月曜日早朝。目が覚めた瞬間は、この世で最も憂鬱な気分だ。だからこそ普段より念入りに身支度を整えることで、そんな気分を少しでもアゲていくのが私の日課となっている。
 まずはみな実様愛用の炭酸ガスパックを貼り付けて、肌にイキイキとした透明感を与えてやる。パック後の肌を整えた後は、長年愛用の下地でトーンアップし、パウダーでツヤ感を出していく。アイシャドウはこの春の新色で、繊細なカラーパールを中心とした四色をセットしたお気に入り。透けるような色のレイヤードでまぶたを染めるように彩り、艶やかな奥行きを感じる目元を演出する。アイライナーとマスカラでぱっちりと大きな形に仕上げて、パチパチ、と二、三回瞬きをする。チークを軽くのせ、最後にマット仕上げのフィックスミストをプッシュすれば、私の顔面は完成だ。唇の色は最後にのせる。今日は肌の調子が良い。たったそれだけでのことで、女はテンションが上がる生き物だ。まあ、その逆も然りだが。
 髪を巻いてセットして、白のボウタイシャツとベージュのパンツスーツに着替えていく。25歳の誕生日に親がプレゼントしてくれたHウォッチを身につけて、鏡の前での最終チェック。……やはりオーダースーツはとくに見栄えが良い。これを着ていると自然に背筋が伸びて、良い女の気分になれる。そんな高いスーツ、別に誰に見られているわけでもないのに。なんて思う人もいるかもしれないが、実際は、ちゃんと見てくれる人もいるのだ。だから今日は余計に気合いが入った。……あんな風に褒められたら、誰だってそうなるはずに決まってる。
 ヒールは七センチ以上を好んで履いた。元々私は身長がある方なので、電車の吊革に頭がいちいち引っかかるくらいの高さだ。もちろん足は疲れやすいが、とにかくスタイルが重視。オシャレは我慢。今まで何百回と心に命じてきた。
 朝は基本的に何も食べない。会社近くのカフェでコーヒーをテイクアウトしてオフィスに持ち込む。そんないかにも都会OLっぽい暮らし方が、私は大のお気に入りだった。

 極力、時間には余裕を持って行動している。ギリギリの生活をしていると、心の豊かさが失われていく気がするからだ。肌調子に一喜一憂する乙女心、朝の気温と空気の匂いに季節を感じる情緒、いつものお散歩コースを歩くわんちゃんから得られる癒し、人がまばらなオフィスで過ごす静かなコーヒータイムの優越感。その一つ一つが、私という人間を構成する一部分となっている。

 今日は化粧がサクサク上手くいったので、いつもより早めに家を出た。扉を閉めて鍵をかけ、ガチャガチャと二度確認する。ゴミは昨日の夜に出したからOK。傘は、確か今日は大丈夫だったはず。諸々確認してからバックを左肩に掛け直して、かつん、とヒールを鳴らして一歩踏み出した。ちょうど、その時だ。


「…………っと、あれ」


 ガチャ、と前方の扉が開いた。私はとん、と反射的に立ち止まる。まあ、この、異常なまでのエンカウント率は何だろう。ゲームでいうところの、強制イベント的な何かだろうか。

「…………あのさ、もしやわざと?」
「流石にそれはない」

 意図的に怪訝な顔を作ると、鉄朗くんは笑いながらも否定した。もちろん本気で言ったわけじゃない。私は出勤時間がいつもまばらなので、今まではなくとも、いつかこういう事が起きる可能性は確かにゼロじゃなかった。それにしても、だ。

「だってまさか月曜朝イチで会うことある?」
「俺はいつもこの時間だし」
「…………ああ、そうなんだ。わたしはたまたま」
「んじゃ運命ってことで」

 軽々しく運命なんて台詞を口にする。朝っぱらから鉄朗くん節はご健在だ。誠実は誠実なのだが、なんかこう、女の子がキュンとときめくような台詞を知っているというか、それを言うタイミングが適切というか。下心を感じさせないのに、女の心を揺さぶる天才というか。わざとでもそうじゃなくても、どちらにせよやはり相当罪深い男である。

