後ろから腕を引かれ、そのまま胸に抱き寄せられた。目の前には、私がいちばん会いたかった人。なんてドラマチックな登場の仕方なんだろう。同じように修羅場に遭遇しても、鉄朗くんと私じゃ天と地ほどの差があった。
 安心した、とかじゃない。とにかく愛しさが溢れた。今すぐにキスをしたい。抱きしめたい。目を見て話して、あなたの声が聞きたい。硬い胸元に顔を埋め、鉄朗くんの体温と匂いに深く包まれていく。

「悪いけど、なまえさんにちょっかいかけないでもらえます?」
「……君は、」
「夫です。なまえさんの」

 感情の乱れが一切ない、穏やかな口調だった。
 ていうかそのネタ、ここでも引きずるんだ。どう見てもシリアスなシーンなのに、この余裕である。なんとも鉄朗くんらしくて、少しだけ笑ってしまった。彼は、鉄朗くんの言葉を信じただろうか。
 正直、今までは関係性を定義することなんてどうでも良いと思っていた。恋人、なんて呼び名は必要ない。互いの気持ちが通じ合えば、それで何も問題ないと。でも今この状況において、他者に二人の関係性を明示することは、ものすごく意味のあることのように思えた。……まあ、私たち、本当はまだ付き合ってすらいないけど。

「俺はね、自分の奥さん差し置いて他の女の子に声掛けるような男と、自分の大事なひとを二人きりで飲みに行かせられるような、心の広い男じゃないんです。だから、ここはお引き取りを」

 声のトーンはそのままに、鉄朗くんは淡々と言葉を吐いた。ゆっくりと丁寧な語り口なのに、ただならぬ圧を感じた。言われた側はたまらないだろう。
 しかしなぜ、鉄朗くんは、彼を既婚者だと知っているのだろうか。私は鉄朗くん相手にその話をした覚えはない。ただ、ここにいる男が私の元彼だという事実は、状況から判断できてもおかしくはない。そこでふと、なんとなくだが、あの店主の顔が頭に浮かんだ。──あの人。よもや鉄朗くんを、この場にふっかけたわけじゃあるまいな。まあ、それは後で鉄朗くん本人に確かめれば良いことだ。

「……でも、なまえは俺と来たいかもよ?だって、三年ぶりに会ったんだから」
「っ、……そんな」
「ああ、それはあり得ないですね」
「……は?」
「なまえさんは俺の気持ちを裏切るようなマネ、絶対しないひとなんで」

 そんなわけがない。と、さすがに口を挟もうとして、鉄朗くんに言葉で遮られた。私の頭をポンポンと優しくあやしてから、鉄朗くんは私を隠すように前に立ち、彼と真正面から対峙する。
 感じたことのないプレッシャーだ。絶対に裏切らない、なんて。今までの私の男関係を知っているひとからすれば「何を根拠に」ときっと鼻で笑われる。でも、鉄朗くんには、そう言い切れるだけの自信がある。私が鉄朗くんをどれだけ愛していて、欲しているか。自分がどれだけ私に求められているのか。私が言葉で伝えなくても、きちんと理解している。
 鉄朗くんからの信頼は、愛と同義だ。絶対に裏切らないと、私を信じてくれる愛。

「……ああ、わかったよ。でもなまえ、最後にひとつだけ。こっちきて顔見せて。お願い」
 
 断ち切れない、未練がましい声だった。
 彼も、私も、至極細い糸で、まだ繋がっているらしい。馬鹿な私は、どうしても無視できなくて、その声に誘われるがまま鉄朗くんの後ろから顔を出そうと踏み出した。
 そんな私を、鉄朗くんは許さなかった。


「あんた何もわかってない。俺は二度となまえさんにそのツラ見せんなって言ってんだよ」


 ビク、と肩が揺れた。
 自分に言われたわけじゃないのに、肝がすっと冷えていく。こんな風に語気を荒げる鉄朗くんは、初めてみる。
 鉄朗くんはいま、どんな顔をしているのだろう。背を向けられていてわからないが、それを受けた彼の表情が、どんどん青褪めていくのがわかる。

