蛸の紐

 

 突然で申し訳ないが、俺は人生を強制シャットダウンさせることに決めた。


 幼少の頃から両親に「産まなければ良かった」と忌み嫌われ、友人も出来ず、俺という人間は誰からも愛されなかったのだ。
 なので、このまま独り惨めに生きるくらいなら、来世に期待しようと思ったのである。
 死ぬことは怖い。だけど、生きている方がもっと怖い。皆が俺を嘲笑い、見下し、貶してくる方が怖いのだ。
 だから、俺は死ぬ。生命の根源と云われている母なる海に沈み、新たな命となって遣り直すのだ。


 ざぶん、ざぶんと。寄せては返す波に足を晒す。
 遺書は無い。この世に未練が無いから。
 帰る家は無い。この世に未練は無いから。
 世間から捨てられた俺は、何もかも捨てたのだ。捨て返してやったのだ。そう、捨て返して――捨て返し、て――。


 ――嗚呼、何て惨めな最期なのだろうか――。


 せめて最期くらい、誰かに愛されて逝きたかった――。
 全身を海へ沈め、俺は息を全て吐き出した。




――――




 ぴちゃりと、頬に冷たい水滴が落ちた。吃驚して跳ね起きると、何かに額を打ち付けて――何かが絶叫した。
 痛む額を押さえながら見遣ると、その何かは人間――いや、下半身が蛸の触腕で構成されたスキュラソウダコだった。上半身は人間そのものだったので、一瞬騙されたのだ。
 額を押さえて呻くソウダコを無視し、辺りを見渡してみる。どうやら此処は洞窟のようだ。天井が吹き抜けになっていて、空が見える。多分今は昼くらいだろう。
 しかし――水溜まりのようなものが一箇所あるだけで、何処にも出入り口らしきものが見当たらない。
 此処はあの世かとも思ったが、先程の痛みからして恐らく違う。全身ずぶ濡れであるし、入水自殺を図った時と同じ服装だからだ。
 死んだ時と同じ状態で召されたという発想も有りだが、現実的に考えて――死に損なったと考えるのが妥当だろう。
 嗚呼、最悪だ。

「――っ、お前この野郎! 折角助けてやったのに、頭突き食らわせてくるって何だよ! 謝れ馬鹿っ!」

 ソウダコが自身の額を撫でながら涙目で俺を睨み、牙を剥き出しにしながら怒鳴り散らしてきた。
 助けてやった?
 つまり――死に損なったのは、此奴の所為ということか。

「余計なことを」

 忌々しさを込めて吐き捨ててやると、ソウダコが噛み付かんとする勢いで俺に飛び付いてきた。
 いっそその牙で、俺のことを噛み殺してくれれば良いのに。

「おまっ、お前、馬鹿じゃねえの? 何だよ、死にたかったのかよ!」
「ああ、死にたかった。だから入水自殺をしたのだ」
「なっ――」

 直球でそう言ってやれば、ソウダコは困ったような――泣きそうな表情を浮かべ、俺の頬をばしりと叩いた。手加減したのか、あまり痛くなかった。

「お前――お前っ、馬鹿だろ! 死んだら終わりなんだぞ、何もかも終わるんだぞ! したいことも出来なくなって、何も出来なくて――兎に角、死ぬのは駄目だ! 絶対に駄目だ!」

 語彙の少なさに吹き出しそうになったが、あまりにも真剣に諭してくるものだから――情けないことに、涙がじわりと込み上げてきた。
 これ程真剣に俺を諭してくれる相手が、今まで居ただろうか。
 死ぬなと言ってくれる相手が、居ただろうか。
 いや――誰も居なかった。俺が悩んでいても、誰も関心を示してはくれなかった。俺が助けを求めても、誰も助けてくれなかった。
 俺は、誰にも相手にされたことがなかった。
 なのに此奴は、初対面である俺の頬を叩き、死ぬなと言っている。何の縁も無いこの俺に、死ぬなと言ってくれているのだ。
 こんなに嬉しいことが、今まであっただろうか。いや、なかった。俺には、なかった。
 嬉しい。素直に、そう思える。嬉しい、嬉しいのだ。
 だけど俺は、こんなこと初めてなので、どう表現すれば良いのか判らない。判らない。判らない所為で、泣くことしか出来ない。
 嬉し泣きなんて初めてだ。どうすれば良いのか、判らない。判らないのだ。

