2 : あなたの余白がずっとうるさい

 蘭と初めて会ったのは18歳の時だ。
 同居の親はいない、周りに頼る大人も友達もいない。ただ、父から毎月送られてくるお金だけが私の身体と心を養ってくれた。そんな私の前に、灰谷蘭は突然現れた。

 若い女が夜中に一人で綺麗な服を着て繁華街を歩いてれば、とくに何もしなくったって男はいくらでも寄ってくる。高校を卒業し、父親のコネで入学が決まっていた大学に通うまでの間、私は自由奔放に遊びまくっていた。酒も煙草もウリも薬も勧められるがまま何でもやった。
 渋谷や新宿にいるような同い年くらいの煩い男たちは、少し金をチラつかせると途端に面倒臭くなるので大嫌いだった。それに比べて六本木・恵比寿・銀座エリアには見目も上品な金持ちの男が多かったので、私はその近辺のホテルに入り浸りながら、長く無意味な春休みを過ごしていた。

 そんな中、蘭との出会いはとびきり刺激的なものだった。

 いつもの如く、釣れた男と街を歩いていたら、運悪くヤクザ同士の喧嘩に巻き込まれた。その日私の横を歩いていた男は、紳士の仮面を被った悪党だったらしい。私も大概見る目がない。
 男が組員に捕まってリンチされているあいだ、騒ぎに乗じた複数人の男に人気のない路地裏へと連れ込まれた。汗ばんだ手できつく口元を塞がれて、抗えない力で背後から抱きすくめられる。男たちが囃し立てる声の中、死に物狂いで声を上げて泣き叫んだ。「うるせぇな」と冷然に殴られて、目の中に火花が散った。濃い血の味が広がって、ああ私ってこのまま呆気なく死ぬんだな、なんて思った。抗う気力も体力も無くなったその瞬間、星ひとつない夜の空に人の身体が舞った。
「灰谷兄弟だ!」と誰かの悲痛な声が固いコンクリート壁に反響する。当時、六本木を仕切っていたその二人は、若いが故に怖いもの知らずで、人に対する暴力にまるで躊躇がなかった。
 兄の蘭と弟の竜胆。二人で複数人の男をあっという間にのした後、灰谷蘭は血塗れの手で、顔も服もぐちゃぐちゃに乱されたまま地べたに転がっていた私の両頬を乱暴に掴んできた。

「お前、相当頭悪ぃーだろ?」と不躾な質問を投げかけられて、何も考えずにすぐ頷いた。私はその時、とにかく怯えていた。地面に伏した男が動かなくなっても、笑顔で顔面を殴り続けていた蘭が怖くて怖くて、否定なんかしたら殺される、という単純明快な思考回路が脳を支配していた。
「つーか良い服きてんね?すげー高そー」と、蘭が私の着ていたレザージャケットを見て無感動に呟く。襟首を掴まれ顔をぐっと寄せられて、色白の肌に飛び散るどす黒い血の色のコントラストがハッキリと目に映る。あまりの恐怖に私はパニックを起こしていた。
 喧嘩の最中踏みつけられてボロボロになったバッグを引っ掴み、その中から、男にもらった金と自分の有り金ぜんぶを蘭の胸に押し付けるようにぶちまける。

「これっ、ぜんぶ、あげるのでっ、たすけてください」

 しどろもどろになりながら何とか言えた。私にはこの二人が、たとえ女であっても情け容赦をかけるような人間にはどうしても見えなかったのだ。このままここで殴られてレイプされて殺されたって、何も可笑しくはない。結局この二人だって、あの連中と大差はない。裏社会に生きる人間は、総じて同じような目色をしている。
 華奢なヒールは折れてしまったし、タイツもビリビリに破られて、涙でメイクもぐちゃぐちゃ。こんな哀れな姿で懇願したって、悪魔のような二人に響くかどうかはわからない。
 でも。お金は嘘をつかないと知っている。今までだって、金さえあれば何とかなった。むしろ私にはこれしかない。お金しか、私を守ってくれるものはなかった。


 蘭と竜胆は私の言葉に目をまん丸に見開いて惚けたあと、急に火がついたようにゲラゲラと笑い出した。「まじで馬鹿すぎてやべェ!」と口汚く罵られた。二人にひとしきり笑われたあと、蘭があたりに散った札をがさがさと拾い集め、ハイ、と私に向かってそれを差し出した。

「じゃあさ、俺この金でお前のこと買うね」
「…………っ、?」
「だって馬鹿な女は従順だし、顔もすげー好み。なーお前、名前は?」
「……あ、……」
「なーまーえ。言えねーの?」
「っ、なまえ!」
「ん。なまえちゃんね。俺は蘭。んでアイツは竜胆」

 これからヨロシクね〜。と軽い調子で言いながら、私のバックを鷲掴み、狭い間口にぎゅうぎゅうと札を詰めていく。「兄貴抜け駆け〜」と茶化す竜胆の声に「だって俺が買ったんだし」と、理由になっているのかよくわかない言葉を返している。
 結局、蘭は金を一銭も受け取らなかった。代わりにバイクで私の泊まっているホテルまで連れて帰ってくれた後、連絡先を無理矢理交換させられた。
 今にして思えば、あの場は金で済ませた方がよっぽど良かったのかもしれない。蘭と出会ったことで、私の人生の歯車は大きく狂わされる羽目になったのだから。



