あの後もしばらく店主とだらだら話していたが、午後九時をすぎてからは店がだいぶ混んできたので、少し早いがおいとますることにした。その際、また店主がお土産を用意してくれた。店の奥からこっそり持ってきてくれた、ヴァー/ゼンハウスの自然派ワインである。ナチュール系をあまり好んで飲むことは無かったが、店主いわく、フレッシュレッドベリーの風味が甘酸っぱい恋の味を感じさせてくれる一品らしい。店主が本当に甘酸っぱい恋の味を知り得ているのかは謎だが、ありがたく貰い受けることにした。帰り際「鉄朗くんによろしく」と声を掛けられたので、そこでふと思った。
 ──このワイン、もしかして私宛じゃなく、鉄朗くん宛なのかしら。それならそうとハッキリ言って欲しかったが、どちらにせよ私も鉄朗くんにはあの手厚い?熱い?看病のお礼をしなきゃいけないと思っていたところなので、コレを渡しに鉄朗くんの家に立ち寄ろうと思い立った。まだ家に帰っていなければ、また日を改めれば良い。なにせお隣さんなのだ。
 今から家をたずねてもいいか、と数分前に一応ラインはしてみたのだが、まだ既読がつかない。家まであと五分もかからないくらいだが、それまでに気づいてくれるだろうか。それとも、この時間なら別に直接行っても良いだろうか。男の人ってアポ無しでも家に居れば基本は出てきてくれそうな気がする。ワインを渡すだけだし、数分もかからない用事だ。別にご迷惑にもなるまい。

 結局、家に着くまでに鉄朗くんから返事は来なかった。考えた末、エレベーターから降りた私は特に躊躇することもなく、鉄朗くんの家のインターホンを鳴らしていた。

 聞き慣れた音が鳴り、沈黙の時間が流れる。この間って、誰の家をたずねても妙な緊張感があるよな、と思う。今回はアポ無しだから余計にそう感じるのかもしれない。
 時間にすれば一分にも満たない程度だったが、インターホンへの応答までの時間にしては長いと感じる。留守かな?と思った矢先、ようやくスピーカーからがさがさとノイズ音が鳴った。

『…………え、なまえさん?』
「やっほー。渡したいものあるんだけどー」
『……………あ、え、あ、ちょ、待って』

 ブツッ。と音が途切れた。
 ……なんだか、やけに動揺していた気がする。もしかして女とお取り込み中?修羅場?お風呂中?なんて色々な想像を繰り広げていたら、扉の奥からやけにドッタンバッタンと激しい音が聞こえた。え、大丈夫?女の子靴箱に隠したりしてない?とかいう小ボケを頭の中で考えてるうちに、ゆっくりと扉が開いた。

「…………え、なに、なまえさん、どしたの」
「一応ラインしたよ?はいこれ、鉄朗くんにお土産」
「……あ、わり。全然スマホ見てなかった。お土産?」
「店主から。この前のワインのお返しだって」

 大嘘である。
「店主からお話聞いたんだよね〜」「私もオー/パスワン飲みたかったな〜」という意味(圧)を込めて渡してみた。
 しかし鉄朗くんは、私の言葉の真意には少しも反応をくれず「さんきゅ」とナチュラルにそれを受け取った。

 ……なんか思ってたのと違う。おかしい。いつもの鉄朗くんだったら、絶対私の真意に気づいて何かしら言い返してくるはず。いや、それよりも。着目すべきは現在の鉄朗くんのビジュアルだろうか。

「…………え、もしかして寝てた?髪の毛うにゃってなってる。ここ、前髪んとこ」
「あ、……あー……実は、うん」
「うそ、それはごめん。起こしちゃったよね」
「いや、全然平気。仮眠してただけだし」

 歯切れが悪いのは気のせいじゃなかろう。服装もかなりゆるっとした部屋着だし、今日は仕事が休みだったのだろうか。ただ、明らかに本調子ではなさそうな鉄朗くんのご様子に、私の中で一つ、とある仮説が立っている。これがビンゴなら、私はたいへん察しの良い女だと褒めて頂きたい。


「ちょっと鉄朗さん。失礼しますね」


 ぴた。
 手のひらを、鉄朗くんの無防備なおでこにあててみた。……さて、やはりこれはビンゴである。私の突拍子もない行動に目を丸くして驚いていた鉄朗くんも、次の瞬間には観念したように目を伏せて、笑っていた。

「……はちどごぶ?」
「……惜しいなぁ。そこまではないはず」
「完全にうつってんじゃん。最悪」
「あー……なまえさんの手、冷たくてきもちー」

 仮説を立証できたので、おでこから手を離そうとしたら、鉄朗くんの手が私の手を逃すまいと上から押さえてきた。熱があるとバレてからの鉄朗くんのほうが、なんだかいつも通りである。
 うつせばいい、と言われたけれど、本当に感染るなんてそんなまさか。良い大人たちが調子に乗った結果がこれである。私たちは大馬鹿だ。
 