「え、えっ、ちょっ――ご、ごめん、痛かったのか? な、泣かないでくれよ。ごめん、ごめんっ!」

 俺が泣き始めた理由を、ソウダコは自分の所為だと勘違いしている。訂正したい。お前は悪くないと、訂正して遣りたい。
 だけど涙が止まらなくて、嗚咽が止まらなくて、ちゃんとした言葉に出来ない。礼を言いたいのに、俺の為に怒ってくれて有り難うと伝えたいのに――どうすれば良いか、俺には判らない。
 そっと、ソウダコが俺の頭を撫でた。壊れ物を扱うように、優しく丁寧な手付きで。

「ご、ごめんな。でも、自殺なんてしたら駄目だ。それだけは判って欲しい」

 頭を撫でて貰うなんて、小さい頃に亡くなった祖母が撫でてくれた時以来だ。こんなに温かくて、心地が良いものだったのか。
 思わず俺はソウダコに縋り付き、みっともない声を上げて咽び泣いた。
 久しぶりに触れた人肌は蛸特有の滑り気を帯びていたが、不思議と不快感は覚えなかった。

「――よしよし」

 ソウダコが俺を抱き締め、労るように背中を撫で擦ってくれた。その慈しみが嬉しくて、俺はソウダコを抱き締め返し、擦り付いて甘えてみた。
 他者に甘えたことなど無いので、この遣り方で正しいのか判らない。判らないが、ソウダコが何も言わずに俺の背中をぽんぽんと叩いてくれたので――多分、間違ってはいないのだろう。

「何が遭ったか知らねえけどさ、俺で良ければ助けてやっから。落ち着いたらさ、こっから出してやるから」

 ――此処から、出してやる?
 俺を、か。そうだろうな、俺のことだろう。
 だけど俺には、俺には――帰る場所が無いのだ。
 のこのこ帰って来たところで、誰も俺を受け入れてはくれないだろう。
 何故死ななかった、何故生きて帰って来た――と無言の圧力を掛けられるのが関の山だ。俺にはもう、あの世界に居場所が無い。
 もう、何処にも――。

「――何処にも、居場所が無いのだ」

 ぽつりと漏らした俺の言葉に、ソウダコは一瞬だけ身体を強張らせる。
 そしてうんうんと唸り始め、よし――と小さく呟くと俺の身体を引き剥がし、俺の肩に手を置いて顔を見詰めながら言った。

「じゃあさ、俺と一緒に暮らそうぜ!」

 は――と、俺の喉から息が漏れ出た。
 一緒に暮らす? この俺と?
 何の取柄も長所も無い、置物よりも価値が無い俺と?
 そんな、そんな――申し訳無さ過ぎるではないか。

「いや、良い。それではお前の迷惑に――」
「ならねえっつうの! 何だよ、俺と一緒じゃ嫌ってことかよ! 蛸嫌いなのかよ!」
「いや、違う。嫌いじゃない。そうではなくてな、申し訳無いから断って――」
「うっせ、うっせぇっ! 何が迷惑だからとか、申し訳無いからだよ! そうやってぐだぐだ言い訳付けて、逃げようとすんなよ!」

 その発言に、俺はぐうの音も出なかった。
 言い訳。そう、言い訳だ。俺は言い訳ばかりを並べ立てて生きてきた。
 親に愛されなかったから、友人が出来ない。友人が出来なかったから、誰にも必要とされない。誰にも必要とされないから、愛を知らない。愛を知らないから、恋人が居ない。
 そうやって何かに付けて言い訳をし、逃げ続けてきた結果――俺はもう、後戻り出来なくなってしまったのだ。
 もう、あの世界には戻れない程に。
 だけど――だけど此奴は、そんな俺に「一緒に暮らそう」と言ってくれた。手を差し伸べてくれた。
 その手は正に、極楽から垂らされた蜘蛛の糸。俺にだけ垂らされた、最初で最後の慈愛。
 そんな手を振り払える程、俺は強くないので――。

