今日もやまない


 どっぷりと濡れた青葉が粒だった雫をひたひたと落とし、土の中から這い出てきたミミズたちが地上にできた海の上を泳いでいる。あるものには幸福を、またあるものには憂鬱を。雨空は実に気紛れに、生きとし生けるもの全てに影響を与え、人の心を波立たせる。
 さて、三ツ谷にとってはどうだろうか。びちゃびちゃと足元で跳ねる雨水によってオキニのスニーカーがぐずぐずになってしまうのはもはや致し方ないとして、すぐ隣で身を顰めて何とか動作を最小限に抑えようとする彼女を見ていると、どうしようもなく胸が疼く。梅雨の日に傘を持たないというのは、よっぽど季節に感心がないかそれとも単に抜けているだけか。彼女はそのどちらとも言い難いような気はするけれど、結果的に三ツ谷が美味しい思いをしているのは確かだった。
 なまえが雨に濡れないように気遣えば気遣うほど、なまえは自分の方に身を寄せてくる。互いが互いを気遣えば、自ずとその距離は近くなる一方だ。

「ほんとごめんね。コンビニあったらぜったい傘買うから」
「いやいや全然。俺的にはむしろラッキーっす」
「……相変わらず、三ツ谷くんってそういうのハッキリ言うよね」
「まあこういう性格なんで」

 三ツ谷は基本、人と話す時に物怖じしない。先輩にも対しても礼儀は弁えるが、無意味な遠慮はしない。ハッキリとした物言いは気持ちが良いし、時に痛いところを真っ直ぐに突いてきたりもする。なまえは三ツ谷の言葉に動揺こそしなかったが、都合の悪いことは聞き流したり聞こえていないフリをしたりと真摯的ではない態度を取ったりすることも事実だ。
 可愛いとか、優しいとか。指が綺麗だとか、センスがずば抜けているとか。なまえが三ツ谷に言われた褒め言葉のバリエーションというのは、両手両足で数えても足りないぐらいあった気がする。とにかく人をよく見ているなぁという印象から始まって、三ツ谷がとくべつ自分に対しては言葉を多く重ねてくるということになまえが気づいたのは、去年の冬頃のことだ。
 駆け引きとか騙し合いとか、互いにそんなつもりはないけれど、先に駒を進めてくるとしたらそれはきっと三ツ谷の方からだ。なまえは受け身から姿勢を崩さないし、ワザと隙をつくって誘い込んだりもしない。今日も三ツ谷があんなことを言って来なければ、こうして二人肩を並べて傘を共にすることもなかったし、三ツ谷が世話になっているという店を知ることもなかっただろう。
 まだ完全な丸にはなれないけれど、決して歪な関係でもない。絡んだ糸を綺麗に結び止めるのはきっと三ツ谷の役割で、なまえはその傍に静かに立っている。

 手を伸ばすことも、声を出して呼ぶこともなく。
 ずっと息を潜めて、待っているのだ。







「てか、なまえさんの用事って?」
「あ…………うん。ちょっと銀行に寄るだけなんだけど。5分もかからないから」
「……銀行?」

 なまえから返ってきた言葉に、三ツ谷は目を丸くして惚けた。
 銀行、というと。この年頃の子どもにはおおよそ縁遠い場所だと感じていたが故に、その単語自体あまりしっくりとこない。少なくとも三ツ谷は十四年間生きていて銀行に用事などあった試しがないし、彼女がどういった内容で世話になっているのかなんて想像もつかなかった。

 深くは追求出来ないまま、なまえがいつも利用しているという銀行の支店に着いた。銀行の窓口というのは存外早く閉まるものなのだと、三ツ谷は今日初めて知ったくらいだ。 
 部室よりよっぽど冷房の効いた店内に足を踏み入れて、慣れた足取りで奥に設置されているATMに吸い込まれていくなまえの後に着いていく。……いや、こういう場合は、離れていた方が良いのだろうか。そんな判断すら付かないまま隣で立ちすくんでいる三ツ谷をなまえは気に留めることもなく、鞄の中からゴソゴソと何かを取り出した。

 皺が寄って少し草臥れた茶封筒。
 その中から抜き出されたのは、万札の束だった。厚みからして、おそらく十万円くらいはあるだろうか。中学生の鞄から出てくるにはおおよそ似つかわしくない金額のそれに、三ツ谷はぎょっとした。しかもなまえはそれを紙切れでも扱うかのごとく、片手でぐしゃりと握りしめている。 

