harmoney
002
今日も、木枯らしが吹く道の中、小淵楽器店の文字を見つける。綺麗なガラスの向こう側、竹内にとって手が届かない場所になってしまったそこを覗きこむ。普段と変わらない、様々な楽器が置かれた店内。その、少し奥まった場所に歌に関する教本やテクニックについての教材が置かれたコーナーがある。数か月前まで、毎日のように通っていた場所。
竹内蓮は、なによりも歌うことが好きだった。歌う事で、嫌な事を忘れることができた。耐えることができた。多くのつながりを手に入れた。この楽器店も、そのつながりの一つである。
そんな、大切な場所。
ほう、と息を吐く。喉を震わせない呼吸は問題なく行われ、ガラスを一瞬だけ白く染めた。眼を閉じる。
歌えなくなった理由に触れる。声帯をなくして、代わりに穴を空けた喉。息を吸い込んで喉を震わせても、掠れた音が小さく零れただけだった。
歌えないのに、歌うための場所に来る。不毛だ。水面に映る月は掴めやしないのに。それでも、身体は毎日、その道を選んでいた。
ふと、耳が綺麗な高音を拾った。柔かな高音がゆったりと伸びていく。そこから始まる軽やかな八分音符。スタッカートが飛び跳ねて、子犬がころころ遊びだすような、そんなメロディ。楽しげなそれは、聞く人を笑顔に変えて一緒に歌おうと誘っているようだ。閉じていた目を開けて、音源を探す。目についたのは、エレキギターを抱えて指を自在に動かす青年の姿。展示している楽器を試せるようにと設置されている空間で、自由に音を跳ねさせている。直接音を響かせているアンプでさえ、黒い体を躍らせているように思われた。
すごい。無意識に零れた音のない声。掃除に時間がかかるだろうと普段は触らないガラスに顔をくっつけて、もっとよく音を聞き取ろうと覗きこむ。
よく見れば、青年は店員を示すシックなエプロンを着用していた。店内には、彼以外の人物がいない。ちょっとした暇つぶしだろうか。ただ、優しげな笑みを刷いた目が、とても輝いていた。
デジャヴ。一瞬、その笑顔に、別の誰か、どこかの影が重なる。音楽が楽しくてたまらない。そんな笑顔を、彼の優しげな眼を、別の場所で見た。そんな懐古の気持が過った。