「なまえさんって職場どの辺?」
「西新宿の方。最寄りから電車だよ」
「お、近いじゃん。……俺今日外回りだから車使うんだけど、良かったら乗ってかない?すぐそこのパーキングに止めてあんだけど」
「え?」
「なまえさんに話したいことあるし。時間さえヘーキなら」

 エレベーターに向かって歩く最中、鉄朗くんがまた突拍子もないことを言い出した。まさかの強制イベント続行のパターンである。時間には余裕があるし別に断る理由もないのだが、素直に頷いていいものかどうかも悩む。

「……あー実は今日取引先に手土産持っていかなきゃなんだけどさ、何買うか全然決めてなくて。お力をお貸し願えないかと」
「……ああ、まあそういうことなら。てか別にラインで送るけど?」
「あと、次のデートのお誘いも兼ねて。バレー見に行きたいって言ってたろ」

 鉄朗くんが下へ降りるエレベーターのボタンを押す。そして理由に理由を付け加えてきた。別に頑なに断りたいわけじゃないが、鉄朗くんと二人きりで車に乗るというのを想像すると、なんかアレだ。

「車とか緊張するんだけど」
「なまえさんが?まっさか〜」
「……じゃ、私はこれで」
「おい待て待て待て。閉めようとすんな」

 ドアの開いたエレベーターに真っ先に乗り込んで、閉まるボタンを連打した。鉄朗くんはドアに手を差し込んでそれを阻止する。朝から元気な大人たちである。

「うそうそ。別に運転する俺にときめいちゃってもいいからさ、乗ってってよ」
「それ自分でいいますかね」

 二人並んでエレベーターで下まで降りていく。まあそこまで言われたら仕方ない。鉄朗くんの運転姿にときめかない自信はなかったので、とくべつ否定もしないでおく。そんな私の気持ちを察したのか、鉄朗くんはくっくと喉を鳴らして楽しそうにしている。

「バレー、いつなんだっけ?Vなんとかってやつの決勝戦なんだよね」
「三末あたり。場所は有明」
「土日?なら全然いけるはず」
「おっしゃ。じゃあ決まり」

 するっと予定が決まってしまった。念の為、スマホのカレンダーに予定をメモしておく。私は土日祝は基本的に休みなので問題はないが、鉄朗くんは本当に大丈夫なのだろうか。あれだけ仕事が忙しいと言っていたが、まあ、バレー観戦なら彼のいう仕事の内に入るのだろうか。
 鉄朗くんの言った理由の内一つをエレベーター内で既に消費してしまったわけだが、とくにツッコむことなく、私はエレベーターを降りて先を歩く鉄朗くんに着いて行った。まあ、たまには車で出社するのも気分が変わって良いかもしれない。満員電車に揺られて苛立つこともないし、道ゆく先で新たな発見があれば、それはそれで面白い。鉄朗くんとお話しをするのは、まあ好きだ。彼との関係もなにもやましい事がないから、とくに気を張る必要もない。

「たぶんその決勝で俺の弟子が出る」
「弟子? なんかコーチとかやってたの?」
「いーや、高校んときの他校の後輩。当時色々世話焼いてた」
「へーえ。それは楽しみだね。かっこいい?」
「メガネノッポの金髪。なまえさんのタイプでは無さそう」
「私のタイプを良くご存知なんだね」
「教えてくれたからね」

 その通りである。会話をしていて思うのが、鉄朗くんは私より一枚も二枚も上手だということ。気づけばいつも鉄朗くんのペースに持って行かれている。家から歩いて二分もかからない距離にあるパーキングに着いて、鉄朗くんが車の鍵を開けてから精算機に向かう。それを横目にいそいそと助手席に乗り込みながら「何普通に鉄朗くんとドライブしようとしてんだ私」とちょっぴり冷静になっていた。

「つーかエレベーター乗ってた時も思ったけど、それなんの香水?」
「……香水っていうか髪のミスト?ディ/オールのやつ」
「へぇ。なまえさんっぽい。いい女の匂い」
「……っ、変態」
「褒めてんのに」