「なまえさん。もう帰ろう」

 もう何も言うな、何も見るな。
 私に向ける声は至極優しいものだけど、含まれた意味はよく理解できた。

 たぶん、鉄朗くんは誠実で、ただ優しいだけの人じゃない。束縛、とは少し違う。でも、その類の、はっきりとした執着心を向けられた気がした。まだほんの一部分だけれど、また一つ、鉄朗くんの本質が見えてくる。

 彼と繋がっていた細い糸は、跡形もなく断ち切られた。鉄朗くんに腰を抱かれて、エントランスへと誘導される。大きなスーツケースが、ゴロゴロと鈍い音を立てている。
 後ろは振り向けなかった。振り向いたら、鉄朗くんにどう思われるか。立ち尽くす彼のことより、そんな意識の方が先行した。

 ──私は、鉄朗くんを、裏切らない。
 心にすとん、と針が落ちる。

「……鉄朗くん、ありがとね。あとおかえり」
「うん、ただいま。なまえさん、大丈夫?」

 彼に対する棘立った態度を見たからだろうか。鉄朗くんの雰囲気が、いつもと少し違ってみえる。私、ほんのちょっとだけ、緊張しているみたいだ。いま、鉄朗くんに返すべき言葉がわからない。

「ぜんぜん大丈夫じゃなさそうだな」

 私が黙りこくっていると、鉄朗くんがため息みたいに言葉を吐いた。再びおとずれた沈黙のなか、下りてくるエレベーターを並んで待つ。なんだか、気まずい雰囲気だ。どうしてこうなってしまったのか。なんとなくだが、私は察していた。せっかく会えたのに、こんなのは嫌。だから意を決して、私は口を開いた。

「……あのね、わたし」
「ん?」
「きょう鉄朗くんにあうの、ずっと楽しみに待ってたの」
「……そっか」
「だからさ。……あの人より前に、鉄朗くんに会いたかった」

 私は本当に、一途にあなたを待っていた。言葉ではっきりとそう伝えた。
 元彼と再会して、心が揺れなかったといえば、それはたぶん嘘になってしまう。でも、そんなことは言わなくていい。言わなくたって、鉄朗くんも勘付いている。「大丈夫じゃない」と見抜いてくるような男だ。
 エレベーターが到着し、扉が静かに開く。鉄朗くんは何も言わずに、いつもみたく私を先に中へ通した。六階のボタンを押す寸前に、その動きが止まる。狭いエレベーターの中、鉄朗くんが私を見下ろして、視界の真ん中に閉じ込めた。

「じゃあこれからの時間、俺にくれる?」

 鉄朗くんの顔に笑みはなかった。
 私が代わりに六階のボタンを押して、先に進むための言葉を紡ぐ。

「最初から、そのつもりだったよ」

 もう、我慢する必要はない。
 気まずい空気は、私からのキスで揉み消した。鉄朗くんの首に腕を巻きつけて求めれば、すぐに応えが返ってきた。






 身体は万全だ。
 今日この日のために、彼に焦がれた毎日を過ごしてきたのだから。

 鉄朗くんの家の玄関に上がって、靴を脱ぐ前に抱き上げられた。え、と動揺している内に鉄朗くんが私のそれをもぎ取って、丁寧に床に置く。スーツケースを置き去りにして、鉄朗くんは部屋の中を迷わず突き進んでいく。
 リビングの横には引き戸の仕切りがある。私の部屋と全く同じ間取りで、その先は寝室なのだと簡単に予想がついた。あっという間に連れ込まれて、ドキドキを味わう暇もない。鉄朗くんの身体に沿った大きなベッドの上に寝かされると、二人分の体重が乗ったマットレスが沈んだ。

「俺も、ずっと待ってた」

 首筋を通り、耳の裏に沿うように手が触れて、じ、と目を合わせられる。嘘のない瞳だ。本気で求められているとわかる。これからこの人に抱かれるのだと、脳がはっきりとした答えを導き出した。

