musica

010

 目の前には、喉に手を当てて淋しそうに微笑む竹内。小淵と目が合うと、彼の笑みが一層深くなった。指先が、喉を覆う布にかかる。する、と引き下げられたそこには、小さな穴が開いていた。

 シャント発声法の手術痕。声帯を失った人間が声を取り戻す方法の中で一番「元の声」に近い発声が出来る。ただ、その効果は人それぞれ。どれだけ努力しても、掠れと不明瞭さと長く話せないことは変わらなかった。

 僕の、我儘ですから。だから、謝る必要はないのだ、と掠れた声が、小さく落ちる。いつかは知られると覚悟していたのだろう。その笑顔は、諦念が入り混じっていた。

 伏せられていた目が、ふとこちらを捉える。茶色の虹彩に蛍光灯が反射して、目が光を発したようだった。再び首元に手が添えられて、喉が動く。

「…むしろ、怒らないんですか?」

 秘密にしていたこと。雑音混じりの男声が、不自然に揺れる。震えたような声音は、まっすぐこちらに向けられる眼にも込められているようだった。

 小淵は、思いもよらない反応に、瞠目する。

 わりと何でも話し合えるようになった、そんな間柄で、それなりに大きな嘘をつく。確かに、知ったときは寂しさを感じた。しかし、それは、仕方ないことであり、なによりもまず、彼がどんな気持ちで嘘をついたのだろうと思考は塗りつぶされていた。小淵に知られた、それを知ったとしたら彼はどうするだろう。離れて行ってしまうのか。声を出せない彼のことばかりを考えていた。

「…考えたこともなかった、な」

 不思議そうに首を傾げた彼の眼を見ながら、正直に告げる。途端に、胡乱気な表情となる竹内。やはり、声がなくても彼は表情豊かだ。あの声も、努力した結果なのだから、本人にとってはよくないだろうが、小淵は気にならない。

 ああ、そうだ。そこで思いだす。友人と電話したときに、拒絶されたにも関わらず追いかけようとしていた理由を、「惹かれた」と答えていた。

 自然と頬が緩む。なんだ、そうだったのか。そんな言葉が漏れていた。

 一人で呟いていた小淵に注がれる一対の視線。眇められたそれは、戸惑いばかりが見えている。
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