4月(T6)
始業式や他の教職員への挨拶を終え、私はようやく一息ついた。
やはり始業式に壇上へ上がって自己紹介というのは緊張するものだ。けれど流石名門校というだけあって生徒も静かに私の話を聞いてくれていたものだから安心した。
先生達へ挨拶をした時も、みんな笑顔で応対してくれて、何か困ったことがあったら相談に乗るだなんて優しい言葉を掛けてくれる良い人達ばかりだった。特に中等部から引き抜かれ、私と同じく4月から聖帝に赴任となった南先生からは同年代の女同士仲良くしましょうね、と言ってもらえた。
学校へ来る前に抱いていた不安はもうなくて、新しい生活への期待に胸を膨らませながら私の主な仕事場となる保健室へと向かっている所だった。
「ねぇねぇ、そこのき〜みっ」
背後から呼びかける声が聞こえた。辺りには他の人はいないし私のことを呼んでいるのだろうと思い振り返る。
「はい?何か用で…っ!」
そして振り返った先で見たその人の姿に驚き目を見張った。
だってその人は赤い派手なスーツを着ていて、学校という場所には少し浮いている姿をしていたからだ。
「見たことないかわい子ちゃんがいるなーと思って声を掛けたんだけど、何々?
新しい先生?」
「あっ、はい!今年度から養護教諭として赴任した織本舞夜です」
驚く私を特に気にする様子もなくその人は、ホストのような軽口を織り交ぜながら問い掛けてくる。
慌てて私が言葉を返すと、そういえば新しい保健の先生が来るって言ってたな、なんてぼやいていた。
「そうかそうか。あーもうそんなに固くならなくてもいいよ」
「はい。えっとあの、あなたは?」
教師なのだろうか、と思いつつ、今度は私が問い掛けた。でもさっき職員室で挨拶をした時にはこんな先生はいなかったはず。
「あ、俺は葛城銀児。国語担当ね、よろしく。銀ちゃんって呼んでくれていいよ、マイハニー」
「は、はぁ……」
手を取られ握手をしながら、マイハニーって何だろう、先生ならどうして職員室にもいなくて、始業式で自己紹介したはずの私を知らないんだろうと頭の中で様々な疑問が渦巻いていた。
すると手を離した葛城先生はその手を輪っかにして口元へ持っていくと喋り始める。
『あ〜、テステス』
その瞬間、突然マイクでも使ったかのように辺りにエコーのついた葛城先生の声が響いた。
「えっ?…えっ!?」
『Oh!こんな可愛い子に、こんな時に出逢うなんて…。さっきまで荒んでた心が晴れ渡るようだー!!』
周囲を見回してもスピーカーなんてないし、葛城先生の手の中には勿論マイクもないのに声は響いている。何なの、このエアマイク…!!
『さぁ今から保健室という名の愛の巣でランデブーを楽しもうじゃないか!おっとその前にこの運命の出逢いの記念に熱いベーゼを……』
戸惑う私を余所に葛城先生はますますエコーを利かせながら私に近付いて来てくる。思わず後ずさると腰に、空いていた片手を回され逃げられなくなってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください葛城先生!」
「銀ちゃんでいいって言っただろう。ほら逃げないで」
いつの間にか手マイクを止めていていたものの、今度は囁かれながら顔を近付けてくる。慌てて胸を腕で押し返すもビクともしない。
「こんなことで照れてちゃ後が大変だよ、マイラヴァー。もっと恥ずかしいこと、これからいっぱいするんだきゃらうううぅぅぅぅぅっ!!!!!」
逃げられないと思い諦めかけた時だった。
言葉の途中で葛城先生先生は子犬の鳴き声のような高い声をあげて床に崩れ落ちた。
「……全く、君こそもっと羞恥心を持つべきだと思うけどね」
「えっ?」
聞こえてきた声に顔を上げると、床に倒れこんで呻き声をあげている葛城先生の後ろには、朝に職員室で挨拶をした先生達がいた。
「間に合ってよかったよ。赴任早々織本先生に迷惑をかけてしまってすまないね」
掲げていた出席簿を下ろしながら、申し訳なさそうな表情を浮かべるのは、地理・歴史担当の鳳先生だ。
「怖い思いをしたでしょう。もう大丈夫ですよ、織本先生」
その横には、年齢を感じさせないほどに若々しくて男の人だけど綺麗な数学担当の衣笠先生がいて優しく笑いかけてくれる。
その労るような言葉に安心したのか、力が抜けて私はへなへなと床に座り込んだ。
「わ、大丈夫!?ごめんな、もうちょっと早く気付いてあげられたら良かったんだけど…」
そんな私に慌てたように駆け寄ってくれたのは外国語担当の真田先生。どこか幼さを残す彼が眉を下げながら頭を撫でてくれる姿はお兄ちゃんって言葉がとても似合いそうだ。
「女性であれば誰であろうと見境なく不貞を働いて……あなたは本当に碌なことをしませんね」
「うるせー陰険メガネ!」
そう言って漸く動き出した葛城先生を見下ろしながら公民担当の二階堂先生がナイロールの眼鏡を押し上げた。
「おい織本、立てるか?」
「へっ、うわっ!」
理科担当の九影先生に声を掛けられると同時に、腰を両手で持たれまるで子供を扱うかのようにそのまま軽々と持ち上げられて立ち上がった。
「あ、ありがとうございます」
「いいってことよ」
お礼を言うと、笑顔を返してくれた。見た目は強面だけど優しい人だということは挨拶した時に思った通りだった。
葛城先生が立ち上がると、腕を組み眉間に皺を寄せた鳳先生が問い詰めるように言う。
