第32話


 二人揃って足をピタ、と止めた。
 影山くんと私は荷物を二階の部屋に置き、再び食堂へ戻ってきた。先ほど様子を見に来てから、たったの十分足らず。しかし、その時にはもう──中はてんやわんやの大騒ぎだった。
 今から食べ始めようとする者。我先に、とおかわりを要求する者。食べ終わった皿をどうしようかとウロウロ迷っている者。席が空かなくて困っている者。人数に対して十分な広さとは言えないスペースに、人がごった返している。

「……なんかやっぱ、増えましたね」

 影山くんがボソリと呟いた。私も今、影山くんとまったく同じことを思った。
 烏野はここ数年間ずっと少人数でやってきたチームだ。それが、あっという間にこの賑やかさである。去年の倍以上の人数が集まる食堂の風景に、すっかり圧倒されていた。全く予想していなかったわけではないが、初日はカレーだから準備も配膳も簡単だし。と、少し油断しすぎていたかもしれない。ご飯係のふたりには、本当に申し訳ないことをした。影山くんと呑気にお喋りをして歩いている場合ではなかったと、心から反省をする。

「……わ、わたしはとりあえず片付けにまわる。影山くんは席空いたら、ごはん食べてね」
「俺も先そっち手伝います」
「いやいや、さすがにそれは」
「いや、つーかみょうじさんが手あかねえと温玉のせ食えないじゃないですか」

 ……ああ。それは、ごもっともだ。
 でも、論点はそこじゃない。影山くんにこんな事まで手伝わせるなんて、そんなまさか恐れ多いこと。

「でも、こういうのはマネージャーの仕事だから」
「……俺、中学ん時の部活はこれくらいの人数いたんで。マネも何人か居ましたけど、洗い物とか片付けとか、部員がやるのぜんぜん普通でした」
「あ、……そ、そっか」
「見た感じ、明らかに手足りてないですよね。一年にもっと手伝わせるべきです。つーかアイツらも、自分で気づけって感じっすけど」

 思いもよらぬ影山くんの言葉に、私は感心させられた。今の一瞬で、影山くんはものすごく冷静に状況を判断できている。
 影山くんの中学時代。彼は上下関係がちがちの体育会系、および強豪校出身者だ。そういえば彼が入部した当初、スガさんに部室を案内をされたときも、一年が部室を使えることに驚いていた記憶がある。私も一応は"強豪校の部活"というものを知っている身ではあるものの、女子と男子で差はあるし、影山くんの経験してきたそれとは多分レベルが違う。

 こうなることを予測し、うまく対処できなかった自分が情けなくて恥じた。影山くんの言っていることは正しくて、本来は私がそういった指示すべきだったのだ。影山くんは自分で気づくべきだと言ったけど、一年生は悪くない。悪いのはこの私だ。
 マネージャーだからこれはやって当然。私がそう思っていることも、影山くんからすれば違和感があるらしい。ピリついた雰囲気を醸し出す影山くんに、先輩としての威厳と、ほんの少しの恐れを感じた。

「とりあえず俺、色々片してきます」
「あの……ごめんね、ほんとに」
「いえ。温玉二つ、頼みました」

 私はあからさまに落ち込んでしまった。ここで温玉を引き合いに出したのは、たぶん影山くんなりの優しさだろう。今日は色々と、助けられてばかりだ。さっそく後輩たちの方に向かう頼もしい背中を見て、目の奥がじんと熱くなる。

「……え! か、影山さん!片付けなら俺やりますよ!」
「いい。お前ら食い終わったらなら布団運んだり風呂の準備したり、他のできること先やれ」
「つーか影山はおっせえよ!お前の分も食うとこだったぞ」
「うっせーよ日向。お前はサッサと食って一年連れて布団運べ。そして俺にその席を譲れ」
「横暴!!」

 一年生たちを注意しつつ、的確に指示を出してくれている。ついでに日向くんにも。
 先輩としての影山くんは、こんな風にやるんだなあ、と感慨深く思った。ずっと後輩として見ていたから、影山くんの新たな一面を見れて、なんだか胸がざわめいた。
 私もよし、と気合いを入れ直して、仁花ちゃんと秋倉さんの方に向かった。

「二人ともごめんね……! わたし、ちょっと油断し過ぎてた」
「なまえ先輩っ!お帰りなさい」

 仁花ちゃんは笑顔で迎え入れてくれた。しかしその頬はゲッソリとしていて、満身創痍なのがうかがえた。秋倉さんの表情にも覇気がなく、疲労感が浮かんでいる。二人とも、いよいよ限界がきていそうだ。

