「酔っ払って外に出て車に轢かれて死んじゃえば、はやく天国に行けると思ったの」
なまえはまだ微睡みの中にいるような柔らかく蕩けた口調で、その心を語った。
三ツ谷はなまえの話を静かに聞いていた。風俗店の固いベッドの上で夜を明かした二人は、日の差し込まない薄ばんだ白い壁に囲まれた狭い空間で、今が朝なのかすらわからずに、ただぼんやりと過ぎていく時を過ごしていた。
なまえは、ここが天国だったら幸せだなと思った。外の空気も、光も、朝も昼も夜も、何もかも遮断された空間に、三ツ谷と二人きりでいる。温かい胸に抱かれながら死んだように眠って、起きている時だけ息をして。まるで夢見心地だ。三ツ谷に触れられている時だけは、自分の身体が一切の穢れなく美しいものに成り変わったかのように、ただ快楽に溺れることができた。快楽に上り詰めることを昇天する、というのは、まさに自分が望んでいたこと全てを言い表した言葉だ。
「でも、いまがいちばん幸せ」
そう言葉にすると、三ツ谷は閉じていた目をゆっくりと開けて、胸に抱いていたなまえの顔を見下ろした。瞳が紅く濡れている。三ツ谷の泣き濡れる顔を思い出しては、胸にチクリと針を刺すような痛みが湧いた。なまえが幸せを噛み締めている時、三ツ谷は辛そうに口を引き結んでいた。
二人の幸せは、きっと同じ所にはないのだろう。なまえはふ、と目を伏せて浮ついた思考を取り払った。三ツ谷は確かになまえの願いを叶えてくれた。だからもう、これきりで良い。十分すぎるくらいだ。
「……わたし、もう行かなきゃ。あの人、今日家に帰って来るの」
なまえが部活から姿を消していた数日間。その内の何日かは叔父に身体を甚振られて、最後の三日は出張で家を離れていく叔父の留守のタイミングを見計らって、なまえは自殺を測った。ただ、何度死のうと思っても、父と母の顔がちらついて、やはり何も出来なかった。どうしようもなくなって、なまえは家にあった父の形見の酒を、二十歳になるまで待つと決意したことも忘れて、腹に入るだけたらふく飲んだ。飲めば嫌なことは消えてなくなると前に見たテレビで誰かが言っていた。それでも、結局消えない記憶と痛みがぶり返して、空っぽの胃の中に流し込まれた酒が気持ち悪くて、やっぱりどうしても死にたくて、半狂乱のまま夜中に外に飛び出して、酔って吐いて潰れて意識を失っていたところをマイキーによって救われたのだ。
「……それ聞いて、俺が帰すと思うの?」
なまえに対する三ツ谷の態度は、少しだけ変わった。はっきりとした物言いは元の通りだが、顔色を窺うようなことをしなくなった。全て知った上で、そうした方が良いと決めたのだろう。
「……わたし、死なないよ。どうせ一人じゃ死ねないから」
「でも、まだ死にたいと思ってるんだろ」
疑うような視線と共に身体を抱き締める腕が強くなって、なまえは苦笑を浮かべた。確かに、全部救われたわけじゃない。家に帰ればまたあの男がいる。なまえがあの家に居続ける限り、地獄は終わらない。そのたびにまた死にたくなって、結局死ねなくて。地獄を延々と彷徨い続ける。
──それでも。
「三ツ谷くんとの約束果たすまで、死ぬのはやめるよ」
「……約束?」
「忘れちゃったの?スカート、作るって話したでしょ」
三ツ谷は目を見開いた。
なまえはあの日と同じ表情で、嫋やかに微笑んでいる。
「……まだ、信じてくれない?」
なまえは身体を起こして、正面から三ツ谷を見据えた。目を細め、言葉にはできない想いを伝えている。愛は、容易いものではない。好きだけでは解決できない問題もたくさんある。
けれど、幸福になる権利は誰にでもあるはずだ。雁字搦めの事情など、その都度乗り越えてしまえばいい。死にたくなったら、今日のことを思い出せば良い。なまえは目を柔らかく伏せて、三ツ谷の愛しい額を撫でた。
「じゃあ、今日は一日、俺と一緒にいてよ」
縋るような物言いに、なまえはほんの少し思考を巡らせたあと、こくりと小さく頷いた。──この幸せが、あともう少しだけ続いても、きっと誰も文句は言わないだろう。
その日、なまえは三ツ谷と初めてのデートをした。三ツ谷は行きたい場所があると言って、なまえにその計画を話した。
