女子のお泊まり事情は、常に深刻さを極めている。私はたった今、この一週間の自分の行動に感謝してもしきれないでいた。
 鉄朗くんと一旦別れて、シャワーを浴びてメイクを落とした自分の肌状態をいざ確認すると、それはもう素晴らしい仕上がりっぷりだった。美容医療は継続的に行えば行うほど途方もない金がかかるが、そのぶん成果が現れるのも早い。技術の進歩は素晴らしい。それに加え、眉も睫毛も髪も全部サロンで整えてきたばかりだし、これですっぴんでも自信を持って前を向ける。
 お泊まりするのがお隣さん、というのもこれまた素晴らしい条件だ。自宅でいつものスキンケアをして、ボディクリームやらを丹念に塗りこんで、完璧な状態に近いまま、鉄朗くんに会いに行ける。これが男の家やホテルとかだとそうはいかない。男の人は、女が自分との夜を過ごすためだけに、こんなに時間と手間をかけていることを果たしてご存じでいらっしゃるだろうか。いや、あの鉄朗くんならば有り得なくもないと思うが、さすがにそれは彼に理想を抱きすぎかもしれない。
 準備に時間をかけようと思えばいくらでもかけられる。ただ、待たせすぎるのもワザと焦らしてるみたいで良くはない。今の私に出来うる限りの努力はし尽くした。ラフすぎない部屋着にちょっとした手土産とスマホを持って、いよいよ部屋を出る。廊下の電気を消して、いざ、鉄朗くんの家に向かうのだ。

 扉を開けると、ふわ、と春のあたたかい夜風が髪を靡かせた。バスタイム後のお気に入りの匂いたちが鼻先に香り、少し恥ずかしい気持ちになる。私、お泊まりひとつでこんなに浮かれる女だったんだ。早く鉄朗くんの顔が見たい。彼に甘えたくて仕方がない。ついさっきまで会っていたのに、もう恋しくてたまらないのだ。ドク、ドク、と早くなる鼓動。五メートルほどの距離を小走りで二秒。602号室の前に立ち、ごくりと息を呑む。
 ここから先は世界が変わる。そんな大袈裟な心持ちで、インターホンを鳴らした。聞き慣れた音だが、ついそわそわと身体が揺れる。ああ、鉄朗くんは、この小一時間何をしていたんだろう。私はずっと鉄朗くんのことを考えていた。あれもこれもそれも、はやく全部伝えたい。
 インターホンへの応答はなかった。しかし数秒もたたず、扉が突然開いた。


「なまえ、おかえり」
 

 ある程度、心の準備は出来ていたはずだった。
 しかし、それも虚しく、ぎゅん! と心臓を思い切り掴まれる。──呼び捨てに、おかえりに、優しい声。はっきり言って、これはオーバーキルだ。

「す、」
「……す?」
「……好きすぎる」

 もう、たまらない。両手をフルにつかい、感情が溶け出しているであろう情けない顔を覆い隠した。鉄朗くんは一瞬きょとんとしたようだが、どうやらすぐに察してくれたらしい。ふっと鼻で息を吐いて笑っている。

「なあ、急にそんな素直になっちゃうの?」
「……だって、もともと、タイプだし、しにそう」
「……あのさ。そんなに可愛いこと言われると、俺も茶化してる余裕とかなくなんだけど」

 鉄朗くんがそばに来て、私の肩を寄せながら、部屋の中に引き入れた。ガチャ。と扉が閉まり、鍵をかける音がする。
 さあ、ここからが、ご褒美タイムの始まりだ。鉄朗くんに触れられるたび、こんなにも心がときめいている。もうそれを素直に受け入れちゃってもいいのだ。下手な駆け引きのいらない恋。やっと始まる純愛物語。カッコたぶん重ためのやつ。せめて今日くらい、存分に浮かれたって良いだろう。

「でもよかった。ちゃんと来てくれて」
「……そんな心配ある?」
「いんや。もう平気。逃さねえし」

 ここまで来ておいて、逃げる気なんて毛頭ない。でも、面と向かって言われるといちいち心臓に悪い。一度「好き」が解放されると、私はとことん落ちていくのが早い女だ。一途を超えて盲目。鉄朗くんのことしか考えられないし、愛されるため、私の持ち得るすべてを使って全力で励む。それくらい重くても良いのだと、彼自身が答えてくれた。

「とりあえずソファ座って。なんか飲む?」
「……ううん。いまは大丈夫、ありがと。あと、これ」
「ん?なになに」

 鉄朗くんに肩を押されながら、リビングのソファに連れて行かれた。お気遣いは嬉しいが、私は呑気にお茶を飲むような気にはなれなかった。とりあえず、このバカみたいにはしゃいでる心臓を少し落ち着かせた方がいい気がする。なるべく鉄朗くんを意識しすぎないようにしつつ、スッと手土産をわたした。

「ご飯のお供みたいなやつ。白米が恋しい頃かとおもって、色々買ってみたの」
「おーさっすが。いま米くらいしか食うもんないし、これは助かる。あんがとね」

 鉄朗くんは小瓶に詰められたそれらをソファ横のテーブルに並べ、成分表示のシールをしげしげと眺めていた。私も平静を装ってはいるが、普段通りとは程遠い。だって、私は万全整っている状態なのに、鉄朗くんはご飯もシャワーもまだっぽいのだ。私が部屋で浮かれて準備をしている間、彼は長旅の荷解きでもしていたのだろうか。やだなにこの温度差。恥ずかしい。私だけめちゃくちゃ期待して来たみたいになってるし、まあ、実際そうなんだけれど。鉄朗くんの余裕っぷりが、私の緊張感を余計に煽っている。

