「嘘おっしゃい」

 遠くで鴉の群れが鳴く。早朝の澄み渡るような静けさが、二人の間に流れる沈黙をより深いものにする。鉄朗くんは、私の突きっ返しにどう反応すれば良いかを悩んでいるようだった。その時点で私は全てを察し、わざとらしいため息を吐く。腰を抱かれて近づいた距離から一歩遠のくと、鉄朗くんは私をあっさり解放してくれた。

「そんな嘘ついてまで、わたしとする価値ない」

 愛のないセックスが日常に溶け込んでいる。そんなどうしようもない女から見て、鉄朗くんのような男は絶対に触れてはならない存在だ。魅惑に満ちすぎた男と安易に関係をもつことは、とても危険な行為だと、私は身をもって知っている。だから必死に虚勢を張る。

「……なんか俺、すごい買いかぶられてない?」
「悪いけど、男を見る目だけはあるの」

 ろくでなしにはろくでなしが妥当。付き合いやすく扱いやすい。ろくでなしに何を言われ、何をされたって、傷つかないから楽なのだ。幾度身体を重ねても、そこに愛が芽生えることは絶対にない。私はこの三年間、そうやってまともな恋愛から逃げてきた。
 鉄朗くんにキスを迫られたとき、期待に胸が膨らんだ。緊張が張り裂けそうになった。熱っぽい目に、心の奥まで侵食されかけた。この懐かしい感覚たちが何なのかを、私はまだ覚えている。鉄朗くんがホンモノのろくでなしなら、そのままキスを受け入れて、今頃とっくにどちらかの家になだれ込んでいた事だろう。
 
「俺、言うほどまともじゃないよ」
「うるさい。私が違うと思ったら違うの。だから絶対に鉄朗くんとはそーゆー関係にならないし、なりたくない」
「……っはは、頑なだねえ。俺ちょっぴり期待してたのに」

 ザンネン。と眉を下げて笑っている。何とも胡散臭い笑みだ。こういう表情もする人なんだと驚いた。彼の本心が、ほんの少しだけ透けて見えた気がした。
 私はきつい言葉を投げるのに、鉄朗くんの口調は相変わらず春の空気のように穏やかだ。ここで少しでも遠慮して、彼のペースに呑まれたりしたら、それこそ私は終わりだ。

「……鉄朗くん、わたしのこと利用して彼女のこと忘れようとしてるの?」

 わざと煽った。むしろわざとらし過ぎたかもしれない。一歩間違えれば喧嘩になりそうな発言だ。それでも確かめたかった。私が本当に見る目のある女なのか。黒尾鉄朗という男と、これからどういう関係を築いていくか。今ここで、見極めておく必要があった。

「それは、絶対に違う」
「じゃあ、私がタイプだからヤりたいの?」
「うん。まあ、そういうことにしといて欲しい」
「最低だね。ま、私はそっちの方が楽だけど」

 もっと上手な嘘が付けそうなものなのに、今の彼はあまりにもわかりやすくて、思わず場違いな笑みが溢れた。でも、これで私の中ではっきりとした答えが出た。やっぱりあのキスは拒んで正解だった。もしあそこで彼を受け入れていたのなら、私はきっと、黒尾鉄朗の心が欲しいと願ってやまない不毛な日々を過ごすことになっていただろう。
 もうそんなのは怖い、そんな気持ちは要らない。手に入らないものを追いかけることの辛さを、置いてけぼりの愛が腐ってこぼれ落ちていくときの痛みを、私は二度と思い出したくない。

「ふっきれたなんて嘘でしょ」

 彼女の話をするときの、鉄朗くんの目。語る時の優しい声。寂しそうな横顔。思い返せば全部そう。ただの隣人である私が嫉妬してしまうほど、上品な愛の形があらわれていた。きっと、言葉よりも深い愛情を注がれていたはずなのに、彼女はそれに気づくことが出来なかったのだろう。かわいそうに、本当に二人とも、報われない。

