musica
009
小淵楽器店と書かれた看板を背にして、人気の少ない路地を歩く。駅前でも郊外でもない微妙な立地ゆえに、人の姿はまばらだった。ふと、見覚えのある色が過る。視界の隅に引っ掛かったそれを追いかけて振り返った。
「竹内」
反対側へ通り過ぎようとしていた足が立ち止まる。たん、と軽い音で彼が振り返った。平凡な顔立ちが、ただ茫然とそこにある。しかし、声をかけたのが小淵だと分かれば、途端に表情が笑み崩れた。ふわふわと柔かな茶髪が揺れて、小走りに駆けてくる。
軽く会釈をして、彼はいつも通り、斜め掛けバッグを探り出した。そこから出てくるのは、スケッチブックだろうか。今日は暗いから携帯端末かもしれない。
「なぁ、竹内」
ぼと、と声が落ちた気がした。手を止めて、こちらを見上げてくる茶色い虹彩。眉を顰めて注視してくるそれは、不安げに揺れている。
「ごめんな」
そう言えば、今度ははっきりと首を傾げた。普段、何げない会話しかしてこなかった相手に謝られる理由を見つけられない。そんな表情をしていた。
「たぶん、竹内が一番知られたくないことを知ってる」
零れ落ちそうなほどに大きく見開かれる。蛍光灯の光が反射して、黒目が小さく見えた。ぼんやりした明かりの下だからか、肌がより白くなったようだ。
唾を飲み込む音が嫌に耳についた。
「本当に、ごめん」
歌うことが好きだという彼。憧れのバンドだったという彼。声を出そうとしなかった彼。最初は、なんで話してくれなかったんだと思った。ぐるぐると渦巻く中で見つけたのは、彼が憧れだと言ってくれた言葉。声をかけたときに逃げ出した本当の理由。
コンプレックス。それを、晒したくなかった。
どう頑張っても足掻いても、声帯がない音は、やはり歌うことに制限を齎す。彼にとって、取り戻したものは、「声」ではなかったのだ。歌うために必要なものすべてをそぎ落としてしまった人工的な「音」。
他人に見せようだなんて思うだろうか。ましてや、憧れを持っていたという相手に。
「謝る、必要は、ないです」
聞こえてきたのは、雑多なノイズが入り混じった嗄れた言葉。不明瞭な発音で短く区切られた、不自然な声だった。