「薬は?なんか食べれた?」
「いやまだ、なんも。昼から寝たきりだった。腹はちゃんと減ってる」
「もー、うつったならはやく言ってよ。わたし、なんかかってくるけど」
「いやいい。つーかそんな大したことないし、起きたらなんかてきとーにつくろうかと……思ってたんだけど、さあ」

 言いながら、す、とおでこから手が下ろされていく。まだ手は握られたままだ。私が外から帰ってきたせいもあるのか、鉄朗くんの体温は、本人が言うよりずっと高いように感じる。本当に、大丈夫なんだろうか。

「なまえさんさ、料理はする?」

 にこ、と鉄朗くんがやけにゴキゲンな顔をした。私は察しの良い女なので、言葉の真意をすぐに理解する。

「……人並みには」
「じゃあ、俺にうつしてしまった罪悪感から、もしかしてなんか作ってくれたりはしない?」
「あのね、半分自分のせいでもあるでしょ?……まあ、半分私のせいだし、別に良いけど」
「さすが。んじゃ、中入って」

 エスコートでもするみたいに、私の手を取ったまま、鉄朗くんが部屋の扉を開けた。部屋への連れ込み方がものすごく自然だ。とはいえ鉄朗くんの家にお邪魔するのは二回目だし、流石に今日はそんなエロイベントも起きないだろう。キスで熱が感染ることはおバカ二人が証明済みなので、もう二度と同じ過ちは繰り返すまい。私たちは社会人であり、大事な仕事がある。責任ある立場の大人なのだ。こんなクソ忙しい時期に、体調なんか崩している場合ではない。
 まるで説得力に欠けることは、重々承知の上である。





「ね、あんま期待しないでよ?」
「大丈夫。期待を喜びが上回ってるから」
「……あー……材料とかは」
「冷蔵庫あける。一通り見てみて。最悪米炊いて塩むすびでも俺としては最高だから」
「それ料理じゃないしわたしいらないから」
「いやいや。なまえさんが炊いたメシならそれ相応の価値があるから」

 リビングで上着を脱いだら、鉄朗くんが気を回してハンガーに掛けてくれた。会話もいつも通りな感じだし、本当に熱があるのかと疑ってしまう。でも、それはさっき確認済みだ。あれは平熱のひとが発する体温ではない。

 ひとまず洗面所で手を洗わせてもらってから、鉄朗くんがキッチンにあるものを一通り紹介してくれていた。前来た時も思ったが、男の一人暮らしの割に、かなり整えられたキッチンである。
 その後、鉄朗くんが冷蔵庫を開けてくれた。中にある食材たちを、鉄朗くんの横に並んでひとつひとつ確認する。

「へぇ、ちゃんと料理する人の冷蔵庫だね」
「毎日は無理だけど。……何つくれそう?」
「鉄朗くんは逆になにが食べたいの」
「なんでも。なまえさんの作るものなら」

 料理をする人にとって一番面倒くさい回答が返ってきたが、鉄朗くんがほんのひとこと付け加えるだけで、女心をときめかせる魔法がかかる。まったく、どこまでもズルい男だ。

「わかった。じゃあできたら起こすしもっかい寝といたら?」
「ん。アリガトね。でも悪い、ちょいここで仕事させてもらうわ」
「あー……なんかほんと、ごめんね。忙しい時期だろうに」
「全然。俺のせいだし。むしろプラマイプラスだから」
「いったいなにがプラス?」
「なまえさんを俺の家に連れ込めたこと。なまえさんの作ったメシが食えること」
「鉄朗くんほんとに熱あんの?嘘ついてない?カイロおでこにあててたんじゃない?」
「さすがにそれはない」

 鉄朗くんがいつもより素直で、なんとなく無邪気に見えた。やっぱり熱があるせいだろうか。体調が悪い時は、無条件で誰かに甘えたくなる。私もそうだったし、あの日は色々あったけど、最後までちゃんと面倒を見てくれた鉄朗くんには正直かなり救われた。ただ、そのせいで鉄朗くんがこうなってしまったからには、その恩を返す義務がある。


「じゃ、ご飯できるまでお仕事頑張っててね。旦那さま」


 語尾にハートがつくくらい茶目っ気たっぷりに呼び掛ければ、鉄朗くんは面白いくらいに咽せていた。私はいつも彼のペースに乗せられっぱなしなのだ。鉄朗くんが弱っている今日くらい、私のペースに持ち込んだって良いだろう。

「あのさ、俺をどうしたいの?」
「……あ、それ、さっき店主も言ってたよ」

 ふらっと気を逸らしてから、私は何やらもだもだ言っている鉄朗くんを無視して料理を始めた。メニューはきのこリゾットとお野菜たっぷりのスープに決めた。私が二日酔いの時に毎回お世話になる鉄板メニューである。鉄朗くんは二日酔いではないが、体調が悪いのはどちらも変わらない。

 こんな時間に男の家に来ておいて、セックスするより先に手料理を振る舞う羽目になるなんて、昔の私が見たらきっとびっくりするんだろうな。そんなことを考えながら作業をしていたら、自然と鼻歌なんかが出ていた。すぐ後ろのテーブルでパソコンに向かう鉄朗くんも、私を眺めて笑っている気がした。

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