 ジク、と心臓が締め付けられるような痛みがあった。──どうして、と思った。この日を待ち望んでいたはずなのに、そのために準備してきたはずなのに。この現実を受け入れるのを拒否しているみたいに、胸の奥で嫌なものが渦巻いている。鉄朗くんとのそれは、今までのものとは意味が違う。頭でそれを意識してしまったからだろうか。
 これから行われる、愛のあるセックスを、私は怖がっている。だとしたら、その原因は全て、あの人に会ったせいだ。

「……、ん」

 鉄朗くんの愛撫が始まった。首筋に顔が埋められて、皮膚の上に乾いた唇が触れる。鉄朗くんの髪が肌を掠めて、くすぐったさに身を捩る。ドク、ドク、ドク。と、心臓が重く鼓動を繰り返していた。幸せ、期待、興奮。これは、そんなポジティブな感情じゃない。私の心に広がるのは、不安、恐れ、焦燥感。本来求めていたはずの行為なのに、心の中で矛盾が生じ始めている。

「……っ、まっ……」
「なまえ。俺を受け入れて」

 身体を押し返そうとして、手首ごと鉄朗くんの手に絡め取られた。生暖かい感触が肌を沿う。さらけ出した首筋をなぞるように、鉄朗くんの舌が這う。唾液を含んだ熱い舌が、無遠慮に肌の味を確かめていた。首の皮を柔く食み、時折強く吸われる。はぁ、と茹だった吐息が耳元に触れ、肩が大袈裟に跳ねた。

「っ、ゃ」

 媚びるような雌の声。鉄朗くんの舌が触れるたび、電流染みた刺激がお腹の奥へと流れ込む。臍の下がむずむずと疼く。尿を我慢している時のような感覚だ。自然と脚に力が入り、もぞもぞと太腿を擦り合わせた。
 首を執拗に食んでいた唇が離れ、今度は耳たぶを甘噛みしてきた。なまえ、と名を呼び吐息を捻じ込まれ、脳が沸騰しそうなほどの熱を帯びる。首筋と耳への愛撫だけで、私は既に限界だった。ぼろぼろと涙が流れて、シーツに染みをつくってゆく。──怖い、怖い。このまま鉄朗くんと身体を重ねてしまうことが。これ以上深く愛してしまうのが、怖い。

 愛した男に溺れて、ひとり置いていかれて、死んだように生きる日々。ここにいるのは鉄朗くんなのに、私はあの頃の気持ちを思い出していた。
 私が泣いていることに気づいた鉄朗くんは、途端に表情をなくして固まっている。

「ごめん、ちがう、ちがうの」

 私には、鉄朗くんの心を繋ぎ止める自信がない。鉄朗くんに愛されていることはわかっても、いつかあの人みたいに、離れていってしまうんじゃないかって。心で不安を感じている。
 だって私は、鉄朗くんが彼女と別れる瞬間を見た。鉄朗くんがどんな顔をして、どんな言葉で彼女の元から離れていったか。私はすべて知ってしまっている。あの瞬間、知らない内に、心にトラウマを抱えてしまったらしい。愛する人が離れていく。気持ちが消えないまま、ひとり、取り残される残酷さ。もし次も、そうなってしまったら。

「好きなの、愛してるの、こんなにも」

 子どもみたいに泣きじゃくっていた。
 やっぱり違う。私は恋人なんていらない。いつか別れがくるくらいなら、そんな定義いらない。

「もういなくならないで」

 私が望むのは、ずっと前から、ただそれだけだ。そばにいると約束してくれるなら、都合の良い存在でもいい。綺麗な形を望むには、もう、何もかもが手遅れだった。鉄朗くんとは健全な関係になれるかもと期待しておきながら、結局、私は依存し尽くしている。悍ましいほどの執着心だ。
 簡単に心は変えられない。私は母のような女にはなれない。傷つかないように、ずっと素っ気ない女のフリをしていただけだ。私みたいな重たい女、鉄朗くんはきっと扱いきれない。

 過去さえ思い返さなければ、余計なことを考えず、純粋な恋心のまま、鉄朗くんと触れ合えたかもしれない。
 そう思うと、本当に馬鹿なことをした。たった一人の最低な男に、これから掴む全てのものを壊されていく。私の心はいつ、救われるのだろう。