 まず手始めに、私は蘭の人形にされた。
 背中まで伸びた自慢の黒髪を、ギラギラと眩しい銀髪に染められた。ぶち、ぶちと左耳の二箇所にピアスホールを開けられて、軟骨ピアスで繋がれた。腰に揃いの刺青を掘り、同じ位置にリングをはめ、バニラの香りのタバコを分け合った。
 蘭と竜胆の二人はお洒落が大好きで、月に何度もショッピングに付き合わされた。毎度二人の奇抜なファッションショーを見ている内に、私もだんだん楽しくなっていった。二人はとびきりセンスがいい。それに見た目も派手で美しい。
 ある日突然思い立った私は、札束を手に握りしめ、二人を連れて銀座へ飛び立ち、路面店に立ち並ぶハイブランドショップを端から端まで練り歩いた。馬鹿みたいな数のショップ袋を背負って蘭のバイクの後ろに跨って、買い漁った洋服やアクセサリーが袋の隙間からばらばら落ちていくのに竜胆が気づいて焦って爆笑して、その夜はたらふく良い酒を飲んで酔って潰れて六本木にあるリッツの最上階に皆で泊まった。
 十八年間生きていて、こんなに楽しい夜は初めてだった。

 その日を境に、私と灰谷兄弟の付き合いは過激さを増していく。
 金は余るほどあったから、遊びに困ることはまずなかった。毎日浴びるように酒を飲み、朝まで楽しくなれる薬を買い漁って、クラブのVIPで歌って踊って暴れ狂って喧嘩して、次の日の夜までホテルで寝て過ごす泥のような日々を過ごしていた。
 蘭と私は興奮して気が昂ると、すぐに互いを求め合った。蘭とは気が合ったし、身体の相性も最高だった。竜胆が居ても居なくても、どこでも構わずキスやセックスをした。酔ってラリってふざけた竜胆が混ざり、三人でヤった時もあった。竜胆に犯されてひんひん喘ぐ私を見ていた蘭は、心底愉しそうに勃起したペニスを扱いていた。そんな蘭の姿に私は異様な興奮を覚えて、竜胆がナカの締め付けに耐えきれずに呆気なく射精した。そんな風に狂っていたけど、あの頃の毎日はきらきらと輝いていた。二人といるのは楽しかった。蘭と眠るのは心地よかった。


 そして。
 散々派手に遊びまくったツケが回り、私は春から入学予定だった大学に呼び出され、入学拒否の通告を受けた。異例の事態だった。でも、大学なんて行っても行かなくても別にどうでも良かったし、そもそも私が選んで決めたわけじゃない。だから、その時は何とも思わなかった。
 しかし、大学から連絡があるや否や即帰国した父に散々罵倒され殴られた挙句「二人と縁を切らないと仕送りを切って今すぐお前の口座を解約するぞ」と脅されて、私は絶望した。私からそれを奪ったら、この身には何も残らない。

 馬鹿な私は、蘭にありのままを告げた。
「お金恋しさに二人と縁を切ります」的なことを言ったら、蘭はブチギれた。「あ?」と地の底を這うような低い声のあと、頬に熱がじんじんと籠る。蘭が私の顔を殴ったのだ。手酷く抱かれることはあっても、手を上げられたのはこれが初めてだった。懐かしい味が口内に広がる。ああ、もしかしたら今日死ぬかもしれない。漠然とそんな風に思った。その割に、私は終始冷静だった。
 その日は一晩中犯されて、気を失いそうになったら口移しで薬を飲まされた。ハイになった私と蘭は動物みたいなセックスを延々として、蘭にスマホで動画を撮られている間も、だらしない顔で快楽に浸っていた。
 一週間ものあいだホテルに監禁されて、いよいよ廃人になりかけたその時、父の息がかかった警察官が突然部屋に押し入ってきた。ホテルから連れ出される間際に見えた蘭は、無表情で私を睨んでいた。


 そのすぐあと、私は日本を離れることになった。知らずのうちに海外の大学への入学手続きが整っており、その身一つで飛行機に押し込まれた。私が向こうで好き勝手できないように、金はすべて現地のホストファミリーに預けてあると父に言われた。
 蘭があの後どうなったのかはわからない。でもあの部屋には、罪の臭いがこびりついている。それに、蘭には前科があった。また捕まれば、恐らくただでは済まないだろう。

 父に何もかも全てバレた。法に触れるようなことも沢山してきた。私の経歴に傷がつくのは、父の顔に泥を塗るのと同じ。だからこそ、ありとあらゆる手段を駆使して、父は私の悪事を揉み消した。金の力は恐ろしい。使う人が使いどころを間違えなければ、それこそ魔法のような力を発揮する。
 もう二度と私は蘭に会えないのだと察した。父は完璧主義者だ。蘭を徹底的に潰す気でいる。弟の竜胆だってどうなるかわからない。

 何十時間にもわたるフライトの最中、何度も何度も涙が込み上げた。最期にあんなに酷いことをされたって、思い出すのは楽しかった日々のことばかり。腰に彫った揃いの刺青がジクジクと痛んだ。互いに口にすることはなかったが、二人の間には確かに愛があった。それでも、結局わたしは愛より金を取った。愛があったって、結局こんな風に壊れてしまう。だったらそんなもの無い方が良い。
 元をなくすには消せばいい。消し去って葬り去ってしまえば、もう二度と近くに来ることはない。辛く愛しい記憶も二度と反復されなくなるはずだ。
 そして私はまた、一人になった。
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