「落ち込むだけ落ち込みなよ。そんなに素敵な人生があるのに、女なんかに逃げないで」

 人生をかけたいものがあるのに、恋愛なんかに振り回されて馬鹿みたい。本当ははっきりそう言ってやりたかったが、流石にデリカシーがなさすぎて人間性を疑われそうなのでやめておく。
 鉄朗くんは結果的に恋人より仕事を選んだけど、いつの日かあの彼女が本当の意味での理解者になってくれたのなら、そこには他の誰も居ちゃいけない。鉄朗くんの隙を狙って居座るような真似、私には出来ない。だってこんなに、素敵な人だから。

「…………ほんと、見る目あるわ」

 ふ、と鉄朗くんが口角を上げて目を閉じる。これがファイナルアンサーだ。この駆け引きには私が勝ったはずなのに、ほんの少しだけ惜しい気持ちもある。まぁ、こんなモロタイプドストライク突いてくる男、人生にそう居ないから仕方ない。……やっぱ一回くらいヤっとけば良かったかな、と私の悪い部分がモヤモヤと広がってゆく。ああ、手に入らないとわかった途端、欲しくなる。手に入らない男はイヤなのに。矛盾し過ぎてる心が恐ろしい。これだから私はろくでなしなのだ。

「つーか俺、なまえさんにめちゃくちゃ失礼なことしたよな」
「えっ?……ああ全然。こういうの慣れてるし」
「……いや、怖いって」

 ぐるぐると矛盾思考の闇に陥っている最中に声をかけられて、素っ頓狂な声をあげてしまった。しかもよく考えずに発言してしまったせいで、鉄朗くんがおかしそうに笑ってる。

「いや、怖くはないでしょ」
「怖いよ。俺二度となまえさんにちょっかいかけられないわ」
「そんなことない。隙ばっかりのカワイイ女だよ?」
「ブッ!!どこが」

 かの有名なサチコばりにあざとく鉄朗くんを見上げれば、何やらツボに入ってしまったらしい。私もそれにつられて何故か笑えてきた。いよいよ二人ともテンションがおかしい。なにせ現在朝四……五時前だ。もう鴉どころかチュンチュンと愛らしい雀の声まで聞こえてくる。

「もうすっかり朝だな。……ところで先ほどの失礼のお詫びに、俺ん家でモーニングコーヒーでもいかがですか?」
「……え、なに、まさかこの期に及んで連れ込もうとしてるの?」
「そのつもりで連れ込んだらシてくれるの?」
「しないしない」

 ふざけたことを言ってくる鉄朗くんに、「もう私にちょっかいかけられないんじゃなかったの?」と聞けば、「これは本気のヤツだから」とまた胡散臭い笑みを向けられた。こういうお戯れも案外好きらしい。私の中の黒尾鉄朗像がどんどん更新されていく。
 
「いや、なんか眠気さめちまったし。ホント健全にお茶するだけ。LIONCEAUリヨンソーのガトーショコラもあるよ」
「……え?!あのサトリ・テンドウの?!なんで?!今日本で出店してたっけ?!」
「あ、やっぱ詳しいのね。実は俺ちょっとだけコネあってさ。フランスから特別に取り寄せてもらったんだわ」
「鉄朗くん大好き。お邪魔します」

 素敵なひとには素敵なコネが集まるものなのね、と私はあらゆる出会いの神様に感謝を捧げた。……おや。そういえば、鉄朗くんは甘いものをそんなに食べないと言ってなかっただろうか?そんな発言を思い出して疑念がわく。わざわざフランスから、それもあんなに手に入り辛い高級チョコレート菓子を取り寄せる、その理由とはいかに。

「なまえさんはウマい食べ物ですぐ釣れる……っと」
「それは何メモなんですか」
「いいや、気にしないで」

 鉄朗くんはすーぐ適当なことをいう。でも、そんな緩さがなんだか心地よい。仲の良い男友達ってこんな感じなのかな、とふと考えた。ちなみに、私に仲の良い男友達など誰一人として居ない。つまりこれが正しい感覚なのかは謎だ。もちろん身体だけのナカヨシは別として。



***




「ガトーショコラってこれかよ」

 ついうっかり頭の中の声がそのまま出た。ガトーショコラはガトーショコラだが、それは何とも華やかなデコレーション付きだった。そして真ん中にドーンと【Happy birthday カワイイ女子の名前】とプレートが乗せられている。よくこのまま出したな、と鉄朗くんの常識を疑った。プライバシー保護のため女の子の名前は伏せておく。