「……ていうか、ふつうに疲れてるよね? ほんとにわたしいて平気?」
「いやいや。疲れてるからこそ癒しがほしーの」

 さて。いつも通りかと思いきや、鉄朗くんは一気に距離を詰めて来た。ソファに座っている私のすぐ横に来て、ほぼゼロ距離で見つめてくる。この絶妙な緩急のつけかた──さすがは、黒尾鉄朗である。

「い、癒し、キャラでは、ないです」
「ぶっ、……っはは、なまえ、ほんとどーしたの?」
「っだって……!なんか緊張するんだもん!」
「緊張ねえ? あーんな手練れのお姉さんが、なんで俺なんかに」
「っ、手練れのお兄さんに言われたくない」
「ハイハイ。んじゃ、こっちおいで」

 くい、と優しく手を引かれる。抵抗する気もなく、誘われるがまま身を委ねると、鉄朗くんに後ろから抱きかかえられた。ぎゅ、と後ろから密着されて、首筋に顔を埋められる。鼻先で皮膚を押され、鉄朗くんの鼻息が触れる。くすぐったいし、恥ずかしい。でも、こんな触れ合いでいちいち騒いじゃいられない。何も知らない処女じゃあるまいし。私はつとめて冷静に、この状況を分析した。

「……吸ってる?」
「吸ってる。すげーいい匂いすんだもん」
「そりゃあ、だって、お風呂入ったし」
「なまえの匂い、好きだわ。落ち着く」

 お腹あたりに巻きついた腕に、さらに力がこもる。お腹の奥から全身にかけて、肌がどんどん熱を持つのがわかる。鉄朗くんは良くても、私は全然、まるで、落ち着かない。まだ健全な触れ合いなのに、頭がどんどんソッチ寄りにシフトしていく。
 好きな男との夜って、こんなにも心臓に負担がかかるものだっけ。これじゃ毎夜、命懸けだ。私はすっかり黙り込んでしまう。身体の経験は沢山あっても、恋愛はまるっきり初心者の私だ。鉄朗くんが一枚も二枚も上手なのは、分かりきっていたことでもある。

「なまえ。顔、こっち見て」

 鉄朗くんは最初こそからかってきたものの、今はちゃんとリードしてくれている。名前を呼ばれておそるおそる振り向けば、クイと顎を取られて、唇を喰むようなキスをされた。始まりのキスはとても甘く、優しく、それでいて明確な欲を孕んでいる。伏せ目同士で視線を絡ませて、互いの熱を感じ合う。

「……っ、ん」
「ん……なまえ、キス、好き?」
「ん……だいすき……」
「じゃあ、もっとしよっか」

 鉄朗くんとは、もう何度目かのキスだ。触れ合うたびに想いが膨らんで、離れたくないと全身で縋る。もう、何にも誰にも邪魔をされることはない。
 角度を変えて重ねられた唇から、たやすく舌が割り込んできた。ちゅ、ちゅく、とざらつく表面を舐めるように擦られて、あっという間に酔いしれていく。互いの舌先を合わせると、口腔の何処を舐められるよりも気持ちが良い。脳が多幸感に満ちていく。眉端がぴりぴりして、手足の先に力がこもってゆく。お腹に巻きついた腕が腰のくびれから胸の下を優しくあやし始めて、発情を促されているようだった。
 名残惜しくも舌が離れてゆき、唾液の糸がぷつりと切れる。わざとらしい吐息を漏らしながら、鉄朗くんはふっと目を細めて笑う。

「なまえ、まだ緊張する?」

 ずるい聞き方だ。鉄朗くんのキスは、私の緊張をかき消して、他のもので頭を埋め尽くした。気後れするのは勿体無いと感じるくらい、鉄朗くんは私の欲しいもの全てを叶えようとしてくれている。愛しさが溢れて、欲が生まれる。
 
「鉄朗くん、あのね」

 鉄朗くんがリードしてくれるのはおそらく、一旦ここまでだ。あとは私の出かた次第。鉄朗くんはたぶん、私の言葉を待っている。手を伸ばせばすぐに掴める、その近い距離で。
 もう、あの時みたいな恐れはない。今はただ、彼の全てをもって、私のことを知り尽くして欲しい。

「ぜんぶ知りたいの」

 そして──私の全てをもって、彼のことを知り尽くしたい。キスの味、肌の触れ方、愛を囁く声、皮膚の温度、筋肉の硬さ、指のかたち、欲に濡れた眼差し、好みの角度、精を吐き出す時の表情。
 黒尾鉄朗の全てが欲しい。まさか本当に、そう願う日が来るなんて。彼に初めて迫られた日のことをふと思い返していた。あれだけ頑なに突き放したつもりが、気づけばこんなにも近くにいる。

「もちろん。朝までかけて」

 直接的な言葉でなくても、愛を伝える方法は沢山ある。身体を重ね合う直前に、こんなに優しい眼差しを送られたのは生まれて初めてだ。幸せなはずなのに、涙が溢れてとまらなかった。

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