1 : はじまりはすべからく終わる

 グレイカラーの内壁と白木の扉が落ち着いた和のテイストを生み出し、北欧風のインテリアが絶妙な色合いで配合されたリビングはラグジュアリーな空間作りを意識しながらも、親しみやすさを残していた。
 開放的なアイランドキッチンは白い鏡面の扉に大理石が敷き詰められており、天板も床も同じ素材で合わせられている。機能性よりはデザイン重視の設計だ。これらは完全に私の趣味によるものだが、招いた友人は皆この家を褒めてくれるし、住み心地も別に悪くはない。
 都内の閑静な住宅街に位置するタワーマンションには豊富なセキュリティが広く配備されており、この家の主人の用心深く神経質な性格を物語っている。外出先から防犯セット状態の確認、防犯セットが解除された場合や家族が帰宅した際のメール通知、留守時の来客のお知らせサービス、等々。一階のロビーには24時間コンシェルジュが立っており、なおかつ駐車場の車寄せにはドアマンまで常駐している。まあ、至れり尽くせりというやつだ。

 今の夫と結婚してこの家に住んでから、もう二年が経った。
 私の父親が代表取締役を務める製薬会社の役員である夫は、毎日残業続きで忙しい日々を送っている、らしい。というのも、夫は会社付近にセカンドハウスを所持しており、最近はそこに寝泊まりをしている。私と夫が最後に顔を合わせたのは、もう二ヶ月前のことになる。
 父は現在海外を拠点にあらゆる国と地域を飛び回っている。仕事人間の父は家族に対する情というものにめっぽう疎く、それに耐えかねた母とは私が4歳の時に離婚している。母はその頃から精神を患っており、裁判等で揉めるようなこともなくスムーズに、親権は父の方に渡された。
 私は当時から父という存在に対して"不自由なく生きていく上で必要な財を与えてくれる人"という認識しかない。「女は早く結婚しないと外面も世間体も見栄えが悪くなる」という父の発言にも、とくに何を感じることもなかった。
 だって父の言うことを聞いていれば、それ以外は何をしたって自由だ。そんな父と仕事上の付き合いがあって、尚且つ、家柄も申し分ないというだけで、今の夫を父が選んだのだ。それも別に文句はない。
 結局、互いに愛し合って結婚した夫婦でさえ、やれ浮気をした、飯が不味い、価値観が合わない、子どもの面倒を見てくれないだの何だの、色んな理由をつけて離れていく。私の両親が良い例だ。
 父は事あるごとに母を「馬鹿な女」だと罵った。金も地位も腹を痛めて産んだお前さえ捨てて、闇金に借金まで作ってどこぞの若い男と貧相なアパートで暮らしているんだと、現在の母の様子を事細かに教えてくれる。父が母に執着しているように見えるのは、自己保身のために他ならない。父にとっての私とは「男手一つで育てた自慢の娘」というアクセサリー程度のものだ。実際、私を育ててくれたのは父が雇った使用人と、父が渡してくれたお金である。

 親にも夫にも何にも縛られず、自由に暮らせる家は良い。左手薬指に燦然と輝くお飾りのダイヤさえ着けておけば、父にたかる小蝿のような男たちにいちいち目をつけられなくて済むし、職場の姦しい集まりにも誘われにくくなる。
 金さえあれば一人でも何不自由なく暮らしていける。生きていてそれなりには楽しい。

 順風満帆。
 それに尽きた。

 今。ニコニコとご機嫌よろしく目の前に立つ、この男さえ現れなければ。








「なまえちゃん久しぶりー。ちょっと痩せたねえ」
 爪先まで抜かりなく磨かれた革靴が、玄関の照明にピカピカといやらしく反射する。毛足の長いラグマットを土足で容赦なく踏み荒らしながら家の中に入ってくる、グレーのスリーピーススーツを着た男。一目で仕立ての良さがわかる。
 派手な模様のネクタイをきっちりと締め、薄桃色の髪を紳士のように品良く撫でつけ、その禁欲的な襟元から喉仏に沿って特徴のある刺青が刻まれている。一見ちぐはぐに見えるそれらが、男が纏う異質で粘着質な色気をむしろ際立たせていた。

 最後に会った時とは随分印象が違う。だが、声を聞けばすぐに誰かわかった。
 気安い呼び方も、不躾な物言いも。あの頃と何ら変わりない。
 だからこそ、心の底から吐き気が込み上げてくる。

