすると鰭をぱたぱたと動かし始め、ストールのような何かで顔を隠してこくりと頷いた。ストールの隙間から見えたスキュラメンダムの顔は、少しだけ赤い。
 その笑顔と可愛らしさに騙されてはいけない。さっきの態度を思い出せメンダム――と思いつつ、その手でころっと引っ掛かった俺が言う資格など無く、部屋に入っていく二匹を黙って見送ることしか出来なかった。


 兎に角、何だかんだで上手くやっていけそうで何よりである。あのスキュラソウダコも地雷さえ踏まなければ、あのように可愛らしい良い奴なのだ。
 家事も全部やってくれるし、機械の修理や改造も容易く行ってくれる。おまけに近所の奥様方からも「本当に良い子だよね」「壊れた電化製品を直してくれるし、感謝感激です」「うちの嫁と交換して欲しいくらいだわ」という御言葉を貰う程に評判も良く、良好な近所付き合いが出来てとても有り難い。このように、基本的には俺の良き相棒であり家族なのである。
 地雷さえ踏まなければな。
 表と裏、視点や立場が違えば評価も印象も変わる。ギャップ萌えとはこういうことなのだろう――と自分自身に言い聞かせ、俺は二匹の後を追うように部屋へ入った。

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