 なにか嫌なものを見てしまったときのように、三ツ谷は腹の奥がざわめいていた。

「なまえさん、その金、何」
「寄付。毎月あるの」
「…………え?」
「別にわたしのお金じゃないからさ」

 至極淡々として、抑揚のない言い方だった。
 なまえはひとつも迷うことなく画面をすいすい操作して、投入口にお札を全て流し入れる。ガツガツと音を立てて容赦なく金を食らっていくその機械を前に佇むその姿は、夜の海のように凪いでいた。
 その一瞬で、空気が凍ってしまったかのようだ。二人しかいない店内。ピコン、ピコン、と鳴る機械の効果音の後に「ありがとうございました」と無機質な女の声が響く。手のひらサイズの明細を二本指で引き取って、機械の横に設置されているゴミ箱の中にすとんと入れる。

「じゃあ、行こうか」となまえは随分あっさり三ツ谷に声をかけた。
 確かに、5分もかからない用事だった。けど、三ツ谷はなまえみたく、今見てしまった光景をあっさり流すことはできなかった。それを「寄付」と言うにはあまりに大きな金額だった気もするし、彼女が金を持て余している富豪とかならまだしも、つい先ほどまで数千円の布を買うのにも渋っていたのだ。だからどうにも、腑に落ちない。しかも彼女は、毎月と言った。自分の金じゃないというのなら、それは誰のための金なのだろう。中学生の彼女にこんな大金を持たせる人間。それとも寄付というのは嘘で、なまえは誰かに脅されているのかもしれない。

 三ツ谷は己が持てるだけの想像力を働かせて、絞り出すように声を上げた。

「……こういうの、あんま、聞かない方がいいとは思うんですけど」

 三ツ谷がおそるおそる切り出す。
 一歩先に歩み始めていたなまえは、三ツ谷の方を振り向き、その顔を真っ直ぐに見つめた。
 ぱち、と気怠く瞬く瞼。口を結んだ無表情。長い睫毛に縁取られた、暗い瞳。

 三ツ谷は、ごくりと息を呑んだ。
 彼女の纏う空気が、この5分に満たない時間の中で、いつもとまるで変わっていた。肌でひしひしと感じるその違和感に、三ツ谷の中にあった「みょうじなまえ」という概念がぶれて歪んでいく。
 平日の夕方、人気の無い銀行という慣れない場所の雰囲気がそうさせているのだろうか。
 三ツ谷には、今のなまえがとても冷たい人間に見えた。心が死んでしまって、感情の無い人形のような目をしている。みょうじなまえが、本当はどこか遠い場所で生きている存在かのような、疎外感にも似た侘しさが胸の奥で蠢いている。

 人の心の働きは、たくさんの事柄から成り立っているものだ。朝は夜と異なるし、昼と夕方とて同じではない。今日は徳行のそなわった人でも、明日は品性の卑しい人になり、今日敵だった者が明日には友達になっているかもしれない。
 人の心の働きが時機に応じて変化することは、ひとたびそうなってしまうと、ますます思いがけないことになる。幻や掴めない雲のようで、あれこれ考えをめぐらすことも、本質を推し量ることもできはしない。

 なまえにとっての引き金が、きっと今、どこかにあったのだろう。三ツ谷は何か、なまえのサインを見逃したのかもしれないと思った。でも、考えたってわからない。人の心をあれこれ推し量ることの困難さ、無意味さ、さらに言えばそうすることの愚かしさをを知っている。さらには自分の心をもってしても、自分自身の心の変化を思い通りにすることなんてできないのだから。もしかしてなまえ自身も、わかっていないのかもしれない。

 口にしたそばから何も切り出せなくなってしまった三ツ谷に、なまえは暗い目のまま言葉を返す。

「養父がね、毎月カバンに入れて渡してくるの」

 ようふ? 聞き慣れない言葉に、三ツ谷は眉を顰めた。ようふ……養父、というのはつまりなまえが今一緒に住んでいるという、亡くなった父親の兄弟のことを言っているのだろう。それにしても、随分と距離感のある呼び方をするものだ。
 三ツ谷はなまえと話す際、家庭環境や親の話は極力しないようにしていた。というのも、三ツ谷がまだなまえの親のことを知らなかった当時、自分の妹や母の話をした事があった。自分のことを話すのは、同時に相手のことを知りたいと思う気持ちからだ。三ツ谷はなまえの家族のことも聞ききたいと思ったけれど、なまえは三ツ谷の話をうんうんと良く聞いただけで、自分からは何ひとつ話さなかった。その後、三ツ谷はなまえの両親のことを人づてに聞いたのだ。
 事情を知った上で、ますます理解した。まだ、自分には心を開いてくれないのだと。その時、三ツ谷は多少なりともショックを受けた。ただ、「生まれた環境を憎むな」と、自身に言い聞かせてきた教訓をなまえに伝えた時、なまえが酷く感心していたのを覚えている。だから彼女は、誰かに言われずとも、前向きな気持ちで生きているのだと思っていた。会えばいつも無邪気に笑ってくれるから「ああ彼女は大丈夫なんだ」と、勝手に思っていた。


