多角的価値観

 潮風が吹く、人工的なゴミが一つも無い美しい砂浜。落ちているのは海藻くらいで、偶に魚の死骸や得体の知れぬ骨が有るだけだ。
 文明に毒された地域の割には珍しい、それはそれは綺麗な海であった。
 恐らくこの地域には、ルルイエ支部が在るのだろう。でなければ、これほどまでに海が美しい筈が無い。
 地上で生まれ育ち、生活を営んでいる人間には、海の大切さや有り難さを理解している者は少ない。仕方無いのだ、そういう者は視野が狭いのだから。
 儂はゆっくりと砂地を踏み締め、海岸を当ても無く歩く。当てなど最初から無い。いや、要らないのだ。
 気儘に彷徨い、良いものが見付かればそれを絵にする。儂はそういう人間なのだから。

「――希望ガ満チ溢レタ海ダネェ」

 肩に乗せている飼い蛸のコマエダコが、海を眺めながら嬉しそうに呟いた。
 此奴は昔から良いものを見付けると、希望という言葉で表現する。希望を愛して止まないコマエダコにとって、希望という表現は最上級の讃辞だ。

「ああ、良い海だな」

 希望を追い求めて彷徨うコマエダコと、良いものを追い求めて彷徨う儂はよく似ている。
 だからだろうか。此奴を一目で気に入り、こうしてずっと連れ回しているのは。
 此奴自身も儂のことを気に入っているようだし、旅も好きなようだから、今のところ問題や諍いが起こったことは無い。
 まあ、利害が一致しているからだろう。儂やコマエダコが求めるものは、表現が違うものの、本質的には同じものだからな。

「――アレッ? 彼処ニ居ルノハ何ダロウ」

 そう言ってコマエダコが、儂の進行方向を触腕で示す。儂は目が致命的な程に悪いので、遠過ぎて何が居るのか判らない。

「何が居るんだ?」
「エットネ、多分人間――イヤ、アレハ『スキュラ』ダネ」

 スキュラ――スキュラか。儂もあまり見たことが無い、珍しい蛸だったな。上半身は人間で、下半身は蛸の触腕で出来ているという、冒涜的な生物だった筈だ。
 初めて見た時は驚いたものである。この世の悪夢かと思っていた頃もあったが、今の儂にとっては「良いもの」だ。
 そしてきっと、コマエダコにとっても――。

「――トッテモ、希望ニ満チ溢レタ蛸ダヨォ」

 やっぱりな。感性が同じだから、そう言うことは判っていた。

「そうか、そんなに良いスキュラか」
「ウン、凄ク素敵ナソウダコ君ダヨォ。希望ガ満チテイルヨォ」

 スキュラソウダコか。確かに、全体的に躑躅色の身体をしているな。歩いたお蔭で、漸く色が判ってきたぞ。
 それにしても――海産物なのに、海に入らず浜辺で佇んでいるとは。何か訳ありなのだろうか。

「おおい、スキュラや。スキュラソウダコや、一体其処で何をしている」

 歩み寄りながら声を掛けると、スキュラソウダコは此方にやっと気付いたらしく、酷く動揺した様子で儂を見詰めている。
 触腕をくねらせて距離を取ろうとしているところから察するに、どうやら儂は不審者だと思われているらしい。

「まあまあまあ、そう逃げようとしなさんな。儂は怪しい人間じゃあない。ちょっとした旅の画家でな。今はこうしてコマエダコと共に、諸国を行脚している途中なんだよ」

 肩に乗っているコマエダコの頭を撫でながら軽く自己紹介をすると、スキュラソウダコの警戒心が少しだけ薄れ、怖ず怖ずと口を開き始めた。

「お、俺はソウダコ、スキュラソウダコ、です。この海に、住んでます」
「ほう、この綺麗な海にかい」
「は、はい」

 何故こんなに怖がられているのだろうか。確かに儂は、普通の人間より少しだけ人相が悪い。
 しかしソウダコ種の悪人面と比べたら、儂なんて可愛いものだろうに。ソウダコ種は臆病な性質を持っていると云われているが、幾ら何でも脅え過ぎではないか。

