「これは俺の持論なんだけどさ」
「ん?」
「酒飲みが作るメシは美味い」
「あー……まあ、わからなくもない」
「でも、なまえさんが料理できるのは、ちょっと意外だった」
「あのね、もっと素直に褒めてよ」

 まわりくどい言い方をする鉄朗くんに、む、と眉を寄せた。どうせわざとだ。鉄朗くんはあっという間にご飯を平らげて、今は二人で食後のコーヒータイムを過ごしている。お酒も好きだが、コーヒーはもっと好きだ。香りも落ち着くし、心身ともにゆとりある時間を過ごせるような気がする。前も思ったが、鉄朗くんはコーヒーを淹れるのがとても上手だ。

「ワガママ聞いてくれてありがとね、ほんと。すげーうまかった。ペロリだったわ」
「……ハイハイ。どういたしまして」
「ほら。素直に褒めたら照れるくせに」

 ふふん。と勝ち誇ったような笑みを浮かべる鉄朗くん。すっかりいつもの調子みたいだ。

「体調は?」
「メシ食って薬飲んだからだいぶ復活した」
「よかった。じゃあ、わたし片付けしたら帰るよ」
「いいってそんなの。片付けは俺がやるから、その分あと少しだけ付き合って」

 鉄朗くんは甘やかすのも得意だし、甘えるのも本当にお上手だ。そんな風に言われたら、サッサと帰ろうなんて気がなくなる。鉄朗くんとひとこと話すたび、またひとつ想いが増えていくみたいだ。前に座る鉄朗くんにじっと見つめられているのが急に恥ずかしくなって、ごまかすように目を伏せてコーヒーを啜った。

「……鉄朗くん、あした仕事は?」
「もともと休み。だから家で溜まった仕事やるつもり」
「それ、ぜんぜん休みじゃないじゃん」
「っはは、まあね。……ところでさ、なまえさんにまた一つご相談が」

 こと、と鉄朗くんがカップをテーブルに置く。姿勢をすっと伸ばし、やけにかしこまった感じを出してきた。一体何をご相談されるのやら。私はカップに口をつけたまま、首を傾げてその先の言葉を促した。

「今度さ、とあるバレー選手が来日すんだけど、いま企画してるイベントの打ち合わせと接待がてら連れていく店を考えてて」
「……ふんふん」
「んで、実はその選手のスポンサーやら何やらが割と人目気にするタイプのややこしい人らで、俺ちょい困っててさ」
「なるほど」
「それでどっかいいトコ、ご提案願えないかと」
「場所は?」
「まあ、銀座あたりがベスト」
「そんなん、死ぬほどご提案できるよ」

 私にすれば全然かしこまるほどのご相談ではなかった。テーブルの上に伏せていたスマホを手に取り、すかさずインスタのアイコンをタップする。

「マジ?さすが」
「人目気にして打ち合わせするなら貸切かな。六〜七人で席埋めてくれればすごい良いお店紹介できるよ」
「おお。顔広い連中だからそれくらいなら余裕なハズ」
「来日ってことは今その選手は海外にいらっしゃるんだよね? だったら無難にお寿司とか」
「いいね。つーかうまいモンくえりゃ文句言わねえはず」
「わかった。日程決まったらすぐ教えて。最低でも一週間前でよろしく」
「超すんなり。マジで助かる。俺の仕事ひとつ減ったわ」

 店の目星はつけておいた。そこは基本的にSNS投稿を許していないお店だが、店名を伏せての投稿は一部許可を頂いてストーリーに載せたことがある。店を知っている人は見ればわかる、というスタンスだ。完全紹介制かつ貸切前提のお店なので、変な人間がくることもない。客を選びまくる割にいつも景気がよろしいので、本当に素晴らしいお店なのだとわかる。私も大好きなお店だ。

「私の名前で予約するけど良い?」
「もちろん。なまえさんの旦那です、つって入らせてもらうわ」
「そうやってネタをすぐ掘り返す」
「あ、あれネタだったんだ」

 ああいえばこういう。鉄朗くんお決まりの返しについ頬が緩んだ。

「でも、大変だね。選手への接待とかそういうのもあるんだ」
「いや、それは建前。その選手とは昔から知り合いだし。スポンサーについては俺の幼馴染だし」
「え、そうなの?じゃあけっこう気楽な会?」
「気楽もお気楽よ。うまいメシ食ってしこたま飲んでくるわ」
「いいね。そこワインも日本酒もたくさん種類あって美味しいの。ペアリングもできるよ」
「へー。つーかほんとに詳しいな?なんでそんなに良い店知ってんの?」
「あー……ツテのツテを辿って、って感じかな?」

 まあ、あながち嘘を言っているわけでもない。今回鉄朗くんに紹介する予定のお店は、本当に知り合いのツテで連れて行ってもらった所なのだ。大将は少し頑固で難しい人だけど、酒を沢山飲む人には馬鹿みたいに気前が良い。たぶん、鉄朗くんもすぐ気に入られるだろう。その自信があるからこそ、私はこの店に決めた。私が紹介した店で、この鉄朗くんが粗相をするはずがないという絶対的な信頼である。

