地獄でも手は繋げる


 陽が落ちてすっかり暗くなった窓の外では、しとしとと細やかな雨が降り出していた。水滴が教室の窓を濡らし、どんよりと曇る空の景色を油絵のように滲ませている。恐らくこれから本降りとなるだろう。
 梅雨の中頃。じめじめとした鬱陶しさが肌に纏わりつく季節。学校のクーラーは温度調節が効かないため、締め切った室内にいても天国のような心地とは言い難い。汗で張り付いたシャツの襟元を掴んでパタパタと仰ぎながら、三ツ谷隆は黙々と作業に及んでいた。カタカタと規則的なミシンの音は、集中力を極限まで高めていく。この音だけが響く静かな空間は、不良として名の通っている自身の凶暴性みたいなものを束の間だけ鎮めてくれる。
 三ツ谷の所属する手芸部の活動は主に日本縫製機械工業会等が主催するコンクールへ向けた制作作業だ。毎年夏と冬の二回行われ、部全体の共同作品や個人作品など様々な形態でのエントリーが可能となっている。コンクールではリメイク・デコ作品部門、小物・インテリア作品部門などあらゆる部門に分けての審査が行われ、三ツ谷は今年、衣服作品部門での入賞を狙い、東京卍會弐番隊隊長としての活動の傍ら制作活動に励んでいる。
 そんな多忙な日々の中、三ツ谷には一つ気がかりなことがあった。それは今同じ教室で隣に座って、自分と同じく衣服作品部門でのエントリーを行い制作作業をしている一つ年上の先輩。この、みょうじなまえだが、手芸部の中ではレアキャラ扱いされている。まあ、所謂ユウレイ部員といったところだ。しかし、彼女がひょっこり持ち込んでくるデザインはどれも頭ひとつ抜けており、独学で学んだとは思えぬほど繊細で精密なパターンを作成してきたりする。だから誰一人として彼女の自由活動に文句を言わない。
 なまえはコンクール作品の制作期間中のみ部活にふらりと現れて、それでいて何度も入賞経験がある。部内では煙たがられるどころかむしろ歓迎されているくらいだ。実績があれば学校側の評価が上がり、部費も潤う。手芸部の活動は何かと物入りだから、学校からの支援はとても重要なのだ。
 会う頻度は少ないとはいえ、彼女とはもう二年の付き合いだ。彼女はとっつきにくいタイプというわけでもなく、どちらかと言えばむしろ温厚な性格をしていると思う。後輩の質問にも丁寧にわかりやすく答えるし、今の部長には失礼な話だが、むしろなんでこの人が部長にならなかったのかと疑問に思ったくらいだ。
 まあ、そうはいってもユウレイ部員なので。と言われてしまえばしょうがない話なのだが。

「……なまえさん、進捗どうっすか」
 ただ、普段会えない人だからこそ、彼女が部活に顔を出す日はここぞとばかりに声をかけた。真似るは学ぶの精神で、三ツ谷は彼女が部活に現れる際は必ず彼女の横のミシン机を陣取っている。隣で見ていて思わず手が止まることもあるほど、彼女のミシン捌きは神がかっていた。
 早い、綺麗、丁寧。決して揺らぐことはない三本柱。さらには、自身の手元を真剣に見つめる彼女の瞼に生え揃う長い睫毛が頬に影をつくったりするのも、見惚れるほどには好きだった。美しいひとがつくる美しいモノ。そんなのは魅力的に決まっている。

「んー悪くない。三ツ谷くんは?」
「……微妙。こだわり始めると止まらなくて」
「いいじゃん。こだわりのないモノなんて何の魅力も感じないもん」
「まあ確かに。あとは時間さえあればなー」
「だね。わたし手伝えることあれば手伝うよ」
「…………ッマジっすか!!」
「っ、びっくりした!急におっきな声出さないでよー……」

 バチッ、と金属バネが弾けるような音がして、彼女のミシンの動作が止まった。三ツ谷の声に驚いた拍子に手元がぶれて、生地の分厚い部分に食い込んでしまった針が折れたのだ。「もー」と口を尖らせながら、折れてしまった針先をセロハンテープで巻き取る。三ツ谷は「やべ、すいません」とすぐに謝ったが、彼女は気にする様子もなくテキパキと針を替えている。その迷いなく動く細くしなやかな手先も、ミシンを覗き込む際、高く結われた髪が流れ落ちて見えたうなじも、三ツ谷はどうしようもなく視線をそそられる。自分のせいで迷惑をかけているというのに、オイシイ気分になってしまった。
 そんな自分を少し恥じながら三ツ谷はなまえが縫っていた生地を攫い、中途半端なところで終わってしまっている縫い目を解いた。幸いまだ縫いはじめの短い距離だったので、戻すのに一分もかからなかった。三ツ谷からそれを受け取ったなまえは「ありがとう」と微笑んだ。今のは百パーセント自分の方に非があるのでお礼を言われる筋合いもないのだが、三ツ谷は彼女の毒気のない素直さが「やっぱ好きだな」と思った。