「どうしたんだ、そんなに怖がって。儂はお前さんに危害を加えるつもりは無いぞ。何か遭ったなら、話くらい聞いてやるが」

 出来るだけ優しい口調でそう言ってやると、スキュラソウダコは身体を震わせて、目からぼろぼろと涙を零し始めてしまった。
 儂は慌てて懐からタオルを取り出し、スキュラソウダコの涙を拭いてやる。するとスキュラソウダコは首を横へ振り、申し訳無さそうに儂の手を握って動きを制した。

「だ、駄目です。タオルが汚れてしまいます」
「そんなこと気にするな。目の前で泣かれて放置出来る程、儂は薄情な人間じゃないんだよ」

 少し語気を強めて言えば、スキュラソウダコは口を噤み、儂の手を離した。儂は自由になった手でスキュラソウダコの顔を拭いてやり、そして頭をよしよしと撫でてやる。

「何が遭ったか話せ。楽になるぞ」

 肩をぽんと軽く叩いてやれば、スキュラソウダコはこくりと頷いた。




――――




 スキュラソウダコは、ずっと独りでこの海に住んでいるらしい。
 この地域にルルイエ支部が出来る、ずっとずっと前から。儂が生まれる前から此処に居たらしい。
 つまり、儂よりも遥かに歳上ということだ。見た目は儂の方が上なのだが――こういう時、冒涜的生物を少し羨ましく思ってしまう。
 そんなスキュラソウダコは、海面に浮かんでいる人工物や、沈んでいる人間の廃棄物が好きだった。
 中には汚いものや危険なものもあったが、それでもスキュラソウダコにとって、それらは「良いもの」だったのだ。家にそれらを持ち帰って、物を造ったりするのが好きだったらしい。
 しかし、ルルイエ支部が出来た日から、海は綺麗に清掃された。
 冒涜的生物達や人間達の手により、海は完璧に綺麗なものになったのだ。人工物や廃棄物の無い、綺麗な海に。
 そして、スキュラソウダコにとっての「良いもの」は、何もかも無くなってしまった。海面を見ても、海底を見ても、何処にもスキュラソウダコの求めるものが無いのだ。
 海が綺麗になったこと自体は、スキュラソウダコは「良いこと」だと思っている。しかしスキュラソウダコの「良いもの」は無くなってしまったのだ。
 その「良いこと」と「良いもの」の狭間で揺れ動く複雑な心境により、スキュラソウダコは綺麗な海を眺めながら、物思いに耽っていた――ということらしい。


 その話を聞いて、儂の視野も大概狭いなと思い知らされた。文明社会に対する反発心を少なからず抱えている所為か、そのような視点を考えることは出来なかった。
 自然のものが自然の儘に在ることこそが「良いもの」だと思っていた儂は、自然の中に有る人工物を「悪いもの」と決め付けていた。
 しかし、それは儂だけの視点だったようだ。このスキュラソウダコのように、自然の中に在る人工物を「良いもの」として好んでいる者も居るのだから。

「――俺、変な奴ですよね。綺麗な方が良いに決まっているのに、素直にそれを喜べないなんて」

 自虐的な笑みを浮かべて言うスキュラソウダコに、儂は首を横に振りながら口を開く。

「そんなことはない。それがお前さんの価値観なのだろう。変だなんて、自分で自分を否定しちゃあいけない」

 そう言ってやれば、スキュラソウダコは驚いたように目を見開き――すぐに目を細め、微笑んだ。

「ありがとう、ございます。話したら、何だか少し楽になりました」

 何処か少し憂いを帯びている笑みに、儂はどう返事をすれば良いのか判らなくなった。
 どうしたものかと悩んでいると、今までずっと沈黙を守っていたコマエダコが口を開く。

「ネェ、ソウダコ君。モシ良カッタラ、僕達ト一緒ニ旅ヲシナイカイ?」

 突然そんなことを言ってのけたコマエダコに、スキュラソウダコはまた目を見開いた。

「俺も、旅に?」
「ウン。絶対ニ楽シイヨォ。色々ナ希望ヲ見付ケルコトガ出来ルカラ、キット君ノ求メテイル希望モ見付カルヨォ」

 勝手に話を進めるな――とコマエダコに言いたいところだが、今更一人――いや、一匹? 増えようとも、別に構わない。
 旅は道連れ。人数は多い方が楽しいだろうからな。
 しかし――。