「全く、探して正解だったよ。遅刻して、始業式にも出席せず、その上織本先生を困らせるような真似をして…」
「鳳様ぁ!いや、そ、それがですね朝職員室へ行こうとしてたら仙道のやつが仕掛けた罠にかかって、さっきやっと解放されて、いじけてたら彼女に出逢って癒やしてもらおうと……」
「問答無用!!」
「ぎゃああああァァァ!!!」
葛城先生は恐る恐る言葉を選びながらといった様子で答える。言葉を途中まで聞いた鳳先生は手にしていた出席簿の角を葛城先生の頭へと振り下ろした。そしてそのやりとりを眺めていた私は、さっき葛城先生が倒れた原因と私のことを知らなかった理由を理解した。
頭を抑えながら俯く葛城先生の後ろ襟を九影先生が掴んで持ち上げ、葛城先生の体は宙に浮いた。腕を動かし、葛城先生と目が合うようにすると片眉を釣り上げながら私に掛けてきたより大分低い声を出す。
「赴任したてで戸惑ってる織本を恐がらせて…覚悟は出来てるんだろうな?あぁ?」
「太郎さん、その顔マジで怖いからやめて!!」
その途端、葛城先生は手足をじたばたさせながら抵抗しているようだった。
「もう心配いりませんよ〜、織本先生。この野蛮な動物は僕達が回収して二度とこんな真似が出来ないようにお仕置きしておきますから」
「衣笠さんにならお仕置きされても構いませーん!!」
2人の側にいた衣笠先生は女の私でも見惚れる美しい笑みを湛えたままで、毒突く。その言葉を聞いた葛城先生は何故だか嬉しそうに笑顔を浮かべていたけれど、次の瞬間には力が入らなくなったようにがくりとうなだれていた。一瞬衣笠先生が動いたように見えたのは気のせいではないのかもしれない。
「あなたも不用意にこの借金大魔王に近付かないように注意してください」
「は、はい」
「おい、今借金は関係ないだろ!つーか織本ちゃんにばらすなよ!!」
「私はただ事実を述べただけですよ」
二階堂先生の葛城先生に近付かないようという警告より、借金大魔王という言葉に驚いた私だったけども葛城先生が肯定ととれる発言をしたので、どうやら本当のことらしい。というか"借金大魔王"だなんて、二階堂先生は思っていたよりユーモアのある人みたいだ。
「二階堂先輩の言う通りだよ。大体、葛城さんが一方的に悪いんだからね。なに言われたって文句は言えないよ」
二階堂先生のことを先輩と呼び、その言葉に笑いながら便乗する真田先生の姿はなんだかとても楽しそうだった。
先程挨拶した時に見えなかった一面が見られて嬉しい反面、少し不安になった。
「さて、葛城先生も捕獲したことだし、そろそろ職員室に戻ろうか」
鳳先生がそう口にしたのを皮切りに他の先生達も私にそれじゃあ、と軽い挨拶をしてこの場を立ち去ろうとする。
九影先生にずるずると引き摺られるように連れていかれる葛城先生を見て、思わず声を上げていた。
「あ、あの!」
「なに、織本先生?葛城さんなら連れてくし、他にこんなに危険な教師はいないから安心しなよ」
私の声に先生達は皆振り返り、一番近くにいた真田先生がにかっと爽やかな笑顔を浮かべながら言う。
「いえ、そうではなくて……」
「じゃあ何か他に心配事でもあるのかな?」
低めの落ち着いた声で優しく問い掛けてくれる鳳先生の下へ私は駆け寄った。
「えっと、確かにさっきのことは困りましたけど、皆さんが助けてくれて何もなかった訳だし、葛城先生も次から気をつけて頂ければ問題ないので……」
考えが纏まらないうちに話し始めたものだから自分でも何言ってるか分からないけど、とりあえずこれだけは言っておきたかったのだ。
「だからあの、私のことであんまり葛城先生を怒らないでくださいね」
始業式に出てなかったことに関して怒られるのは仕方ないかもしれないけれど、加えて私のことで怒られたらなんだか可哀想だ。よくは分からないけどさっき罠だとか言っていたからそれも不本意なことのはずだし。
私の言葉に先生達は最初は驚いた様子だったけれど、直ぐにそれは笑顔に変わって鳳先生は仕方ない、と呟いていた。
「君がそういうなら今回は多目に見ることにするよ」
「織本ちゃん…!」
「次からは気を付けて下さいね、葛城先生!」
九影先生に襟は掴まれたままだったけれど嬉しそうにしていた葛城先生に念の為注意をしておく。それでも葛城先生はなんだか幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「えっと、自分のせいなのにこんな生意気なこと言ってすみません。助けて頂いて有難う御座いました!!」
自分が引き起こしたことなのに、こんな風に言うなんて申し訳なくて、頭を下げてから笑顔でお礼を言うと私は慌ててその場から立ち去った。
「おやおや、あんなに慌てて……なんだか可愛いらしい人ですね〜」
「別に謝る必要なんてないのに。葛城さんも助けて、織本先生って優しいなぁ」
「全く、この居候男に優しさなど不要だというのに……」
「黙れ、冷酷眼鏡!彼女は女神だ!今ここに慈悲深い女神が舞い降りたー!!」
「五月蠅い!」
「うっ!」
「ふふっ、さしずめ聖帝の女神、といった所ですかね」
「あんな無邪気な顔で笑いやがって幼いっつーか、初々しいっつーか…」
「可愛い笑顔だったなー」
「あの笑顔を生徒達が見たらまたファンクラブが出来てしまいそうだね」
その3日後、非公式ファンクラブが発足しました