「…………なんで」
「これ、なまえちゃんのダンナ様から拝借したの」

 軽い調子で放たれた言葉とともにその手から放り投げられたキーケースが、フローリングの床を乱暴に叩く。ガシャン! と部屋に反響する甲高い音に、肩がビクと震えた。恐る恐る、落ちたそれに目をやる。幾つも異なる形状の鍵が付いたそれは、確かに夫のものに違いなかった。理解した途端、顔からどんどん血の気が引いていく。
 
 私が聞きたいのは、この男がどんな方法でここに入ってきたかではない。
 どうやって、ここに辿り着いたのかだ。
 
 夫とこの男に接点などあるはずがない。
 夫と籍を入れる際、その素性は全て父が調べ上げたはずだ。彼に何も暗いところはない。前の会社の上司から出身校の元教師に至るまで、彼のことを悪く言う人間はほぼいなかったと聞いている。表の世界で真っ当に生きてきたはずの彼が、どうして。堅気の人間では無いこの男と。考えて、考えて、それでも、わからない。
 私の過去を、夫が知る術だってないはずなのに。

 私が過去にしてきた「都合の悪いこと」は全て、父が握り潰した。
 この男の存在もそうだ。

「ブツを回収しに来ただけなのに、まさかなまえちゃんまで居るとはねえ」

 男は頭の中でパニックを起こしている私に見向きもせず「今日の俺ツイてんなぁ」と愉しそうに笑いながら、リビングの方へ足を運んでいく。歩くたび、コツ、コツと革靴の小気味良い音が室内に響く。
 世間一般の常識など通用しない男だと知っているが故に、私は焦っていた。夫のキーケースをこの男──灰谷蘭が持っていたという事実。つまり、二人は今日、何処かで顔を合わせたのだ。目当ての人間がたまたま私の夫だったのか、それとも。

「つーかリビング広すぎ。あー……めんどくせ。なあ、旦那の部屋どこ?」
「…………ねえ、待って」
「悪ぃーけどさあ、話はあとにしてくんね?俺ちょっと急いでるんだわ」

 ぶつぶつと文句を垂れながら、蘭は何かを探していた。
 勝手にキッチンの戸棚を開けたり、ラグを足で乱暴に避けたり、壁に飾ってある絵画の額縁を無理やり外したりする。私が何も言えない内に、部屋をどんどん荒らされていく。でも、そんなことを気にしている場合ではない。蘭の目的が何であるかわからない以上、下手に助けを呼ぶことは出来ない。ここから逃げたとしても、外に仲間が待機している可能性は大いにあり得る。蘭が夫の持っていた正鍵を使ってこの家に入ってきたということは、警報機等も作動しない。高い金を払っているというのに、こういうものは肝心な時に役立たずだ。

 蘭が所属している組織の名を、私は知っていた。日本最大の犯罪組織と裏社会で謳われ、幹部たちは皆揃って特徴的な刺青をその身に宿している。賭博、詐欺、売春、殺人に至るまで見境なく行い、警察すらまだその実態を掴めていない。まあ、それもどこまで本当の話か。一部では、内情に警察組織の関与を疑うような噂も立っている。
 その名は仏教において天界に住む神を指す。口に出すことさえ怖気立つ、禁忌に等しい呼び名だ。

「おらなまえ。突っ立ってないで手伝えよー。これ以上部屋荒らされたくないだろ?」
「…………なに、なんなの」
「組織の顧客リストだよ。お前の旦那が勝手に持ち出しちゃったせいでさあ、俺らめちゃくちゃ困ってんのー」

 蘭はむす、と眉を顰めて言った。
 は、と声になりそこねた空気が口から漏れる。

 ──顧客リスト? 一体何の話をしている?
 今しがた蘭の口から得た情報を、脳はまったく処理出来ていない。そもそも夫が反社組織と繋がりがあって、尚且つこの、灰谷蘭と面識がある? 私は頭のオカシイ夢でも見させられているのだろうか。まるで現実味のない話に、空いた口が塞がらない。

