3 : あの箱庭にある全て

 蘭が夫の部屋を漁っている間、私はその場から一歩たりとも動けずにいた。蘭はずっと誰かと通話をしながら、夫の部屋とリビングを行き来している。電話口の相手が激昂するノイズ音が漏れるたび、蘭は愉快そうに声を上げた。
 およそ十分前くらいに目当てのものが見つかったらしい反応を見た気がしたが、いまだに蘭が作業の手を止める様子はない。部屋から出てくるたびにリビングのローテーブルに雑に放り投げられていく手のひらサイズ程のパッキングされたビニール袋が、嫌な気配をもんもんと蓄えていて気味が悪い。
 
「商品に手つけるなんて、ゴミクズのチンピラ以下だよなー」

 蘭は電話口の相手に向かって言った。でも、その目線はしっかりと私の方を向いている。にこ、と柔和な笑みを浮かべながらも、見下すような目色は隠さない。──そう言われたって、知らないものは知らない。私の夫がチンピラ以下というなら、それは父の見る目が無かっただけだ。そこに私の意思はない。
 本来ならば、この件に私が巻き込まれる謂れは全くない。梵天の薬物販売ルートを勝手に吸い上げて、おまけに商品をちょろまかし、事業利益と称して自身の懐を潤していた、命知らずの夫。そんなクズをネタに揺すられようとしている、私の父。そこに私の存在などなくても、組織の目的は十二分に果たせたはずだ。
 この、灰谷蘭の存在さえなければ。



「…………あ"ーやっと終わった」

 通話を終えた蘭はスマホを机に放り投げ、リビングのソファに深く腰をかけた。脚を組み、気怠げに首を擡げている。ソファの前にあるローテーブルには、例のビニールの山。見覚えのありすぎる風体に、私はたまらず目を逸らした。あれは、私が関わって良い代物では無い。

「なまえちゃんコレさあ、一体いくらになると思う?」
「………………しらない」
「オイオイ少しは考えろよー。つーか良いネタばっかこそこそ集めやがってさぁ、三途が見たらマジで発狂するレベルだぜこれ」

 蘭はソファから背を起こし、それを一つ摘み上げた。指先を揺らすたび、さらさらと溢れる白い結晶。はっきりと目にした瞬間、一発でアウトだとわかった。明らかに営利目的での所持であるし、量が量だ。世に知れたら即実刑をくらうレベルと馬鹿でもわかる。

「まさかとは思うけどオマエ、食ってねえよな」
「…………っ、ない!」
「そーかぁ? 念のため、調べといた方がいい気がするけど」

 脚を組んだまま爪先を揺らして緩やかに小首を傾げる蘭は、口元だけで笑んでいた。作り物めいたそれは、意図的なポージングのようにも見える。無感情な瞳。舐めるような視線がねっとりと皮膚に絡み、耽美な猛毒が五臓六腑を侵していく。

「なまえ。こっちおいで」

 暗示のように、じわじわと。蘭の声が鼓膜に焼きついた。ソファの上で手招きするのは、美しい悪鬼だ。禍々しい色気が満ちて、うわつき始めた意識を絡め取る。

「……なんで」
「欲しいから」

 鼓動が早鐘を打っている。短く告げられた言葉に、捨てたはずの感情がふつふつと刺激される。ぞわ、と産毛が逆立つのを感じた。たっぷりと欲望を孕ませた生々しい視線に犯されて、屈辱的な思いに駆られる。下世話で艶めかしい目色に、喉奥がきゅうと締まった。
 互いに言葉を発しない。私にとって耐え難い沈黙を、目の前の男は心底愉しんでいる。思考する時間をあたえるために、わざとそうしているのだ。
 腹に隠された感情は読めない。目的を果たしてもその場から動こうとしない蘭の興味は、すっかり私へと移行したようだ。こうなる前に、逃げなくてはならなかった。蘭の言葉は、蘭の意思そのものを反映していない。「愛してる」と蕩けた声色で囁きながら、首を絞めてくるような男だ。欲しい、という言葉に込められている意味を、考えて、考えて。そうしたって、わからないということがわかるだけで、至極無駄な行為だった。
 人間が最も忌み嫌い恐れるものは不理解だ。それは本能的なもので、理解できないものとは向き合いたくないという拒絶心が働く。