「きもちわるくて、本当は触りたくもないの」


 ──大丈夫、なんて。馬鹿か俺は。
 彼女がこんな顔でヒトを拒絶することも知らないくせに、何を知った気になっていたのだろう。
 自分に向けられたそれではないと理解していても、ばくばくと心臓が早くなる。

「気持ち悪いって、」
「だから、このお金は使わない」

 吐き出される言葉のすべてが、負の感情に満ちていた。
 彼女は両親を失ってはいるが、身寄りのない子どもたちが集まる養護施設に預けられるわけでもなく、多少なりとも血の繋がりのある叔父に引き取られたのだ。多少の不自由はあっても、金の心配はなく、彼女の家族のことを良く知った人間がそばにいた方が良いと、三ツ谷でなくともそう思うだろう。
 ただ、他人が知らない事情があるとするならば。なまえは一体何に対して、そこまで毒を吐くのだろうか。

「その、養父さん?は、多分なまえさんを想ってそうしてるんすよね?なら、……詳しいことわかんねえけど、まあ金は金、だと思うし……なまえさんがしたいようにするべきだと、俺は思います」

 三ツ谷は慎重に、言葉を選んだつもりだった。
 詳しい事情を知らない以上、なまえの言葉を簡単に肯定も否定もするべきではない。あくまで俯瞰的に判断をして、ぎこちなくも、それらしいことを告げる。そしてあわよくば、なまえが何を以てしてその金を「気持ち悪い」と言ったのか、理由を教えて欲しかった。
 しかし結果的に、養父の肩を持つような発言になってしまった感は否めない。今もなおなまえの表情は固いままだ。早くいつもの彼女に戻って欲しいのに、何を言えばまたさっきみたいに笑ってくれるのか、まるでわからない。

「……じゃああのお金、今度は三ツ谷くんが貰ってよ」

 ふ、となまえは扇情的に瞼を伏せた。
 目を合わせずに言うものだから、本気か冗談かもわからない。
 戸惑いを隠せない三ツ谷に、なまえはなお淡々と告げる。
 
「三ツ谷くんち、お母さんひとりで大変なんだよね? だから……次もらったお金、三ツ谷くんに全部あげる」
「………………は?」

 その言葉に、今度は、三ツ谷が表情を失う番だった。
 確かになまえの言うように、母子家庭である三ツ谷の家は、おそらく、なまえの家よりもよっぽど金に苦しんでいる。けれど、それは今この状況で引き合いに出すべきことなのだろうか。三ツ谷には、なまえがそれを純粋な親切心から言っているようにはとても思えなかった。

「なんすか、それ」

 ふつふつと、嫌な感情が込み上げてくる。自分は何も教えてくれないくせに、こちらの事情ばかり知っているから、そんな発言をしたのだろうか。三ツ谷が顔を顰めても、なまえは眉ひとつ動かさない。本当に、真剣に言っているように見えるからこそ、その発言は受け入れ難い。

「俺のこと、バカにしてるんですか」

 冷たく尖った空気にあてられたのか、随分と低く乾いた声が出た。
 三ツ谷はわりかし直情的なところがあった。一度上がってしまった熱はすぐに冷めるわけもなく、なまえがぴくぴくと目尻を痙攣させているのにも気付かない。
 握りしめた拳に爪が食い込んでいく。声を荒げる代わりに、自身を痛めつけて怒りを流していた。言われたことより何より、なまえのことを何も知らず、何も理解出来ない自分に一番腹が立つのだ。たった一つだけ年上の彼女はいつも落ち着いていて、自分と違って滅多に感情を動かさない。いつもふわふわと笑って、掴みどころのない雲のようで。愛しいと思うのに、時折酷く責めてしまいたくもなる。
 彼女はどうして自分をここに連れてきたのだろう。本心を言うつもりもないなら、いつもみたく隠しておけばいいのに。
 想うからこそ、悔しいのだ。

「やっぱりダメだよね」

 なまえはやっと笑った。
 なにもかも、諦めてしまったみたいに。

「変なこと言ってごめんね」

 最後の言葉は震えを帯びていた。
 返ってくる言葉を待つこともなく、そのまま走り去っていくなまえを、三ツ谷は追いかけられなかった。せめて傘だけでも持って行ってくれたら良かったのに、彼女は雨に濡れるのも構わず外へ飛び出した。
 なまえの欲しい生地を見にいくという話をしたのは、一体いつのことだったか。それすらもう随分と昔のことのように思えてしまう。あの愛しい時を思い出しては、何故こうなってしまったのかと悔やみ続ける。

 結局、ふたりの目的は果たされなかった。
 三ツ谷は今日もなまえの心を溶かせなかった。なまえは三ツ谷に、受け入れてもらうことが出来なかった。


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