「あー……もしかして、ホントになにも知らない感じ?」

 こてん、と。蘭はまるで小さい子どもを相手にするかのごとく、優しく首を傾げている。

 そうだ。知らない。
 私は夫のことを何も知らない。
 蘭の言ってることも、何一としてピンとこない。

 皮肉にも、私はこの時初めて夫というひとに興味を抱いた。何も聞かれないから都合が良いと思って、私は夫に何も話さなかった。でもそれは、相手にとっても同じだったのだ。
 遅効性の毒をもらった気分だ。悶々と考え込んでいる内に、蘭の瞳がするりと弛む。

「……まぁ確かに、なまえちゃんのパパ相手にバレずに良くやってたと思うよ。アイツ相当賢いやつだろ? ……ま、一発殴って脅したらメソメソ泣いてションベン垂れてたけどさぁー。そんでためしになまえちゃんの名前出したら真っ先にこの家の鍵投げてきてよー? 聞いてもねえのに暗証番号やら何やらベラベラ喋り出して、しかも家の中にあるものは好きにして良いとまで言ってきたんだぜ?ウケんだろ」

 蘭の口はペラペラと良くまわった。
 私はまったく着いていけていない。まるで自分の周りだけ時間が止まってしまったかのようだ。何を言っても反応の鈍い私に、蘭はいよいよ痺れを切らしたのか、嫌味なほど長い足であっという間に距離を詰めてきた。
 片手で両頬をぐ、と乱暴に掴まれる。複雑で繊細なカッティングの施された指輪が、肌に擦れて痛い。
 顔を無理やり上に向かせられて、呼吸が詰まる。見下ろす目は弧を描いており、この状況を愉しんでいるのが良くわかった。


「それってさ、お前も好きにして良いって事だよなぁ」


 べろぉ。
 鼻先を犬のように舐められて、後頭部辺りから背中まで鳥肌が立つような恐怖を感じた。感情に頭が追い付いた瞬間、こめかみの奥から引きつるような痛みが溢れてくる。

 唇の輪郭を、骨張った指が這う。薄く開いた唇に、その指を押し入れようとする。動揺と恐怖でピクリとも動けない私に、蘭が恍惚とした笑みを浮かべている。
 前歯に爪がカチリと当たった。歯の隙間を優しくこじ開けて、口腔内にするりと入り込み、舌の腹のあたりを指が撫でる。人に触れられることのない舌を、指で好き勝手に弄られる。それはまるで生身の心臓を素手で握られて「お前なんていつでも殺せるぞ」と脳まで服従させてしまうような、悍ましい行為だった。

 ぐちゃぐちゃ。ぐちゅ、ぐちゃぐちゅ。
 唾液を掻き混ぜるようにして、いやらしく指が蠢いていた。息苦しくて気持ち悪くて、眉根を深く寄せる。ん、ん"、んん"と汚い嗚咽を漏らしながら、必死に耐えていた。私が恥態を晒せば晒すほど細まってゆく蘭の目に、快楽の色が混ざる。昂った呼気が青白い喉を震わせる。意識より早く身体の方が限界を迎えて、何とかもがいて蘭の手首を掴むと、意外にもあっさりとその指は引き抜かれていった。

「……あっは、かわいー」

 天地がぐらり、と反転して、思わずその場にしゃがみ込んだ。歯が音を立てて鳴る。うつむいた目頭から涙の粒がぼたぼたと落ちて、蘭の靴先に染みを広げていく。
 蘭は溜息とも笑いともつかない息音を漏らした。

「やっぱりなまえ、あの頃から何も変わってない」

 灰谷蘭は、美しい姿をした外道だ。
 懐かしさと安らぎを誘う甘だるい声で、消したはずの記憶を反復させる。陰鬱がしんしんと心を冒して、警戒心すら鈍らせる。

「……ホントはもっとなまえと遊んでいたいけど、先に仕事しねーとまずいんだよな。見張り役の奴が痺れ切らして殺しちまうかもしんねーし」
「…………っ、な」
「組織のヤク捌いてんのがウチでも相当キレちゃってるやつでさー。今日はいつにも増して機嫌悪そーだったし。まあどっちみち、この案件に手出した時点でお前の旦那は終わりだけど」

 膝を折り曲げてしゃがみ込んだ蘭と目線が近くなる。膝に肘をついて、顎を手のひらに乗せながら、不満をあらわにして口を尖らせる。
 垂れ流される情報を一から整理している余裕はない。唯一理解できるのは、夫は蘭のいる組織と何らかの形で繋がっていて、あろうことか裏切り行為まで働いたということだ。そして今は、辛うじて生かされている状態にある。
 ──自業自得だ。夫に同情の余地はない。裏社会の掟に反した者は、二度と日の目を見ることなど出来ない。どんな経緯があったかなんて知りたくもないが、何せ手を出した相手が悪すぎた。

