三、四日目B
――なんて、現実逃避している場合じゃあない。未来より今、明日より今日なのだ。
まずこの覇王様を何とかしなければ、ウサミを解体するどころではない。
――さて、如何にこの危機を切り抜けようか。
手っ取り早い手段としては、田中の股間を蹴り上げる――という選択肢がある。
しかし、男だった俺にはあの辛さが痛い程よく判るので――出来るならそれは、どうしようもなくなった時の最終手段にしたい。
ではどうするか、それが問題だ。
温和しくされるがままになれば、最悪の場合俺は――童貞より先に、処女を失うことになるかも知れない。
あくまで最悪の場合だ。田中はそこまでしないと信じている。いや、信じたい!
けれども、田中のあの目は――完全に雄の目をしていた。駄目だ、温和しくしている訳にはいかない。
ならどうする? また殴るか? いやいや駄目だ。火に油を注ぐことになるのは明白だ、却下。
なら大声を出すか? それもありだが――こんなところを誰かに見られるのは恥ずかしい、保留。
なら――どうすれば良い。田中の性欲を鎮め、且つ平和的に解決するには――どうすれば良いのだ!
「左右田」
全身が痒くなるくらいに甘ったるい声で、田中が俺の名前を愛おしそうに囁いた。
ああ、何でこいつは無駄に良い声をしているのだろうか。不覚にもときめいてしまったではないか。悔しい。
段々と、田中の顔が近付いてくる。拙い、こいつキスするつもりだ。逃げねば、逃げなければならないのに――。
ああ、何でこいつは無駄に精美な顔立ちをしているのだろうか。
人間は中身だ、外見なんて飾りに過ぎない――と思っていたのに、俺は――田中というよく出来た外装の人間に、見惚れてしまっている。
田中の目がゆっくりと閉じる。意外に睫毛長いんだなあ――なんて暢気なことを考えている間に、俺の唇に田中のそれが押し付けられた。
――うわあい、キスされた。
固いかと思っていたのだが、田中の唇は柔らかかった。それに――暖かい。生きているのだから当たり前のことなのだが、氷の覇王などと名乗っているだけに――少し滑稽な感じがした。
というか、こいつはいつまでキスしているつもりだ。さっさと退けよ。息が出来ないだろ。
いや、鼻ですれば良いのは解っているのだが、鼻息を当てるのは嫌というか、恥ずかしいというか――とにかく嫌なのだ!
それにこいつも息を止めているし。俺だけ息をするのは何だか悪い気が――って、おい。もう三十秒は経ったぞ。流石にきつくなってきた。早く退けって!
段々むかついてきた俺が田中の胸を平手で叩くと、田中は弾かれたように飛び退き、床に尻餅を搗いてからストールを引き上げて顔を隠した。
恥ずかしがるならキスするな。
「――ったく。女を襲うとか、男として最低だぞ」
「き、貴様は男だろう」
「中身はな」
身体はか弱い女なんだよ――と言いながら、俺は上半身を起こした。
「そりゃあ俺は男だよ。だけどな、今の身体は女なんだよ。男に押し倒されたら、碌な抵抗も出来ねえ」
まあ、お前の股間を蹴り上げても良かったんだけどな――と睨んでやると、田中は反射的に己の股間を手で隠した。流石の覇王様も、そこを蹴られるのは拙いらしい。
「――とにかく。そんなか弱い俺を襲ったお前は最低だ。反省しろ」
「うっ――ごめんなさい」
意外と素直に謝ったな。何だかんだで、悪いことをしたという自覚はあるのか。
ううん、どうしたものか。いつも通り高慢に振る舞ってきたら、思い切り股間を蹴り付けてやるつもりだったのだが――。
「本当に反省してんのか?」
「して、います」
ああもう、そんなに縮こまるなよ。こっちが悪いみたいじゃあないか。
――ぐぬぬ、どうしようか。
許してやるというのが一番良い選択なのだろうが――それでは俺の気が済まない。
少なからず恐怖と期待――じゃなくて、恐怖を感じたのだから。そう、恐怖だ。期待なんて微塵もしていない。していないったらしていない!
――そうだ、恐怖したのだ。精神的苦痛を強いられたのだ。これは罪だ、有罪だ!
「――反省してるなら、それ相応の罪滅ぼしをすべきだよな?」
「罪、滅ぼし?」
そう、罪だ。罪は償わなければならない。
「俺様は、どうすれば良いのだ」
「償え」
「ど、どうやって」
ああもう――察せよ!
「責任取れっつってんだよ」
「責、任? そ、それはつまり――」
そう言うや否や、田中はストールを引き下げ、紅潮した面を晒して俺を見た。その目はまるで――玩具を買って貰える約束を取り付けた子供のように、輝いていた。
「――俺様のものになるということだな!」
「惜しい! お前が俺のものになるんだよ」
「何、だと?」
大袈裟なくらいに驚く田中を無視し、俺はゆらりと立ち上がり――田中を見下すようにして睨め付けた。
「当たり前だろ。どっちの立場が上かくらい、お前にも判るだろ?」
なあ、咎人さん――と意地悪く言ってやれば、田中は先程よりも更に縮こまり、はいと小さく返事をした。
――あれ、何か超楽しい。
俺は軽度の被虐嗜好者である筈なのに、なかなかどうして楽しいではないか。高慢な人間の鼻っ柱を圧し折るのは、こんなにも爽快なのか。
やばい、癖になりそうだ。加虐嗜好に目覚めそう。今なら西園寺の気持ちが判る、とても楽しい!