「あとは、わたしがやるから。仁花ちゃんと秋倉さんは一旦休憩して、ご飯食べててね。遅くなってほんとにごめんね」

 厨房の中は熱気がすごく、大きな鍋の近くにいると余計にあつい。ずっとここにいるのは地獄だったろう。ここまで頑張ってくれた二人には、後でジュースとおやつをご馳走することに決めた。さあさあ、と肩を押して二人を厨房の外へ追い出していく。

「でも、さすがに先輩一人じゃ」
「ううん。もうだいたいみんな食べ終わりそうだし、そろそろ先生も来てくださる頃だし、大丈夫」

 仁花ちゃんが心配そうな顔をする。頼みの綱の武田先生は職員会議が終わり次第の参加なので、もうそろそろ到着されるころだ。烏養コーチもそれに合わせて此方へいらっしゃる予定である。食事の用意はあと、先生とコーチの分、マネ全員分、そして今お手伝いをしてくれている影山くんと、体育館の戸締めをしている縁下くんで、おそらく一旦終わりだ。洗い物と片付けと明日の朝ごはんの下拵えは、人がはけて落ち着いてからやればいい。このあと控えているお風呂も、女子は一回転でまわる。そこまで逼迫した状況にはならないはずだ。
 食堂内も先ほどよりはずいぶん落ち着いてきた。影山くんが指示を飛ばしてくれたおかげで、一年生たちにも程よい緊張感が走ったのだろう。よかった、と安堵し頬が緩む。集めた空皿を抱えてこちらに戻ってこようとする影山くんに、自然と身を乗り出した。
その時だった。

「……ていうか、影山先輩に手伝わせるくらいなら私がやりますけど」

 プス、と針を刺されたみたいな感覚だ。
 あからさまに不満気な声。じっとりと冷ややかな視線が、真横から刺さる。

「みょうじ先輩。手伝わせる人、間違えてませんか」

 声の主は秋倉さんだ。怖いくらいの無表情で見つめられており、うっと怯んでしまう。
 間違えている、というか。わたし自身も秋倉さんと同じ考えではあったのだ。これは影山くんに手伝わせるようなことじゃないと思っていた。
 でも、アレはどちらかというと影山くんに押し切られた形というか、私の意図でそうしたわけじゃないというか……とにかく、秋倉さんに事の経緯を説明しようとするも、言い訳じみた言葉しか浮かんでこない。なんと答えていいかを悩み、口を噤んでしまう。すると、秋倉さんがまた、何か言おうと口を開いた。

「……みょうじ先輩は、」
「おい。別に、手伝わされてんじゃねーよ」

 ふ、と前方に影がさす。
 私を庇うように立ち、不満をのせた声で告げたのは、影山くんだった。──ふと思ったが、なんとなく、秋倉さんと影山くんは雰囲気が似ている。その、不穏なオーラを纏う時の、刺々しい感じが。

「秋倉、いちいちみょうじさんに噛み付くな。俺、前もお前に言っただろ」
「……影山先輩こそ、前は後輩の分まで自分が片付けるなんてことしなかったくせに」
「これは……温玉のためだ」
「温玉?」

 まさかの二人が一触即発、かと思いきや、話は早くも温玉に流れていった。
 おそらく今の影山くんは、温玉をのせたカレーのことしか頭にない。相当お腹が減っているのだろう。というか、私もそうだし、ここにいる全員がそうだ。
 
「あの……仁花ちゃんも秋倉さんも、温玉すき?」
「「温玉??」」

 十個パックの卵がある。今から来るメンバーの分も合わせて、ちゃんと足りる個数だ。
 腹が空けば不機嫌にもなろう。不穏な空気を払拭するがべく、私はにっこりと微笑み、溌剌とした声で告げる。

「じゃ、いまから腕によりをかけて、温玉を作ります!」

 女の子二人はポカンとし、影山くんだけがワクッとして見えた。


***



 時刻は夜九時を回った。マネお泊まり組の二人を先に風呂に行かせ、わたしは食堂で一人、明日の朝食の準備を行なっていた。何せ朝から、晩ごはん並みのメニューとボリュームだ。明日からよりハードな練習をこなす部員たちには、欠かせない栄養素が沢山詰まっている。絶対に手は抜けない。
 朝は朝で他にやることがある。食事は作り置きも含め、段取りよく調理しないと絶対に間に合わない。今日のような失敗はもう二度と繰り返してはいけないと、私は慎重なくらい慎重になっていた。