「――有り難い申し出だけど、やっぱり俺は此処に居るよ」

 スキュラソウダコは、旅に行くことを断った。

「ドウシテ? ソウダコ君ノ求メテイル希望ハ、此処ニ無インダヨ? ナラ他ノ場所ヘ行ッテ、希望ヲ探ス方ガズット有意義ダヨ」

 それでも食い下がるコマエダコに、スキュラソウダコは困ったように眉間を寄せて微笑む。

「そう、かも知れない。此処から出て旅をすれば、俺の求めている『良いもの』が見付かるかも知れない。けど、俺にとって『良いもの』が有るとか無いとか関係無しに、此処が故郷で死に場所なんだ。だから――」

 だから、悪いけど一緒には行けない――そう言ってスキュラソウダコは、海を――いや、何処か遠いところを見詰め、寂しそうに呟いた。

「デ、デモ――」
「コマエダコ」

 尚もスキュラソウダコの説得を試みようとするコマエダコを制し、儂はスキュラソウダコに軽く頭を下げる。

「すまないな、此奴しつこくって」
「いえ、良いんです。誘って貰えたのは嬉しかったので」

 そう言ってスキュラソウダコは、牙を剥き出しにして笑う。そんなスキュラソウダコを見て、儂は「良いもの」を見付けたと漸く気付き、こう言った。

「――お前さん、ちょっと絵のモデルになってくれないか?」




――――




 絵を描き終わった儂は、スキュラソウダコと別れ、また旅を再開した。
 肩にはいつも通り、コマエダコが乗っている。いつもより少し、元気が無さそうだが。

「どうしたんだコマエダコ、何だか元気が無いように見えるぞ」

 そう尋ねると、コマエダコは大きな溜息を吐き、がっくりと肩――いや、触腕を落とした。

「元気ガ無イヨウニ見エル? 見エルンジャナクテ、元気ガ無インダヨ。絶望的ダヨ」
「何が絶望的なんだ」
「ソウダコ君ガ一緒ニ来テクレナカッタカラダヨォ」

 そう言ってコマエダコはまた溜息を吐き、不満をぶち撒けるように喋り始める。

「凄ク素敵ナソウダコ君ダッタノニ。一緒ニ行ケナイナンテ、絶望的ダヨ。一緒ニ御飯ヲ食ベタリ、オ喋リシタリ、寝タリシタカッタノニ」
「何だお前、もしかして彼奴に惚れたのか」

 冗談半分で揶揄すると、コマエダコは顔を真っ赤にして触腕を振り回し始めた。べちべちと儂の頬に当たって痛い痛い。

「ソ、ソンナコト無イヨ! 種族ガ違ウ上ニ、僕ミタイナ屑蛸如キガ、アンナニ素晴ラシイソウダコ君ニ好意ヲ寄セルナンテ、烏滸ガマシイニモ程ガアルヨ!」

 ぎゃあぎゃあ騒いでいるところを見ると、どうやら図星だったようだ。蛸の癖に一人前の恋愛感情を持ちやがって。全く、面白い奴だ。

「惚れたんだな」
「ホ、惚レテナイヨ! 僕ナンカガソンナ、高尚ナ感情ヲ持ッテイル訳ガ」
「はいはい、とりあえず今はこの絵で我慢してろ」

 そう言って先程スケッチブックに描いた絵――スキュラソウダコの絵を鞄から取り出して見せてやると、コマエダコは黙り、うっとりと絵を見詰め始めた。
 やっぱり惚れたんじゃないか、素直じゃない奴だな。

「儂の人生もまだまだ長いし、お前もまだ若いんだ。また会える日も来るさ」
「――本当ニ?」

 コマエダコが絵から目を離し、儂を見詰める。期待や希望を宿した、きらきらと輝く瞳で。

「ああ、勿論だ。だから長生きしろよ。お前がぽっくり逝ってしまったら、会えるものも会えなくなってしまうからな」
「ウンッ! 僕、長生キスルヨォ。寿命ヲ限界突破シテ、神話生物ニナルネ!」
「ははは。お前がそれを言うと、洒落に聞こえないから止めてくれ」

 からからと笑いながらスケッチブックを鞄に戻し、儂はコマエダコの頭を撫でてやった。

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