ぼくがオズウェル家に養子としてやって来たのは、10歳の時だった。
オズウェル家の「家族」は、本当の…すなわちラントの家族に比べて、かなり冷たいと思った。いや、そうではないのかもしれなかったが、ぼくはラントの両親に捨てられたことのショックで、恐らくこの「家族」に完全に馴染むことなどなかっただろうし、何にせよオズウェルの血を引かないぼくは、結局は「余所者」扱いが抜けることはなかったのだろう。
今となってはそんなことはもうどうでもいい。「父上」も「従兄さん」もここの「家族」では、名前とは別なもう一つの呼称に過ぎない。
とにかくその頃のぼくは、以前からの人見知りや臆病さ、またラントの家族と離れた寂しさが災いしたのもあって、この屋敷にいることが息苦しくて仕方がなかった。
きっと彼女がいなかったら、ぼくはこの屋敷から逃げ出していただろう。
こんこんこん。
控え目なノックの音。誰だこんな時間に、とは思ったが。
「どうぞ」
軍の書類を書く手はそのままに告げれば、かちゃり、と今度はドアの開かれる音。
「………ヒュー兄、」
目を遣らずとも声でわかった。
それに、ぼくをそんな風に呼ぶのは一人しかいない。
キオノ・オズウェル。
―――ぼくの、従妹。
この冷たい家族の中で、ぼくを唯一認めてくれる存在。
「……久しぶりですね、キオノ」
軍の仕事が忙しく、屋敷にほとんどいなかったので、彼女とも暫く会っていなかった。
やはり手は止めずにそう声を掛けると、いつもはすぐに返ってくるはずの返事が、ない。
ちらとキオノの顔を窺うが、その表情は――いや、纏う空気は、いつものそれではなかった。
「………何か用ですか?」
違和感が否めない中、ぼくは努めて平然と告げる。
「………うん、でも………お仕事の邪魔、かな」
「――いえ、別に。時間が掛かることですか?」
「え……と」
絶対におかしい。なんでそんなに緊張しているんだ。何があって、そんな悲しい目をしているというんだ。
「……お茶でも、一緒にどうかな……って」
「……………」
絞り出された、不自然な提案。
……そんなトーンで、しかもこんな時間に、か。
何か重要な話でもあるのだろうか。内容はさっぱり予想できないが。
「―――――いいですよ」
「……本当?」
「えぇ」
ようやく終えた書類の束をとんとんと揃え、立ち上がる。
ドアに立ったままだったキオノを促せば、彼女は「ありがとう」と呟いて、足を進めた。
てっきりダイニングに向かうのかと思ったが、通されたのはキオノ自身の部屋だった。
この理由は簡単に予測できる。
―――万が一、他の誰かに聞かれたら不味い話をする、ということなのだろう。
あのね、とキオノが話を切り出したのは、久々に彼女に淹れてもらった紅茶に口をつけて、暫く経ってからだった。
「……私、この間、16歳になったでしょ」
「そうですね。直接祝えなくてすみませんでした」
「ううん!手紙くれて凄く嬉しかったよ」
そう言って彼女は、彼女が部屋を訪ねてきてから初めての笑みを見せてくれた。
しかしやはりというか、その表情はどこかぎこちない。
――なんで、そんな顔をするんだ。
胸がぎゅっと締め付けられて、苦しい。
「……それでね、あの…私」
す、と目を伏せたキオノに、ぼくも思わず、唾を飲み込む。
「私、結婚するんだって」
…………は?
「…………そう、なんですか」
「………うん」
それ以外になんと答えればいいのか分からずそう言えば、ぼくの反応を予想していたかのように、キオノも微かに頷いた。
彼女は二週間前に誕生日を迎えたばかりだ。
16歳…つまり、結婚できる年齢になったということ。
確かに急すぎる話だがしかし、オズウェル家の血をしっかり受け継いでいるキオノ……そもそも何故許嫁がいなかったのか不思議なくらいだ。
そう、考えればおかしくはない話なのだが、しかしぼくは無意識の内に、膝に乗せた両手をギリギリと爪が食い込んで痛い程、固く握りしめていた。
―――何なんだ、何に、耐えているんだ、ぼくは。
………いや、理由なんてわかりきっている。
ぼくが、キオノに、恋愛感情を持ってしまっていた、から。
こんな風に自身が傷付くことだってわかっていたはずだ。だからぼくは言わなかった、この気持ちを堪えてキオノの側にいた。それだけでも君は微笑んでくれたから。それだけでもぼくは―――
「――それでね…ヒュー兄に、お願いがあるの」
キオノの声に、意識がはっと現実に戻される。
落ち着け。落ち着け。今までだってやってきたことなんだ自分を隠すことなんて慣れているだろうぼくは。
手の平に爪が一層食い込む。
…わかった。これは嫉妬だ。
ぼくは、キオノを取られたような気になっているんだ。彼女を失う虚脱感と悔しさがない交ぜになって、キオノがぼくの所有物というわけでもないのに勝手に嫉妬しているんだ。