 行き過ぎた驕りは破滅を招く。
 仮に私の父は騙せても、神の目からは逃げられない。

 気づけば少し冷静になっている自分がいた。
 夫が私の前から消えたとて、私の人生は変わらない。父はまた、あの日と同じように夫の存在も消すのだろう。
 仮に私が夫を愛していたのなら、蘭の指を噛みちぎってでも夫の元へ駆け出していたのだろう。そして、その時点で私も蘭に殺されている。容易く想像できる未来だ。やはり、愛は不要の産物であると証明された。

 夫は二度と、ここに帰ってくることはない。
 最期に災厄を連れてきたことだけは、死んでも許してやらない。

「アイツが持ってったリストはね、組織の大事な大事な資金源なの。それを勝手に自分の食いものにしちゃ、マズイでしょ。だからなまえちゃんからもさあ、きつーく言いつけといてくれないと」
「…………どうせ、殺すんでしょう」
「っはは! 冷た!もしかしてアイツ殺してほしーの?」

 口角を頬の半ばまで吊り上げて、心底嬉しそうに笑いながら、ぽん、ぽんと優しく頭を叩かれた。子をあやすようなまろみを帯びた声。光を帯びていないセクシャルな目は、こちらを値踏みしているようにも見える。
 
「でもなあ。せっかく手に入れた取引材料なんだしさ、俺的には簡単に殺されちゃ困るんだよね」

 ぴく、と目尻が痙攣する。
「よいしょ、」と腰を上げた蘭は、気怠げな無表情に戻っていた。纏う空気が様変わりし、不自然なまでの静寂が、胸を酷く騒つかせる。

「取引、って」
「娘の旦那がまさか反社と繋がってるなんてさあ。しかも自宅でこーんな量のシャブ捌いて……サツが知ったらお前も間違いなく関与が疑われる。んで、徹底的に調べられる。そうなったらさ、せっかくパパが頑張って綺麗にしてくれたお前の過去の経歴も炙り出されて、お前もタダじゃ済まなくなる」

 蘭はジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、一本引き抜いた。フィルターをニ、三指先で器用に弾いて、銀のライターで火を付ける。長細い指の間で煙草を挟み、口に咥えて肺一杯に吸い込んで、天井を仰ぎ見るように煙を吐き出す。バニラの甘い香りと紫煙は僅かな間だけ辺りに広がり、すぐに消えて見えなくなった。

 灰谷蘭は何をしに、何のためにここへ来たのか。
 ひとつひとつ種明かしをするように、静かな口調で淡々と語る。

「……そんであの会社、いま海外で事業開発バンバン進めるために社債バンバン発行して資金繰り相当慎重らしいじゃん? そんなとこにお偉いさんのスキャンダルぶち込んだらさー、信用力ガタ落ちで損失どころじゃ済まねえかもな」

 父の会社の内情なんて知らない。
 ただ、この状況で蘭がデタラメを言うとも思えない。蘭のいる組織──梵天は、私と私の夫をネタに、父を揺する気でいるのだろうか。だとすれば、目的は金。それしか考えられない。

「……お金で済むなら、父はいくらでも」
「だろうなぁ。でもさ、俺が欲しいのは金じゃねーの」

 蘭の指から煙草が落ちて、真っ白なフローリングに灰の焼けた黒が散らばる。淡く灯る火種を靴の底で揉み消して、蘭はリビングの最奥にある部屋へと真っ直ぐに進んでいく。
 そこにあるのは夫の寝室だ。常に外鍵が掛けられており、私は中に入れない。玄関に落ちたままのキーケースにその部屋の鍵が付いているはずで、それを伝えるべきか、悩む。そのたった数秒、目を離した隙に──バキッッッ!と激しい轟音が背後で響く。

「奪われたもの、全部取り返さなきゃ気が済まない」

 今のは、蘭が扉を蹴り破った音だ。
 蝶番のネジが弾け飛び、扉板が斜めに傾いている。

「これは復讐だよ」

 蘭は静かに、はっきりと告げた。
 私に背を向けたまま、その表情は伺えない。
 
「俺からお前を獲った、お前の父親への復讐」
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