 助手席でジャケットを脱いでシートベルトを付けていると、運転席に乗り込んできた鉄朗くんがたずねてきた。……さっきから、普通に口説かれてる気がするのは気のせいだろうか? それとも私をからかっているだけなのだろうか。鉄朗くんの意図は良くわからないが、いくら私でも普通に褒められたら普通に照れる。
 何でもないように、慣れた動作で鉄朗くんがエンジンをかける。バックで駐車場を出て、進行方向にハンドルを切る。音楽等はかかっていない。エンジン音だけが車内にあって、とても静かな空間だ。窓枠に肘を乗っけて、横目でちらりと運転席の鉄朗くんを確認する。そして、私は自滅した。

「あー………………はぁ、しんどい」
「ん?なに?」
「あのさ、ずるくない?」
「何が」
「何しても様になんの。ずるい。もはやいかがわしいわ」

 ハッキリいってカッコ良すぎたのだ。今日の鉄朗くんはジャケットを着ておらず、黒のスラックスに皺ひとつないブルーのストライプシャツを身に纏っている。腕まくりした手首にゼニ/スのエル/プリメロ。本当に、自分にお似合いのものをよくご存知でいらっしゃる。ここにきてあのキーケースは鉄朗くんご自身で選んだ可能性が浮上してきた。

「いかがわしい男ですみませんね」
「自覚あるんだ?じゃあ有罪ね」
「それをいうならなまえさんも」
「ストップ。もうそーゆーの禁止」

 危ない。また鉄朗くんのペースにうっかりハメられるところだった。私は気を取り直すためにパンツのポケットからスマホを出して、SNSのチェックを始めた。鉄朗くんはご機嫌そうに鼻歌を歌っている。運転も上手だしスピードも無駄に出したりしないし、本当に、よく出来た男である。

「……あ、そういえば取引先に渡す手土産?何系とか決まってる?」
「あー別に。十個入りくらいの個包装のものだったら何でも。予算三〜四千円くらいで」
「おっけ。話題になってるやつ適当に何個か送っとくね。ル/ミネとかですぐ買えるやつ」
「サンキュー。すげえ助かる」

 ぽちぽちとスマホを操作して、鉄朗くんのラインに商品名と売っている場所の情報をコピペしておく。とりあえず三つくらい候補を出して……と、思った矢先、とある記事が目に入った。

「…………あ、まじか」
「なに?」
「いや、私の好きな和菓子屋さん。いまポップアップしてて、いつも関西でしか買えないんだけど……うわ、しかも今日までだし」

 私としたことが、こんなに大事なものを見落とすなんて。急いで手帳を開いてスケジュールを確認するも、生憎今日は取引先とのオフィスミーティングがギッチギチで、外出するタイミングが見当たらない。しかも超人気店なので、オープンから昼前には売り切れも確実だ。私があからさまにショックを受けていると、鉄朗くんが横から私のスマホを覗くように顔を寄せてきた。

「へぇ。どれ?送ってくれたらついでに買ってくるけど」
「え?!ほんとに?!」
「もちろん。ドライブ付き合ってくれたお礼」
「やだ、鉄朗くん愛してる」

 気が効くし優しいし、どこまでも女心のツボを心得ている。一言話すたび、黒尾鉄朗のモテの秘訣を浴びせられているかのようだ。この世の全ての男共は、黒尾鉄朗のイイ男ムーヴを見習うべきである。

「ほんと好きだよな、ウマいもんが」
「それはたぶん、この世の人間全てに言えることだよ」
「ふっ、まあ、そうなんだけど」

 まあ私は趣味が趣味でもあるし、それが副業にも繋がっているので、ひとよりは少しウマい食べ物に敏感なのかもしれない。でも、それきっかけで私は色んな人に出会う事が出来たし、鉄朗くんとこんなに仲良くなれたのだって、その好きなものを突き詰めてきたおかげである。

「美味しいを共有できるのは幸せなことだからね。鉄朗くんにも色々知って欲しいな」

 食は一番手っ取り早く、誰もが手に入れられる幸せの一つだ。そして、自分以外に分け与えることができる。

「んじゃなまえさんの好きなもの、全部俺に教えてよ」

 長い長い信号待ちで、ハンドルに上体を倒して、鉄朗くんが私を見仰いでくる。話の流れ的に何もおかしな事は言っていないはずなのに、私の心はひどくざわついた。ぐん、ぐん、と腹の奥底から昇ってくる熱。彼から目を逸らすくらいしか対処方法が見つからなくて、後はどうすることも出来なかった。早く信号、変わってよバカ。


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