チギレ


「随分派手にやったな、なまえ」

 ぐしゃり、と髪を掴まれて。カメリアがぼとりと床に落ちた。フローリングに飛び散った酒瓶の破片が肌に刺さり、ピリピリとした痛みが身体中にめぐる。
 予想していたより随分早いお帰りだ。そのせいで、何もかもこの男に見つかった。

「綺麗な服だなあ。ソレ、俺がやった金で買ったのかァ?」

 男は酔っているらしかった。
 顔が紅く、首にかかる息は荒く、話すたびに舌がもつれている。なまえが開けた父の形見の酒を最後の一滴まで飲み干したうえ、激情に駆られて瓶を割ったらしい。なまえは酷く冷めた目で男を見つめた。
 ──ああ、馬鹿な男だ。そんな気持ち悪い金、使うわけがない。
 男はなまえの髪を引きずってソファに放り投げて、その上に跨った。タイを乱暴に緩めて、ぶちぶちとシャツのボタンを外していく。男は、めかし込んだなまえの姿に欲情しているのだ。興奮した様子で自身を見下ろす男に、なまえは眉一つ動かさず淡々と告げる。

「……やるなら早くして。あれ、片付けなきゃいけないんだから」
「あ?今日はずいぶん生意気だな?俺がいなきゃ何も出来ねえガキの癖に」
 
 じゃあ、そのガキに欲情しているお前は何だ。
 なまえは男を強く睨んだ。いつもはされるがままのなまえが反抗的な目で見つめてくるので、男はチッと不機嫌そうに舌打ちを零した。

「しかも学校サボってデートとは、良いご身分だよなあ」
「…………は」
「ガキ同士で風俗行ってセックスして朝帰りか。最近のガキは随分マセてんだな?」
「……な、んで」
「学校から連絡あったんだよ。お前が男と一緒に風俗店から出てくんの見た奴がいるって。相手の男も同じ学校の奴なんだろ?母親が知ったら悲しむだろうなあ」

 ゲラゲラと下品に笑って、男はなまえの頬をゆっくりと撫でた。

「──三ツ谷くん、だっけ。なあ、あいつは優しくしてくれた?それともお前のぐちゃぐちゃになったアソコを気持ち悪がって、抱いてくれなかった?」

 ぶち、とワンピースの襟が裂けた。
 ビリビリと布の破れる音と共に、なまえの頭の中でも、何かが切れる音がした。

「…………す、」
「あ?何、聞こえな、」
「殺す、殺す、殺してやるっ…………!」

 激昂したなまえは、男の腹を蹴り上げた。
 う、と呻いてよろけた隙に、なまえはソファから飛び降りてその場を離れようとした。しかし、すぐに男がなまえの足を掴んで、そのままの勢いで床に押さえつけた。

「おいコラ。親に対してそんなこと言っちゃダメだろ、なあ」
「お前なんか親じゃない!死ね!離せ!殺してやる!」
「……ぎゃあぎゃあうるせーな。三ツ谷くんに二度と会えないようなことしてやろーか?ああ?」
「お前が勝手に三ツ谷くんのこと呼ぶな!!」

 なまえがいくら叫んで暴れても、男の手には抗えなかった。当然だ。まだ15歳の少女には、大人と戦える力などありはしない。

 それでも、どうしても、許せなかった。なまえに至高の幸せを与えてくれて、生きる希望を示してくれた三ツ谷のことを、地獄へ引き連れようとするこの男の存在そのものが。消さなくてはいけない、これ以上、その名を呼ばせてはならない。
 解いたネクタイで口を塞がれて、腹の上に跨る男に身動きを封じられてもなお、なまえは諦めなかった。レミさんがくれた服をビリビリに破られても、もがいてる最中にカメリアのバレッタが踏み破られてしまっても。募る殺意だけは忘れなかった。慣らして楽しむなんてことはせず、男はなまえの渇いた膣に無理やり狂気を押し込んだ。息が詰まるほどの痛みも、裂けて血に濡れていくソコも、もうなにも感じない。狂ったように腰を打ちつける男が覆い被さってきた瞬間、気の抜けた声をあげるその一瞬。

 気づけばなまえは、ソファの下に置いてある裁縫箱の中から、この世で最も扱い慣れた武器を手にとっていた。

「っは、……なまえ、イく」

 そのまま地獄に逝け。と、男の身体に向かってそれを突き刺した。メンテナンスの行き届いた刃の長い裁ち鋏は、男の腰から腹部にかけてを深く深く貫いた。ビクッと男の身体が痙攣したように跳ねた瞬間、なまえは男を思い切り蹴飛ばして、その上に馬乗りになった。

「死ね、死ね、死ね」
 ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。
 刺すたびに血飛沫が上がる。内臓から噴き出る血は、この男によく似て薄汚い色をしていた。一心不乱に刺し続け、とうとう男が動かなくなった瞬間、なまえはふと我に返った。

 むせかえるような鉄の匂いが充満していた。自分は、冷たくなっていく体に馬乗りになって、両手を汚して呆然としている。しかし心の中では「ああ、やっと!やっと地獄を殺したのだ!」と、達成感に満たされて、誰に憚る事もなく声を挙げて笑っているのかもしれない。 

 いつか見た夢と同じ光景だった。なまえは何度も何度も何度も、夢の中で永遠に死なない男の腹を裂いていた。

 どす黒い血に濡れた裁ち鋏の刃に、血塗れの自身が写り込んでいる。それは恐ろしいほどの、無表情だった。「三ツ谷くんに会えないようにしてやろうか、」と。最期の男の言葉がリフレインする。結果的に男の思い通りになったけど、そんなことはもうどうだっていい。

「もう、同じ天国には行けないね」
 母の声が聞こえた気がした。
 それでもいいよ。わたしは天国のありかを知っているから。と、なまえはぽつりと呟いた。




***





『約束守れなくてごめんね』


 たった一言が書かれた手紙が、三ツ谷の元に届いた。自分は一体何度、後悔すれば気が済むのだろう。
 あの日、自分が離してしまった細い手で、彼女は罪を犯した。遺体の激しい損傷具合から、明らかに殺意をもって行われた犯行だと判断され、彼女は実刑判決を食らった。彼女の身体には虐待の痕があったにもかかわらず、弁護側は控訴せず、重すぎる懲役刑を食らった。世間やメディアは彼女を「両親が死んでイかれた子ども」「救ってくれた叔父を滅多刺しにした不孝者」「学校にも行かず非行に走った不良娘」など好き勝手に罵った。
 三ツ谷はその何もかもが、理解できなかった。彼女はもう地獄から救われて良いはずなのに、世間はどうしてそこまで追い詰めるのか。
 たった15歳の少女に地獄を見せた大人が、死んで救われるなんてあってはならない。救われるのは彼女であるべきだった。

「いまがいちばん幸せ」

 そう言って笑う彼女が、もう酷く朧げで悲しい。彼女がいちばん幸せだったとき、自分が、この手で──そんな馬鹿なことを考えて、三ツ谷は声が枯れて出なくなるまで泣いた。

「それでも俺は信じるよ、なまえさん」
果たせない約束を取り戻す、いつかその日まで。


prev next

- ナノ -