 鉄朗くんが私を見下ろしている。
 ああ、好きだな。何度見ても、この人が好き。こんなにも愛しているのに、自分の心がうまく扱えない。まさか自分がここまで拗れた人間だとは思わず、心が冷え切っていく。




「なまえさん、聞いて」

 優しい声だ。
 鉄朗くんの声は、絡まった思考の間をすり抜けて、すっと頭に溶けていく。

「俺だけ見て。考えて」

 私だって、できるならそうしたい。鉄朗くんのことだけ考えて、先の未来を埋め尽くしたい。

「なまえさんが嫌だって逃げたって、ありとあらゆる手を尽くして、絶対に捕まえる」
「……逃げるわけない。だって」
「俺もそう。なまえさんのこと、もう離してあげられない」

 声が少し震えている。
 鉄朗くんも、不安、なのだろうか。あんなに自信満々に振る舞っていたのに。私がどれだけ鉄朗くんを欲していたか、わかっているはずなのに。

「俺は重い男だよ。なまえさんのことをよく知ってるあの店の主人にも、なまえさんが推しだっていう自分の幼馴染にも、あの最低な元彼にも、ぜんぶ死ぬほど嫉妬する」

 その言葉には、ハッキリとした重みがあった。鉄朗くんはいつも飄々としているから、研磨くんに対して口にした嫉妬心も、私への好意を示すための言葉の綾だとばかり思っていた。まったく、本気に捉えていなかった。

「理解あるフリしてるだけで、本当はなまえさんの世界が全部俺で埋め尽くされたらいいのにって、思う」
「……それは、大体そうかも」
「そう? でも、俺からしたらまだ足りない」

 鉄朗くんの鼻先と私のそれが触れる。すこし顔を動かせば、唇が触れるほど近い距離だ。ドクン、ドクン。心臓が高く鼓動する。鉄朗くんの言葉のひとつひとつが、暗い気持ちを剥がしていく。

「なまえ。俺を愛して。裏切らないで、ずっとそばにいて欲しい」

 まるで、脅迫染みた告白だった。
 もし別れたら、なんて考えられないくらい、鉄朗くんの発する言葉に意識が縛り付けられていく。不思議なくらい、心地が良い。束縛なんて言葉じゃ生温い。私の心まるごと、鉄朗くんに支配されたような感覚だ。

「…………わたし、重いよ」
「俺ほど?じゃあ、同じところまで一緒に落ちればいい」
「無理だよ。私の方がズブズブに惚れてる」
「何を根拠に」

 フッ、と鉄朗くんの顔に笑みが戻った。互いに言葉にはしないけど、私と鉄朗くんの関係性はいま、確立したものになったのだと思う。
 もちろん、不安が全て消えたわけじゃない。傷が完全に癒えたわけじゃない。でも、不安を抱えてるのは鉄朗くんも同じだと知った。二人が同じ気持ちだからこそ、相手を思いやることができる。きっとそれを繰り返すことで、強固な愛が育っていくのだろう。

「……鉄朗くん、あした仕事は?」
「休み。イタリア帰りだし、さすがにね」
「じゃあ、私も休む」
「うん。たまには休んだっていい。なら、今日も明日もずっと一緒にいよう」
「……いいの?」
「もちろん。俺が一緒にいたいから」

 私が言うより先に、いつも欲しい言葉をくれる。鉄朗くんはそうやって、私の心を奪い続ける。でも、それこそが、私の愛を欲するがゆえの鉄朗くんの打算なのだとしたら。同じだけの愛をもって、私は彼に応えなきゃいけない。

「じゃあ、先に家で化粧おとしてくる」
「……そこはちゃんとしてんのね」

 情緒は。と鉄朗くんがつぶやいた。
 その頃には、すっかり調子が戻ってきていた。やっぱり、彼の言葉は魔法みたいだ。私はちょっぴり不満そうな鉄朗くんの頬に触れ「ダーリンちょっと待っててね」とキスをした。

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