musica

008

 長机が二つ、パイプ椅子が四つ。その奥のパソコンと回転椅子にどっかりと座って彼女は、そのどれかに座るように促した。入口に近い方の椅子を引き、彼女が口を開くのを待つ。
 見れば、彼女は指先で店舗のマスコット人形を転がしていた。

「あの子と知りあいなのかい?」

 ころり、ころころと指に弾かれる指人形。それを見ながら、知り合った経緯を伝える。不審な声色が強かったのだろう、彼女はひとつ苦笑して、言葉を続けた。

「…いや。別にたいしたことじゃないんだ。あの子…蓮のことはよく知ってるからさ」

 器用に落とさずに回転させながら、小淵を見やる。観察するような視線に自然と背筋が伸びた。

「おばさ…さつきさんこそ、竹内と知り合いだったんですか」

 思わず言いかけた言葉を飲み込んで、知らなかった彼の事を尋ねる。彼女の返答は、至極軽いものだった。

「もちろん。だって、あたしの初めての生徒があの子だからね」
「へぇ…え…ッ」

 聞き流しかけて声が上擦った。歌にもプレゼンにもいいとして一種ブームとなっているボイストレーニングを、彼も受けていたとは。それも、叔母の教室を利用している。そんなことを夢にも思うはずがない。
 叔母は、驚きを隠せない甥を見てチェシャ猫のように笑った。

「すごく楽しそうに歌う子だったよ」

 特別上手だったわけでも、とても綺麗な声だったわけでもない。もちろん、練習したところで歌手になれる逸材でもなかった。ただ、歌うという行為が好きだと全身で語っていた。それこそ、生きる目的と言えるほどに。

「だからさ、歌う事をやめたって聞いたときはびっくりしたねぇ」

 気持はわかるよ、あれだけ努力してあんな声じゃねぇ。そう続けて、深い溜息。

 声。その一言に引っ掛かりを覚える。彼は、声を出せないのではないだろうか。白いページに並んだ綺麗な文字が思い浮かぶ。それとともに、彼のじっと耐えるような顔が過った。
 ふと、伏せられていた目が小淵を捉えた。

「あんた、どうして驚いてるのさ。知ってたことじゃないのかい」

 知っていたのは、彼が「話せない」ことだけだ。そう言いたいのに、言葉は出てこなかった。
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