 そうやって、三ツ谷は会うたびに自覚する。 
 自分はみょうじなまえに心底惚れているのだと。

「……つーか前にトワルチェックしてたあのスカート、どうなったんすか」
「んー……アレは備品倉庫に放置してある」
「は?! 何でっすか!勿体ない……!」
「ほしい布買うお金がなくて。もちろん部費もおりなかったし」
「…………あのパターンなら別に安い生地使っても映えそうですけどね」
「わたしもね、こだわりがあるの」

 ふふ、と悪戯っぽく笑うなまえを無邪気で可愛いなと思う反面、三ツ谷は伝えられた事実に愕然していた。
 デザインからトワル組みまで終えられた彼女のスカートは、三ツ谷も崇拝するデザイナー、【ココ・シャネル】が手掛けたブランドの最新コレクションでお披露目された作品から着想を得たというもので、三ツ谷も仕上がりを楽しみにしていたのだ。しかしどうやら彼女はお蔵入りを決めたようなのである。確かにスカートとなれば使う生地の長さもかかる費用も馬鹿にはならないし、しかもコンクール制作と無関係の作品ということであれば、それは基本的に自費負担だ。
 三ツ谷自身も決して裕福な家庭ではないので、金の事については何も言えなかった。なまえも幼い頃に両親を亡くし、今は父の兄弟の家で暮らしているという話を三ツ谷は別の先輩から聞いたことがあった。なまえの性格上、世話になっている叔父に金を工面してもらうという選択肢はそもそも存在していないのだろう。これ以上食い下がるとセンシティブな内容に触れてしまう恐れがあるので、三ツ谷は潔く肩を落とした。

「……まじか。俺めっちゃ見たかったのに」
「わたしも気に入ってたけどね」
「なまえさんがそんまま卒業しちゃったらあれフツーに処分されるんすよ? そうなったらマジ俺泣きそう」
「……んーじゃあさ。わたしが卒業したらバイトしてお金ためて作るから、それまで三ツ谷くんが管理しててよ」
「…………え? え、え、え、まじすか」
「いや? だったら別に」
「全然!やります!」

 なまえの提案に、落ちていたテンションがぐんと急上昇する。三ツ谷としてはそんなの、願ったり叶ったりだ。だってあの作品の完成形が見られる上に、なまえが卒業した後も接点が出来るのだから。

「つーかなまえさん、その生地今から見に行きましょうよ」
「……………なんで今から?」
「だって欲しいやつ抑えとかないと!一年後には廃盤になったりして買えない可能性だってあるかもしれねぇし」
「えーでも、そんなのやってくれるかな」
「俺、いつも良くしてもらってる店あるんで。口聞きしますよ」

 三ツ谷はドヤ顔で立ち上がった。なまえはうーんと悩む素振りを見せてから、ミシンから顔を上げて、教室の壁に掛かっている時計に視線を合わせた。

「……いいけど、その前に寄りたいとこある」
「ええ。なまえさんのためなら、どこへでもお供しますよ」
「っ、ふふ、なにそれ」

 芝居じみた声で言いながら三ツ谷が手を差し伸べれば、なまえはくすくすと笑みを溢れさせた。
 そうと決まれば三ツ谷の行動は早かった。手芸部はとくに決められた活動時間というのがなく、帰りは遅くとも18時30分までに部室を出ていれば良い。現在の時刻は17時30分を回ったところで、残っている部員はもう数えるほどだ。三ツ谷は使っていたミシンを片付けたあと律儀に全員に声を掛けてから、最後は部長に「俺となまえさんお先に失礼します!」と元気よく挨拶をして、ミシン机の横に掛けてあったなまえの鞄をひったくった。なまえはいつもよりテンションの高い三ツ谷に圧倒されている。あれよあれよという間に手を引かれ、三ツ谷と二人で部室を出た。

 二人がいなくなったあとの部室では、「とうとう三ツ谷くんがなまえのナンパに成功した」という話題で持ちきりになっていた。
 三ツ谷がなまえに惚れていることも、なまえが三ツ谷と隣同士で作業をしている時はほんの少しだけ普段のペースが落ちることも、部員全員が知っていた。


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