――――ぼくが嫉妬、か。
内心で自嘲してしまう。
努めて冷静に返事をした。
「………なんでしょう」
キオノを見ると、言葉を探しているのか躊躇っているのか、何度か口をぱくぱくと動かしていた。
が、ついに決心したように薄く溜め息をついた。
「今から話すことは、聞かなかったことにしてください」
「………は、」
「実は私、小さい頃からずっと結婚相手が決まっていたんです」
ぼくに構わず、キオノは咳を切ったように話し出した。
「始めはなんとも思っていませんでした。父上と母上にはそれがオズウェル家の為にもなると言われていたから、それでいいのだと思っていました。
―――貴方に、会うまでは。」
ひた、と揺らぐ視線が重なる。
どくん、ぼくの心臓が苦しいと叫ぶ。
「家族は勿論、許嫁の彼もとてもいい人で、私は大好きでした。
でも、7年前にヒュー兄と出会って、私は知ったんです。
"心からの笑顔"を。
そして、気づいてしまったんです。
……この屋敷にいる人も、その彼も、"嘘で繕われた笑顔"しかしない、と」
―――結婚をさせた方が両家にとっていいのだろうが、それは形だけに過ぎない。
……そこに"心"は存在しない。
形だけの結婚。
並ぶのは張りぼての笑顔。
キオノは服の裾をきゅっと握りしめた。震えている。
「――怖くて。怖くて。
……家族を信じられない私が、嫌で。嫌で………」
――この娘は……
なんて純粋で、優しく、無垢な心を持っているというんだ。
「だから、繕われた笑顔の父上、母上の言うことが聞きたくなくて。本当の笑顔を見せてくれない彼を許嫁にしたくなくて。ずっと拒否し続けてきたんです。」
俯いたキオノの顔から、
ふっと光が落ちた。
「……ヒュー兄だけは違った。
ヒュー兄の笑顔は、とてもあたたかかった。
ちょっとだけ、不器用だけど、優しさは…心は、私がずっと触れていなかったぬくもりだった。
―――――――ごめんなさい、ヒュー兄、」
キオノごしごしと目元を擦る。少しの間を空け、彼女は短く息を吸い顔を上げた。
「私は貴方を、愛しています」
息が、止まった。
空気が、止まった、のか?
それとも、時間が、止まって、しまった、のか。
キオノの放つ、真っ直ぐな視線に射竦められて、ぼくの全部が止まってしまった。
頭の中も、真っ白だ。
辛うじて、ぐしゃりと歪んだ顔と、小さな嗚咽が漏れたのはわかった。
「……………で、でも、ヒュー兄は、ヒュー兄は…わ私より辛い、のに、――お…っオズウェル家の、為に、お仕事、頑張って、いる、からっ……
だ…だから、私が、こ、この家の為に…………ひヒュー兄のた、めに、でき…ること、は―――」
――聞きたくなかった。
だから、止めたかった。
でも、7年経った今も臆病なぼくは、彼女の隣に座り、手をぐっと握りしめてやることぐらいしか出来なかった。
それでも、ぼくの何倍も強いキオノは必死に言葉を紡ぐ。
「……ごめ、な、さ……
――……ど、うしても、伝え、ること…だけは…した、くて、だから……」
―――――駄目だ。
そう思った。
――――このままじゃ、絶対に後悔する。
「…………!、」
だからぼくは、彼女の華奢な体をこの身で包んだ。
壊さないように。
この瞬間を、ぬくもりを、ずっと忘れないように。
「キオノ」
「……………は、い」
「――貴女は強いですね」
「…………そ、そんなこと」
「ありますよ。だって貴女は、ぼくが諦めていたことを成し遂げたのだから」
「えっ?」
「………悔しいですがぼくは、結婚のことについては、キオノを守れそうにありません。
ですがせめて、貴女の――その綺麗な"心"と"笑顔"は、守りたい」
キオノの両肩に手を置き、ほんの少し距離をとる。
ぼくの気持ちが伝わりますように。真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
ぼくさえも、忘れてしまっていたその笑みを浮かべ。
「ぼくも愛していますよ。キオノ。」
「―――――…っ」
一瞬その瞳を大きく見開き、彼女は頬を染めて微笑んだ。
「……………ヒューに――」
「『兄』は余計です。」
「くすっ……そうだね」
もうその笑みに、ぎこちなさなどどこにもなかった。
「ありがとう、ヒューバート。
私を守ってくれて。
……私を愛してくれて。」
――キオノと"心"を交わしたのは、それが最後だ。――
最初で、最後の、
「愛してる」。
((君を愛せて、本当によかった))
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長ぇよ重ぇよ酷ぇよ/(^P^)\
ヒューを「ヒュー兄」って呼びたかっただけなのにw
その何ヶ月か後のキオノちゃんの結婚式で、寂し気な微笑みで「さよなら」を交わす二人。………
ひええぇぇぇええぇえ←
[←]*[→]