店を出る際に二人はレミと鉢合わせて「アンタら出かけんの?」と声を掛けられた。なまえはレミに丁重にお礼を言ってから、三ツ谷とこれから行く場所を告げた。するとレミは何を思ったのか、なまえの手を無理やり引っ張って待機所の方に連れて行った。流石に朝ということもあり他の人の姿はなかったが、なまえは鏡の前に座らされて、化粧やら髪やら何やらをレミの手によって整えられた。最後にレミのお気に入りだというワンピースを着せられて、なまえはその姿をがらりと見違えた。
「アンタ似合うしそれあげる」とレミは口端を釣り上げて笑った。もちろんなまえは拒否したが、レミはいいからいいからと両手でなまえの身体を押し返す。そうしている内に三ツ谷が様子を見にやってきて、おっ、と声を上げた。三ツ谷にも同じように褒められて、なまえは死ぬほど恥ずかしくなって俯いた。
レミがくれたワンピースはなまえの憧れのブランドのものだった。服に合わせて揃えてくれたヒールも、高さがあって少し歩きづらい。三ツ谷はそんななまえを笑いながら腰に手を添えて支えて、仲睦まじいカップルのように渋谷の通りを歩いた。
三ツ谷の連れて行ってくれた場所は、あの日行けなかった手芸専門店だった。広い交差点を渡った先にある少し暗い路地に入り、少し進んだ後に見えてくる全面ガラス張りのおしゃれな佇まいのお店だった。お店の中は大きな窓の恩恵にあやかり、とても明るく洗練された空間で、たくさんの商品が並ぶ中、一つ一つが大切にディスプレイされており、まるで美術館のような色彩であった。この空間にいるだけでもインスピレーションが湧いてくる。一目見て気に入ったなまえは、三ツ谷がお店の人と話している間も、夢中で店内を見て回った。
「なまえさんこれ、見て」
三ツ谷はロールに巻かれた状態の布をいくつか取り出して、カット台に置き並べた。それはシャネル・ツイードとして知られる、フェミニンな賑わいが印象的なファンシーツイードだった。それはまさにナマエがあのスカートを作る際にイメージしていた素材で、柔らかなアイスグリーンの色合いと光沢のあるヤーンが華やかな彩りをもたらしている。ふんわりとしたドレープ性のあるハリとコシは、スカート作りにぴったりの上質な生地だ。
「これ。わたし、絶対これがいい」
「そう思って、特別に出してきてもらった」
三ツ谷となまえは幼い子供のようにはしゃいだ。そんな二人を見ながら、若い店主は穏やかな笑みを浮かべている。
三ツ谷の思惑通り、店主は約束してくれた。一年後、なまえがここに来るその時までロールごと保管しておいてくれると。なまえはこんなに幸せなことがあって良いものかと思った。そして帰り際、三ツ谷は手芸屋にディスプレイされていたカメリアモチーフのバレッタをプレゼントしてくれた。「レミさんみたいに本物は無理だからさ」と三ツ谷は苦笑したけど、なまえの中ではまた幸せが上書きされて、やっぱりこのまま死んでもいいやと思ってしまった。三ツ谷のそばにいると、なまえは天国にいるような心地だった。
なまえが三ツ谷と別れたのは夕刻前のことだった。本当はもっと一緒にいたいけど、今日は母親の帰りが遅いので三ツ谷は妹二人をこれから迎えに行かなくてはならないそうだ。もちろん、なまえは三ツ谷を引き止めることはなかった。三ツ谷のほうがよっぽど名残惜しそうに、「一緒に俺の家に帰ろう」と最後の最後までなまえの手を離さなかった。
しかしなまえは、元の生活に戻らなければならない。何故なら叔父が今日、出張先から戻って来るのだ。ご飯を用意して、洗濯をしてアイロンを掛けて、荷物を片して風呂を沸かして、また家事に追われる日々が続く。身体を詰られる地獄が続く。それでも、なまえは大丈夫だと思った。三ツ谷との約束がある限り、きっと自分は生きていける。
中学を卒業したら、なまえはあの家を出るつもりだ。しばらくはきっと、父と母の残してくれたお金で何とかなる。いくら叔父とてなまえ名義の口座については好き勝手出来ないはずだ。あとはバイトでもなんでも仕事を探して、なんとか生きる。きっとそれまでの辛抱だ。
「ねえ、三ツ谷くん」
三ツ谷の手を優しく解いて、なまえはゆったりと目を細める。
「……ありがとう」
好きだよ。と言葉にはしなかった。
私のいる地獄に、彼は連れて行けないから。