「おー……なんかいいにおいする!」
「なまえ!もしかして夜食か?!」

 急に外が騒がしくなったかと思えば、先に風呂を終えた三年生たちが、ぞろぞろと食堂に入ってくる。
 西谷くんが真っ先にこちらに走ってきて、私の手元をのぞいてきた。

「ちがう。これは明日の朝用」
「えー!たのむ、なんか食わせてくれよ」
「今日はだめ。明日からは何かしら用意するから」
「ちぇっ。…………と見せかけて、隙アリッ!!」
「……あ!こら!」

 保存用に取り分けていたきんぴらごぼうを、ひょいと一口つままれた。手癖の悪い西谷くんを叱ろうと眉を釣り上げるも、口に入れた瞬間「うんめー!」と興奮し、目を輝かせる姿には、すっかり毒気を抜かれてしまう。

「あっ、ノヤさんずっりー!俺も俺も」
「もーだめだって、これは明日のなの!」
「なまえはきっと良い嫁さんになるな。……つーわけでもう一口」
「おだてたってもうダメ!田中くんもこっちくるな!しっし!」
「おい!俺は犬か!」

 ぎゃあぎゃあと途端に騒がしくなる食堂内。大地さんがいたらすぐ怒号が飛んできただろうな、とふと思った。縁下くんは割とコッチ側の人間で、騒いでいる私たちを「バッカだなあ」なんて笑って眺めている。成田くんと木下くんも、縁下くんと同じような感じだ。
 西谷くんも皆の方へ戻り、テーブルを囲んでいた。私は厨房からその様子を覗く。なんだかんだ、この空間がいちばん心地よい。西谷くんと田中くんと私が色々とやかましく騒ぎ立て、あとの三人はそんな私たちを親のような目で見守っている。

「つーかさ、なまえも見ただろ? 今日の影山の先輩っぷりをよ」
「あーうん。あれは良かったよね」

 ふと、田中くんがニヤニヤ声で問いかけてきた。私も手元を動かしながら、うんうんと相槌を打つ。本当に、今日は影山くんに沢山助けられた。温玉二個じゃ足りないくらい。

「一年も影山の言う事はちゃんと聞くよな。やっぱ怖えのかな」
「怖いだろ。俺が一年だったら怖い」
「じゃあ、木下は月島と影山どっちが怖い?」
「……月島はダウナー系だろ? 影山はああ見えて熱血バカだし、ジャンルがちょっと違うよな」
「ていうか、影山くんは別に変な事言ってないし。ちゃんと聞く以外なくない?」
「まーそりゃそうなんだけどさ。やっぱ、アイツに憧れてる一年は多いだろ?」
「あーそれはあるかなぁ」

 みんなの話に適当に口を挟みながら、深鍋に油を垂らし、ガスの火をパチパチと付ける。今から作るのは肉じゃがだ。一口大に切った具材をちょうど良い頃合いになるまで炒めていく。一気にやると焦げ付くので、時間はかかるが少しずつだ。
 じゅう、じゅう、と油のはねる音が、食堂内のゆるい会話の空気に溶けていく。合宿所の暖かな夜、とても穏やかな心地だ。

「じゃあ、次の主将は影山かな?」
「あー……どうだ? まあ、日向と月島はまずないとして」
「いや、山口じゃね?主将は周りの雰囲気に敏感なやつじゃねーと」
「影山が主将とかちょっと、いやだいぶ怖えな」
「新入部員ゼロもありえる」
「俺なら多分入らない。てか入れない」
「おい、お前らボロクソかよ」

 好き勝手に言うみんなに、すこし笑ってしまった。私がニヤニヤしているのを目で捉えたのか、西谷くんが声を張って問うてくる。

「なあ! なまえはどう思う?」
「えー? つぎの主将?」
「そ! もし影山が主将だったら、どう思う?」
「いやー……わたしは正直、反対派かなぁ。影山くんには変なプレッシャーかけず、のびのびとプレーしてほしい気持ちだから。キャプテンって、試合以外のことも色々考えなきゃいけないこと山積みだし。……ね、縁下くん?」

 そう言って微笑みかけると、縁下くんから同じような微笑みを向けられた。

「なるほど。……それは、愛だな」
「愛だな」
「愛だ」

 縁下くんに含みを投げたつもりなのに、まったく予想しないパターンの返事が返ってきた。田中くん、西谷くんがすぐに順応して、便乗してくる。
 しかし、ここは負けじと言い返す。


「愛ですけど?」


 それがなにか? というように、はっきりと言い切れば、バッ!!!と全員の視線がこちらへ向いた。
 なんだろう、みんな。そんなのとっくに、わかっていた事だろうに。

「つ、ついに……?」
「さんざんからかっておいて、なにを今更」

 私がけろっとした顔で言えば、みんな同じような表情で固まっていた。三年生たちの煽りへの仕返しは、これが正解みたいだ。

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