「思いっきり誕生日なんだけど」
「でもさ、食べなきゃ勿体無いだろ?解凍しちまったから今日明日しか食えねえし」
「まぁ…………リヨンソーだし…………食べ物に罪はないけれど…………」

 人生でこれだけ葛藤することも珍しい。思いっきり彼女(元)の誕生日祝いケーキらしきものを目の前に出されて、平気でがっつける人間が果たしてこの世に居るのだろうか。
 ただ、モノがモノだ。リヨンソーのチョコレート菓子はフランスにアトリエを構えるサトリ・テンドウが昨年来日した際に初めて口にすることが出来たのだが、それもツテにツテを辿ってやっと手に入れられたという超特別なシロモノだった。あのチョコレートがゆっくりと口の中で溶けてゆく、なんとも幸福な時間。あのときの感動は今も忘れられない。勿論あのグルメインスタにもアップしたのだが、余裕の万バズだった。伸びに伸びて、サトリ・テンドウ御本人様のインスタアカウントからもリアクションを頂いてしまった程である。

 それが、そんな特別なお菓子が、今私の目の前にある。私のグルメインスタグラマーとしてのプライドが、それを無碍に破棄することを絶対に許しはしない。

「……それにしてもさ、せめて真ん中のプレートは取ってこない?なんでわざわざこのまま出すの?私に彼女のお名前ばれちゃったけど?」
「めちゃめちゃデコレーションしてあるし、それ崩すのももったいねえじゃん。なまえさん何のケーキ?って聞いてきそうだし。嘘つくのもめんどくさいし。つーかもう彼女じゃねえからいいの」
「ま……わからんでもないか」
「食い物に罪はないだろ?好きなんだったら、遠慮なく食べなさいって」

 ダイニングテーブルに向かい合い、鉄朗くんが目の前で珈琲を啜っている。インスタントじゃないところが何となく鉄朗くんっぽい。丁寧な暮らし、ってやつだ。私もつられて珈琲を啜る。
 ……ああ美味しい。何てったって香りが良い。お酒を飲んだ後の身体にじんわりと深く染みていく。ちょうど良い濃さだ。

「……てか、鉄朗くんも食べるんだ」
「うん?ダメなの?」
「甘いもの、あんま食べないって言ってたじゃん」
「……ああ、アレは嘘。ただの口実」
「口実って」
「だってああでも言わなきゃ、なまえさんあのバームクーヘン受け取らなかったろ」

 言いながら、鉄朗くんがナイフでケーキを切り分けていく。さらっと何でもないことのように、聞き流せないことを言う。

「……それは、なんで?」
「俺、あの修羅場よりも前に実はなまえさんのこと何回か見たことあってさ」

 ずぶ、と濃厚なガトーショコラにフォークが刺さる。鉄朗くんが大きなお口を開けて、ばくりと齧り付く。もくもくもく、と静かに口を動かして「ウマ」と一言漏らす。私は鉄朗くんの発言内容が気になり過ぎて、大好きなはずのそれにまだ手が付けられずにいる。

「いっつも完璧にスーツ着こなして、カツカツ高えヒールならして真っ直ぐ歩いて、さらっさらのキレーな髪揺らして歩いてんの」

 まぁ、まさかお隣りさんだとは思ってなかったんだけどさ。と鉄朗くんは笑う。私は鉄朗くんから突然披露された暴露話に、まだ頭が追いついていない。

「ずっと気になってたんだよね。どんな人なのか。だからあの日は絶対逃すもんかと思ってね。なまえさんが帰りたそうにしてたのわかってたけど、わざと引き止めた」

 つまり、アレは、そういうことか。思い返せば色んなことが繋がっていく。空気が読めないふりをして、私を引き止めて。断れないようにバームクーヘン渡して。それに浮かれたりして。鉄朗くんの罠に、まんまと引っかかっていた私。

「…………鉄朗くんのが怖いじゃん」
「褒め言葉?どーも」

 ふっ、と眉を下げて笑う。勝ち誇ったような笑みだ。
 黒尾鉄朗、恐ろしく駆け引き上手……っと。私メモに新しい記述が加わった。

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