「――ふ、不束者ですが。宜しくお願い、します」

 そう言ってソウダコに、頭を下げることしか出来なかった。




――――




 あれから何日――いや、何週間経っただろうか。俺はソウダコとそれなりに上手く遣っている。
 出入り口があの、水溜まりと思っていたところ――水中通路しか無いので、俺一人では外に出ることは出来ないが。
 情けない話だが、俺は全く泳げない金鎚なのだ。
 おまけに三十秒間息を止めるのも辛い程、肺活量も壊滅的状態である。なので、外に出る時はソウダコの助けを借りている。
 そんな俺だが、一応洞窟の掃除をしたり、ソウダコの持ってくる未知の魚介類や植物や肉を調理――と言っても焼いたり煮たりするだけだが――して、一緒に食事をしている。
 因みに、夜も一緒に寝たりしている。
 初めの頃は、ぬるぬるした身体のソウダコと添い寝をするのに抵抗を覚えていたが、今ではその滑りが癖になってしまい、ソウダコに抱き竦められていないと寝られなくなってしまった。
 それにソウダコの体温は高く、布団や暖房器具が無いこの洞窟では、この温もりだけが俺に癒しを与えてくれる。
 温かい。今まで味わったことの無い、他者の温もりだ。

「――なあ、やっぱり向こうに戻りたいとか、思ってないか?」

 触腕で俺を包みながら、ソウダコが突然尋ねてきた。その声は小さく、少しだけ震えていた。

「俺さ、ずっと独りで此処に居たからさ。こうしてお前と暮らすの、すっげえ嬉しいんだけど」

 ぎゅっと、触腕が俺の身体に絡み付く。その絡み付き方はまるで、俺に何処へも行って欲しくないかのようで――。

「でも、お前が帰りたいって言うなら、俺は――」
「此処が良い」

 俺ははっきりと、そう言い放ってやった。

「お前が何を思ってそのようなことを聞いたのか判らないが、俺は向こうよりも此処が良い」
「で、でもさ。此処より向こうの方が、色々と物が有って便利なんだろ? 此処、何もねえよ」

 ソウダコが申し訳無さそうに、寂しそうに呟く。
 何も無い? 嗚呼――何を言っているのだろうか、この蛸は。

「――物があるだけで、彼処には何も無い。便利な物が有るだけで何も無い、虚ろな世界だ。だけど此処には――此処には、お前が居るではないか」

 そう言って抱き締めてやれば、ソウダコは恐る恐る抱き締め返し、俺の様子を窺うように顔を見詰めてきた。

「俺だけしか、居ねえじゃん」
「お前さえ居れば、良いのだ」

 そう。俺を受け入れてくれて、必要としてくれて、愛してくれるお前さえ居れば――あんな世界、どうでも良い。どうでも良いのだ。

「ソウダコよ、俺はお前さえ居れば良いのだ。だからもう、そのような愚問をするな。俺は今が、今が幸せなのだから」

 海水に濡れたソウダコの髪を指で梳き、そっと触れるだけの口付けを落とす。するとソウダコは頬を赤く染め、甘えるように俺の胸へ擦り付いてきた。

「お、俺もさ。今、すっげえ幸せだからっ」

 それだけ言うとソウダコはそれ以上何も言わず、じっと俺の胸に顔を埋めて動かなくなった。
 安らかな呼吸音が聞こえるので、恐らく寝てしまったのだろう。
 俺は一日の大半をこの洞窟で過ごしているが、ソウダコは食料を穫りに毎日出掛けているので、疲労が溜まっているのだ。
 代わって遣りたいが、俺は泳げない。かと言ってあの世界には、俺の居場所も住所も無い。もしかしたら死亡扱いにされ、戸籍すら残っていないかも知れない。
 そんな俺が向こうに戻り、働いて食料を持って来ることが出来るのか? いや、無理だろうな。
 情けない。これではまるで、まるで――紐男ではないか。

「――すまない」

 悔しさと歯痒さに身を震わせながら謝ると、寝てしまっている筈のソウダコが、小さく首を左右に振った――ような気がした。

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