「良き繋がりをお持ちで」
「っふふ、そだね」
「でもほんと、なまえさんには助けられてばっかだわ」

 ふっ、と目を細めて笑いながら、鉄朗くんが前に腰を折って頬杖をついた。少しだけ近くなった距離に、胸のあたりがザワついた。本当に、鉄朗くんの一挙一動にいちいち見惚れてしまっている。これは真の恋の代償だろうか。もともと顔がタイプというのも勿論あるのだろうが、私はそれ以上に、鉄朗くんのこの、感情の乱れを感じさせない優しい眼差しと、鼓膜を震わせる甘い声色が、たまらなく欲しいのだと思う。
 
「……わたし、なんかした?」
「ええ。そりゃあもう、言葉では言い尽くせないくらいに」

 鉄朗くんの言葉の真意を探るより、私自身の心を落ち着ける方に必死だった。

 キスをしたい。抱きしめたい。その声で優しく囁いて欲しい。私が今この瞬間、こんなによこしまなことを考えているだなんて、鉄朗くんは夢にも思わないだろう。ただ普通に話をしているだけなのに。ここまであからさまな下心を抱くなんて、いくらなんでも恥を知るべきだ。

「……ごめん、わたし、そろそろ帰る」
「ん?急だな。どうしちゃったの」
「べ、別に。明日も仕事だし」

 がた、と椅子を引いて席を立つ。このままこのぬるま湯みたいな雰囲気の中にいたら、しまいには気がもたなくなる。心が浮つきすぎて、制御が効かないフワフワとした物体になってしまいそうだ。この感じは本当に危険。もっと落ち着かないと、私また、恋に夢中になりかけている。

「こら。まって」

 リビングのドアの縁にかけてくれていた上着をハンガーから取ろうとした瞬間、ぐっ、と肘を後ろに引かれた。
 え、と振り向くより先に、背中に硬い感触。抱きしめられてると気づくまでに、時間はかからなかった。

「まだ話しの途中なんだけど」
「……っ、な」
「せっかく部屋に連れ込んだのに、このまま帰すと思う?」

 致死量の甘さだ。
 鉄朗くんの逞しい腕が、私の腰に巻きついている。さっきの私の心の声が聞こえてしまったのだろうか。耳裏で囁く鉄朗くんの声に、本気で腰砕けになりそうで、頭がキレた。

「な、な、や、やめっ」
「…………っくく。かわいー。照れてる?」
「は?!やめて!感染る!離れなさい!」
「キスしなきゃヘーキ。それともまたうつしあいっこする?」
「バカじゃないの?!」

 揶揄われているのがわかっているのに、それでも本気で抵抗してしまう。鉄朗くんは熱がぶり返しでもしたのだろうか。必死でもがく私を、鉄朗くんは笑いながら取り押さえている。ふざけているつもりなのだろうが、私は大真面目だ。

「熱さえなけりゃって、まさか二回も思うなんてな」

 言葉に意味を含みすぎである。こんなにもハッキリとマウントを取られるなんて、思ってもみなかった。鉄朗くんはビックリするほど自信満々に私を口説いてくる。私が鉄朗くんとの関係性をうだうだと悩んでいるのさえ見据えて蹴散らすかのように、彼の行動は明け透けだった。

「逃げんなよ」

 ふざけていたのかと思いきや、急に真剣味を帯びた声で私の心をせめてくる。首筋に柔らかな感触があって、生暖かい吐息が触れた。……もう、いよいよ、これは本当にダメなやつだ。今日はエロイベントなんて起きないと思っていた数時間前の自分は、どうやら鉄朗くんを甘く見過ぎていたらしい。

「なまえさん」
「…………なに」
「今度さ。また俺んちで、あのワイン飲もう」

 あのワイン、というのは今日のお土産のことだろう。そんなことはもはやどうでもいい。今試されているのは、その言葉の裏に隠された真実が見えるかどうかだ。もちろん、私は見える側の人間だし、鉄朗くんもそれをわかって言っている。じゃなきゃ、このタイミングでそんなことは話さない。

「……いつ?」
「いつでも。なまえさんの休みに合わせる」

 休みに合わせて家で飲もう、なんて、行き着く先はただ一つだ。自分だって期待していた癖に、いざ誘われてみるとこんなにもひよるなんて。心が丸ごと作り替えられてしまったみたいだ。もし本当にそうだとしたら、黒尾鉄朗という男との出会いが、間違いなく私の人生のターニングポイントである。

 はぁ、と大きなため息をつきながら、両手で顔を覆い隠した。自分が今、どんな顔をしてるのかまるでわからない。恋する乙女のニヤけ顔?ドスケベ顔?そのどちらだとしても、鉄朗くんには絶対に見せられない。
 次、また鉄朗くんと会う時。いよいよそういうことになる。私、ちゃんと上手く出来るだろうか。意識してセックスに臨むなんてしたことがない。もはやこれは初体験と言って良い。鉄朗くんにハジメテを捧げる気分だ。……なんて、どこの女がそんなふざけたことを宣っているのだろう。いよいよ、思考が崩壊してきた。

「お返事は?」
「…………もう、なにも聞かないで」

 それに比べて鉄朗くんは、余裕そうに笑っている。ああ悔しい。この男を振り回す側になるなんて、私には到底出来そうもない。こんな男が、元カノに振り回されてたなんて絶対嘘。鉄朗くんと近づくたび、またひとつ、彼の本質がわからなくなってくる。わからない男は不安でしょうがないのに、こんなにも心が満たされているのは、一体どうしてだろう。

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