昨日、お昼休憩をどのように過ごしたのか私はあまり覚えていない。
ただ隣の席でいつも携帯ばかりを気にしている若い後輩が、「先輩、顔真っ青ですよ」とドン引きした表情で伝えてきたので、とにかく酷い顔をしていたということは事実だ。

昼の休憩前に窓から路地裏を覗くが、あの男の姿はない。
見知らぬ女が急に話しかけてきた挙句に食べ物まで差し出してくるのだから、あの場で不審者認定されるのはまぎれもなく私だったろう。
彼がいなくなってしまった事実は、日常において些細なことだったかもしれないが、今でも感覚として思い出す、あの背筋をかけあがる謎の感覚は一生忘れることはできないだろうし、できることならばもう一度彼と対面したいというのが正直なところだ。

あの時ビニール袋が崩れ去った光景を改めて思い出すと、あれはきっと彼の『個性』だったのだろう。今や全人類の8割が何らかの特異体質をもつこの社会ならば、あの能力も驚くことではないのだろうが、如何せん、見たものと同じ色に瞳の色が変わるという何とも使い様のない個性をもつ私にとっては、テレビでよく見る素晴らしい個性を持つ『ヒーロー』のようにも見えた。

無個性ではないものの、没個性である私にとって、昨日の情景はやはり忘れることはできない。また彼を遠目でいいから見ていたいとぼんやりと思う私は、やはり大衆の中に埋もれるモブの1人であり、テレビから流れてくる「ヒーロー大活躍!」の言葉を感嘆を漏らしながら聴いていることしかできない。

*

彼を見なくなって数週間、私は特に変化もなくただ淡々と毎日を消化して生きていた。
1つ変わったことと言えば、あの路地裏でお昼を食べるようにしたことぐらいだ。

彼がまたここにやってくるかは分からないが、きっかけは少しでも多い方がいい。
というか、彼が現れそうな場所も何も分からないから、この場所でストーカーのように待ち伏せをしていることしかできないのだが。

あの日彼にぼろぼろにされてしまったのと同じサンドイッチを食べながら、野菜ジュースを傍らに置く。
ここはお世辞にも空気がいいとも、ご飯が美味しくなるとも思えない場所だったが、男の自慢話と陰口、仕事の愚痴ばかりしか話さないあの空間で愛想笑いを浮かべているよりは、きっと楽しく食事ができているだろう。
黙々とサンドイッチを口に運んでいた時だ。

黒い靄のようなものが発生したと思えば、その中からあの男がずるりと這い出してきた。

あまりにも予想外の登場の仕方に私も驚いたが、彼の方が驚いたらしい。
彼がいつも座っていた場所を陣取って、間抜けな顔をしながらパンを口に運ぶ私を見るなり、彼は大きなため息をついて首筋をガリガリとむしりはじめた。

「あ〜〜〜〜〜…お前あの時の変な女だろ、何?ストーカー?」

ガリガリガリガリとひたすらに掻き毟られた細い首には少し血が滲んでいるようにも見える。これ以上彼をイラつかせるわけにはいかないとこの場から逃げ出そうとすれば、簡単に手首を掴まれた。

その瞬間、あのビニール袋が崩壊していく様子が脳裏をよぎり、自分の手首もそうなってしまったかと恐る恐る視線を下げると、強く掴まれたせいで若干変色しているが、まだ繋がったままの私の手がそこにあって酷く安堵した。

「何逃げてんの?俺を無視するなよストーカー女。答えないならこのまま殺すぞ」

低く、静かだが、かなりイラついている様子の彼に「…あなたと話したくて」と呟くと一層手首を掴む力は強くなった。

「はあ?お前、何?俺のこと知ってるの?」

壊されなくても、このまま血が止まってしまうのではないかというぐらいに強く捕まれた手首は悲鳴をあげている。もちろん、このままあの時見たように壊されてしまうのではないかという恐怖も、”日常にちょっとした刺激を与えるため”では済まされないような人物に声をかけてしまったのだという焦りもあるが、それ以上にあの時背筋に感じた感覚を再び味わっている喜びの方が断然大きい。
何もできない、何か考える能力もない、色々なものに埋もれた私にとって、奇異で特異な刺激を与えてくれる彼は、まぎれもなく私のヒーローなのだ。

「あなたは、私のヒーローなんです」

その言葉を聞くと彼は思い切り腕を振り払ったかと思うと、怯えたような表情で私を見た。

「……何だよそれ、俺がヒーロー?」

彼に離された手首をさすると、骨にまで響くような鈍い痛みがありありと残っている。
先ほどまでの威圧するような雰囲気から一変して、泣きそうな、保護を求めている子どものような幼さを感じさせる表情で首を掻き毟り続ける彼は、一メートルほどしか離れていない私にも聞こえないぐらい小さな声で何かをぶつぶつと呟いている。

あまりの異様さに声をかけようとすると、路地裏の先から『死柄木弔、帰りますよ』と低い男の声が聞こえた。

ふらりとその声の聞こえる方に足を進めていく彼は、私を顧みることはない。
黒い靄に彼が飲み込まれていく間際、ぼとりと彼のポケットから落ちた周囲の物とは全く異なる異彩を放つ『手』を拾い上げながら、きっとまた彼に会うことになる。

そう、私は確信していた。

 

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