 もったいぶるような動作で脚を解き、蘭がソファから立ち上がる。向かってくる靴音に怯んで、皮膚がじっとりと汗ばむ感覚。指先の震えが隠せず、下唇を噛みしめる。

「綺麗になったなぁ、なまえ」

 蘭の影が落ちてきて、冷たい手が私のうなじを撫でた。生え際をゆっくりと這う指先の感触に、固く身を竦ませる。

「俺がいない間はさ、どうしてたの」

 囁くように、あやすように。蘭は目の前で膝を突き、耳元に唇を寄せて声色を操った。支配するものと支配されるもの。その関係性をはっきりと教え込もうと、うなじを撫でていた手が降りてきて、首根を縁取るように指を掛けられる。
 まだ柔らかな指圧。けれども、恐ろしいまでの圧迫感。ひゅ、ひゅ、と呼気が不自然に切れる。目を合わせられなくて、蘭の首にある刺青に視線が寄る。まるで首枷のよう。灰谷蘭は、この組織に首を捧げたのだ。
 蘭がいない間の私は、ただの抜け殻だ。じゃあ、私がいない間の蘭は、どうしていたの。
 視界に靄がかかってゆき、自分が泣いていることに気がついた。

「泣くほど俺に会えて嬉しい?」

 無感動に告げられる言葉は恐ろしいだけだ。耳裏を甘く吸われる感触に身震いする。これは簡単に、言葉にできる感情ではない。触れられた身体は確かな恐怖を帯びているのに、拒絶の意志は生まれてこない。
 心より身体の方がよっぽど理解しているのだ。父が莫大な費用をかけたおかげで傷一つ残らず完全に抹消されたはずの腰の刺青が、今なおひどく疼いている。
 自分という人間がひどく曖昧なものに思えた。夢と現実の最中を行き来するような不透明な感慨。──今ここにいる私はもう、蘭を忘れて生きてきた頃の私じゃ無い。蘭に首根を掴まれた瞬間、二人で過ごした最後の七日に、心がタイムリープしたみたいだ。

 灰谷蘭には逆らうな。
 全てを捧げたことを、忘れたのか。

 腹の奥から湧き上がる熱情が、眠っていた記憶を呼び起こす。

「蘭、」

 何年かぶりに声に出した、その名前。
 蘭、蘭だ。蘭が私の中に入ってくる。呼べば呼ぶほど、強い感情が激流のごとく流れ込む。

 忘れたくなんてなかった。 
 何度あの日に帰りたいと願ったことか。

 でも、私はまだ囚われている。父が死ぬまで本当の意味での自由はない。父に見放されずに生きていくことが、私の人生全てだ。
 蘭は復讐と言った。あの時蘭が父を×してくれていたら、私はずっと蘭のそばにいられたのだろうか。

「蘭」

 欲しいものは何だって手に入れてきた。でも、蘭と離れたあと、ずっと喪失感を心に抱えてきた。何をしても何を買っても埋め尽くせない空白。それがなくても生きていく事はできる。でも、生きていく意味を感じられない。
 首に宿る蘭の体温。重たい指輪をはめた細い指が僅かに震えている。でも、蘭の表情は変わらない。私に隠した感情。父親に対する復讐心。蘭の奪われたもの。

 ──かちり、とピースがはまる音。
 蘭の考えていることをやっと理解して、私に出せる最適解を声にする。

「蘭、お願い」

 声が震えた。
 蘭の目を見る。心臓が痛い。燃え上がる熱情に焼き尽くされて、このまま死ぬのかも知れない。

「助けて」

 口にした瞬間、首に掛けられていた手の指圧が一気に強まる。ギリギリと首を絞められて呼吸を奪われながら、蘭の唇が私のものに噛み付いて、トドメを刺された。
 勢いのまま床に倒されて、がん、と頭を強く打つ。蘭の舌が口内の粘膜を蹂躙する。鈍い痛みが快感によって掻き消されていく。指で虐められた時よりもっと深く念入りに、舌と舌を絡ませて、貪って、酸素を奪われていく。キスが深まるたびに首を締める指圧も強まって、苦しくて死にそうなのに、与えられる快感はどこまでも上質で魅惑的で熱くて、たまらない。
 満ちていく感覚に、心の空白を埋め尽くされていく。私に唯一足りなかったもの。それは蘭の存在そのものだと改めて理解する。理解した途端に溢れていく想いを抑えられなくて、蘭の背を掻き抱くように腕を回す。
 蘭がふ、と笑った気がした。
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