「――さて、田中」
「はい」
「腹減ったから、ダイナーへ行くぞ」
「判り、ました」
――ああ! あの田中が、あの田中が従順に返事をしている!
何だこれは、全身がぞくぞくする。これは――快感か!
やばい、とてもやばい。これは嵌る。首輪でも付けて、島中を引き摺り回したい気分だ!
飼育委員に首輪、何と滑稽なのだろうか!
「ふ、ふふふ――」
「そ、左右田?」
やばい、笑いが込み上げてきて止まらない。田中が恐ろしいものを見るような目で俺を見ているが、全く気にならない。
それ程までに俺は今、楽しくて楽しくて仕方ないのだ!
「田中」
「は、はい」
「どんな色の、首輪が良い?」
「え――」
血色の悪い田中の顔色が、白を通り越して真っ青になった。
――――
田中が左右田に惚れていることは例の件で知ったし、田中が酔い潰れた左右田の様子を見に行ったのも、想い人が心配なんだろうなあ――くらいの認識でしかなかった。
のだが。
「たぁなぁかぁっ。ようく似合ってるぜ、その首輪」
「ありがとうございます」
――どうしてこうなった。
いや、本当に何があったんだ。
左右田のところへ行ってから、現在――夕食時間――までの間に、一体田中に何があったというんだ。
また酔っ払っているのかと思ったが、全く酒臭くないので――信じられないし信じたくないが、左右田は素面だ。田中も多分、素面だ。こいつも酒臭くないし。
それにしても、酷い絵面だ。黒い首輪を付けられたヴィジュアル系男に、首輪から垂れ下がった鎖を握るゴスロリ女。
此処はコスプレ会場ですか?
いいえ、此処はレストランです。そして今、修学旅行メンバー全員でお食事中です。
うん、余所でやれ。
「左右田、何があったんだ」
なけなしの勇気を振り絞って、俺は左右田に声を掛けた。左右田と田中以外からの「お前、聞いてみろよ」という無言の圧力に堪え切れなくなったからだ。
ああ、相談窓口は辛いなあ。
「何があった、ってか」
こいつに聞いてみろよ――と言って、左右田は鎖を引っ張った。首輪に繋がったそれを引っ張られたことで、田中が小さく呻いた。
「だ、大丈夫か?」
「ふっ。この程度、蚊ほども感じ――ぐええっ」
田中が喋っている途中で、左右田が鎖をまた引っ張った。
「説明しろって」
「は、はい」
蚊の鳴くような声で、田中は返事をした。
もう止めたげてよぉっ! 田中のライフはもうゼロだぞ!
――と言ってやりたかったが、俺まで首輪を付けられる羽目になるのは嫌なので、何も言わずに見守ることにする。
薄情? あはは。人間皆、我が身が一番可愛いんだよ。
「日向よ。俺様は左右田に対し、狼藉を働いてしまったのだ。故にこうして、罪を償っているのだ」
「狼藉?」
「こいつ、俺のこと押し倒しやがったんだよ」
おまけに唇まで奪いやがって、初めてだったのに――と言いながら、左右田は鎖を引っ張った。
「マジか」
「マジだマジ」
何だ、じゃあ自業自得じゃないか。
俺は田中への憐憫の情をさっさと切り捨て、食事を再開しようとした――その時、田中が驚いた様子で口を開いた。
「は、初めてだとぉっ!」
貴様、唇と唇が触れ合いし魔の儀式は初めてだったのか――と、やけに興奮した様子で田中が吼える。
「そ、そうだよ、何か悪いか!」
「悪くない、悪くないぞ左右田よ! ふはっ、ふはははっ! そうか、俺様が初めてか!」
先程まで借りてきた猫状態だったのに、最早その面影は一切なく――普段通りの田中が、そこに存在していた。
「な、何だよ! 馬鹿にしてんのか!」
「ぐえっ、ふはははっ! 馬鹿になどぐえっ、していない!」
鎖を引っ張られても尚、田中の暴走は止まらない。
ああ、流石覇王様だ。首輪だけでは、御することは出来ないんだなあ。
「っだあああ、もうっ! 静かにしろよ馬鹿! お前は俺のものだろ、従えっつうの!」
「はい!」
――ちょっと待て。何か今、左右田の口から爆弾発言が飛び出た気がするんだけど。
というか田中、さっきまであんなに悲壮感が溢れていたのに、何でいきなりノリノリになってんだよ。目覚めてしまったのか、そっちの世界に。
――ああ、二人が遠い世界へ逝ってしまった。
「――何というか、程々にな」
何をだよと左右田が聞いてきたが、俺はもう返事をする気力も体力もなかったので――左右田を無視し、食事を再開することにした。
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