天国も地獄も知ってる


 父親が死んで、母親が死んで。全部思い通りにならないことばかりで、わたしだって死にたくなるよ。

 家に帰ってカバンを投げて、ソファに沈んで、ぎりぎりと歯を食いしばりながら惨めに泣いて。泣きじゃくって。浮かんでは消えていくその愛しい存在を記憶の中でなぞり「ああまた言えなかった」と自分の意気地のなさと稚拙な思考の愚かさに、落ちて落ちて沈んでいく。

 三ツ谷くんに縋ろうとしたのは、彼が自分と似たような境遇にありながら、まるで真逆の人間性をもったひとだからだ。
 基本的に人は自分と似ている人、似た者同士の人に興味を持ち、好きになりやすい性質がある。 家が近所だったり、趣味や部活、服装、ファッションセンスが似通っている等。似ている人は自分の仲間だと本能で思い込み、心理的に親しくなりたいと自然に思う。
 その反対に自分が持っていないような能力、知識などを有する人とは相補性の相性と言うことができる。
 彼はそのどちらも併せ持ち、いわばわたしの理想とする人間像そのままだった。

 三ツ谷くんの家族を心底羨ましいと思った。
「生まれた環境を憎むな」と彼は人に言い聞かせる反面、その言葉で自分を戒めている。彼が家族のことを愛するのは、同時に自分自身を疑わず、自身を肯定し愛しているからだ。
 まずわたしにはそれが出来ない。父と母が護り育ててきてくれた命を何とも思わず、例えば学校に向かう通学路で車に跳ねられたりしないかな、とか。ある日家に入ってきた強盗に襲われて殺されたりしないかな、とか。いつもふとしたときに、自分が死ぬことを想像している。でも、「自分で自分を殺したら、地獄に堕ちるよ」と母から言い聞かされてきたので、それだけはどうしても出来なかった。死ぬなら父と母と同じ天国に行きたい。ただそれだけの感情が、惨めなわたしをこの世に縛り付けている。

 養父、もとい叔父は、最低なクズ男だった。
 父と母の遺産目当てでわたしに近づき、当時まだ小学6年生であった何もわからないわたしの手を引いて裁判所に連れて行き、未成年後見人としての手続きを取った。裁判所では、色々なことを聞かれた。面接を担当したのは女性の調査官で、叔父とは随分話が弾んでいたように記憶している。皆、この男の外面のよさに騙されるのだ。32歳という若さで実業家、三つの会社を経営している所詮エリートと呼ばれる人種だ。結婚はしておらず、事業は軒並み好調で金など余るほど持っているくせに、野心はまだまだ尽きないような人だった。父と母の元を訪れては頻繁に良くわからない投資話を持ちかけてきたりと、わたしからすればとにかくいかがわしい人間だった。
 遺産相続の手続きさえ終われば、わたしはこの男から解放されるものとばかり思っていた。しかし、わたしの地獄はここから始まった。

「今日から俺もこの家に住むよ」
 男は悪魔のような顔で微笑みながら、わたしの頬をするりと撫でた。高い背を折り曲げて、目奥を覗き込まれる。頬に触れていた手が首を締めるように巻きついて、あまりの恐ろしさに嫌だ、と口に出すことさえ出来なかった。
 その日から、男のモノも含めて家事全般をわたしがやることになった。食事の味付けが好みでなければテーブルを蹴ってやり直しを命じられる。ワイシャツのアイロンのかかり具合が緩いと、寝ていたベッドから引き摺り下ろされる。ミシンの音がうるさいと、読んでいた本を投げられる。

「なまえは俺の奥さん代わりなんだから、俺の言うこと聞いて当たり前だろ?」

 至極当然のように、悍ましいことを口にされたのは、私が中学一年生に上がった年の夏のことだ。

 わたしは毎日男が帰ってくるまでにご飯を用意して、洗濯をして、シャツのアイロンがけをして、風呂の用意をして干していた布団を取り込んで、兎に角やらなくてはならないことが沢山あった。そんな日々の中、唯一の癒しである手芸部での活動も段々ままならなくなってきて、とうとうコンクール期間にしか顔を出せなくなった。でも、部員の子たちは身勝手なわたしをいつも暖かく迎え入れてくれて、中学二年になってからは可愛い後輩もたくさん入ってきて、その空間にいる時だけわたしは地獄を忘れられた。
 三ツ谷くんと仲良くなってからは、わたしはさらに手芸部の活動にのめり込んでいった。部活に顔を出せない日は、寝る間を惜しんで家で作業に没頭した。夜はミシンが使えないから手縫いでも出来る作業を行って、朝、男が出て行ってからは授業もサボって家で無心にミシンを走らせていた。コンクールで数々の賞を取るようになり、わたしはそれだけを生き甲斐に感じていた。
 次第に家にいる男のことも気にならなくなって、決められたルーチンとして家事を行うことにも慣れてきた。話しかけられても適当な相槌で返して、感情を殺して笑むことも得意になった。今思えば、それが男の何かを刺激する要因となってしまったのかもしれない。

「なまえ、お母さんそっくりの美人になったな」

 洗面所に立ち、ドライヤーで髪を乾かしていた時のことだ。鏡越しに男の姿を捉えて、その視線が身体中を這いずり回っていることに気づき、背を駆け抜ける嫌悪感に打ち震える。
 嫌な予感がして、まだ生乾きのままドライヤーのコンセントを抜き、無言で男の横をすり抜けようとする。しかし、去り際に手首を掴まれて、それは叶わなかった。

「なあ。俺の言うこと、聞けるよな」
「……………… はなして」
「お母さんの形見のミシン、随分大事にしてるみたいだけど」

 そのたった一言で、心臓を鷲掴みにされたような心地に至った。ピクリとも動けなくなったわたしに、男は心底愉快そうに喉奥を震わせる。

「この家もお前も、もう俺のものなんだよ」








 頭が狂ってしまったほうが、この世はきっとずっと楽に生きていけるのだと思う。心も身体も地獄に蹂躙されて、そのたび死にたくなって。自分で死ぬ勇気もなくて、男と同じ地獄に堕ちたくもなくて。私はどうすれば死んで天国へ行けるのだろうと考えた。やっぱり事故死? それとも誰かに殺してもらう? ──あの男はわたしを人形のように甚振るけれど、きっと殺してはくれない。
 どうせ殺されるなら、好きな人の暖かい手のほうがずっといいな。その時ふと思い浮かべるのは、同じ部活のひとつ年下の男の子だ。不良の癖に手芸部なんて笑える。いつもは喧嘩ばかりしてる無骨な手の癖に、見惚れるほど繊細な動きで針を扱ったりするから不思議なんだ。彼はわたしを「綺麗だ」とか何とかいうけれど、あなたの方がよっぽど綺麗だよと笑みに込めて返すのがやっとだった。彼は入部当初から、二人いるという妹のために色々なものを作っていた。ある日カバンにつける刺繍がうまくいかないと悩んでいた時、わたしが横から手を出したのがきっかけで仲良くなった。愛する妹を想う彼の横顔が泣きたくなるほど優しくて、たまらなく好きだった。わたしが死んで天国にいって、もし生まれ変われるのだとしたら、来世は彼の妹に生まれてこれたらいいのに。


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