maskingtape

009

 コンビニからの帰り道。今日は、普段以上に、足が軽い。それは、新しい友人の名前を知ることができたという些細なことが理由だった。それでも、太一にとっては、大きな出来事だ。

 職場と自宅の往復。生活に必要なものを、通販で取り寄せ、極力見慣れた場所以外には行かない生活。旅行も、あまり行ったことがなく、パスポートさえ持っていない。ひきこもり、というほどではないものの、外部との接触が極端に少ない。

 だからこそ、ああやって誰かと親しくなれる予感は、彼の心を浮き立たせるには十分だった。だからこそ、不注意につながったのだろう。

 どん、と衝撃が走る。後方に転びかけて、慌てて踏みとどまった。

「ご、ごめんなさ――」
「どこ見て歩いてンだよッ」

 謝罪を遮って、鋭く低い声が響いた。あまりの音に、思わず顔をあげてしまう。
 体躯の大きな、サラリーマン風の男。彼の腕には、派手なメイクを施した女性が、しがみついている。二対の目が、太一をなめ回すように睨みつけた。

「す、すみません。ごめんなさい」
「前見て歩けよな――ったくよォ」

 赤ら顔の二人は、か細い声を聞いて、犬や猫を追い払うような仕草をする。ぶつぶつと聞こえる文句を浴びながら、太一は、道の隅へと立ち退く。退いた先、革靴とハイヒールが、ふらふらとした足取りで通り過ぎていく。文句は聞こえてくるが、何を言っているのかはわからない。そのことに少しほっとしながら、首元に手を当てる。

 いつもの感触がなく、何度か探すように手を動かした。街灯に照らされた道に、視線をめぐらせる。ほんの少し離れた先に、見慣れた色が落ちていた。ぶつかったときに、落ちたらしい。きちんと見つかったことに安堵して、太一は、それを拾おうとした。

「さっきのやつ、すげぇ面白い顔してたな」
「やばくない? あの顔で出歩けるとか」

 偶然にも、あの二人が去っていく方向だった。近づいてしまったおかげで、聞こえてきた「文句(ことば)」の中身。ほかに人がおらず、夜の静けさも手伝って、耳が拾ってしまったそれ。拾いかけたマフラーを、ぎゅっと握りしめて、音を立てないようにその場を去った。



 ぱた、と小さな音を立てて扉が閉まる。冷え切った室内の空気が体を突き刺していく。ろくな暖房のない場所だったが、見慣れた場所(じしつ)に人心地ついた。

 きちんと鍵をかけたことを確認して、外套(コート)や荷物、頑なに外さなかった帽子を外す。汚れてしまったマフラーは、電灯の下、先日の雨で濡れていた。煎餅布団の上に荷物を放って、風呂場へ向かう。洗面器と、洗剤と。ガスの電源をいれ、蛇口をひねる。出てくる水を見つめて、ふと顔をああげた。

 映し出されるのは、崩れた顔。

 嘲笑う二人の声が、耳の中で反響する。酒に飲んで気が大きくなっていた人が、苛立ち紛れに言っていただけ。二度と会うこともない、赤の他人だ。あのころのような、人々は、いない。あの人たちではない。そう、何度も言い聞かせても、鏡の中からは、煮詰まって濁った黒目が見つめ返してくる。

「やっぱり、いやな顔、なんだなぁ」

 湯気が、鏡の中を覆い隠していく。このまま、自分も消えてしまえたらいいのに。そう願いながら、風呂場の扉を閉めた。
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