世界は未完のまま終わる | ナノ


Long novel


 世界は未完のまま終わる
 ―想いに終わりなんて、ない。
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06


 セイカの出ていった執務室は静かになる。部屋の中に設えられた大きな柱時計が時を刻む音だけが響く。
「さて。ハピィ、こっちにおいで」
エルは手招きして、執務室の中の応接間のソファを勧める。それに従って素直に腰掛ける。透かし彫のテーブルを挟んだ向かいのソファに腰掛けると思っていたエルは、手近な戸棚の方に歩いていく。
「今お茶淹れてあげるね」
「ええっ!?そんな、私がやりますよ!」
大天使であるエルにそんなことをさせるなんて、と慌ててハピィは立ち上がる。
「いいからいいから♪」
そう言いながら戸棚を開ける。先程までの真剣な表情はどこへ行ったのか、エルは妙に笑顔だ。それにハピィは違和感を感じた。
「…エル様、大丈夫ですか?」
戸棚を探っていたエルの手が止まる。後ろ姿のエルの表情は読めない。
「…エル様?」
「ねぇハピィ」
自信に満ちていた声音もどこへやら、弱々しくエルは言葉を溢した。
「…連絡、ついた?」
「あ……、はい」
その少ない言葉数に少し考え、すぐに問いかけの意図を汲み取り返事をした。おそらくこれは数日前に頼まれたお使いの話だろう。
 エルの言うお使いの内容は、前任の大天使守護者と連絡を取りたいと言う事だった。その人はとある禁忌を犯したため天界を追放されており、現在は人間界にいるという。
「エル様がこちらの十字架を渡してくださったので何とか連絡を取ることができました」
ハピィは胸の内ポケットから銀色の十字架を差し出す。いつもエルが首から下げているものだ。
 この十字架は前任の大天使守護者の持つ十字架と共鳴する為、これを持って魔力の痕跡を追えば前任の大天使守護者に辿り着ける。前任の大天使守護者がその十字架を持っていればの話だが、そこは杞憂に終わった。
「――何か言ってた?」
ハピィから十字架を受け取りつつ呟く。ほんの少しだけ顔がこちらを向く。
「いえ、特には。ただ…『ガキが一人で無理すんじゃねー』って」
「…あっちも相変わらずなんだね」
そう言って力なく笑ったエルの横顔は、ひどく寂しそうだった。ハピィはそっとエルの側に寄り、背後から彼の小さな両肩に手を置いた。エルは背後のハピィに少し体重を預け、その右手に自分の手を重ねる。
「僕はね、行方不明者が増えていることに本当は気づいてたんだ。でもあえて今日まで大規模な対策をしなかった」
「それは…どうしてですか?」
「あぶり出すためさ。さっき話したでしょ?このトレア内に内通者がいるかもしれないって」
「あぶり出す、ということは…」
内通者の目星がある程度ついていたのだろうか。エルは働いてる素振りをほとんど見せようとしないが、やはり大天使としてやるべきことは人知れず成しているのだ。
「今日、表立った騒ぎが起きたことで随分疑惑も深まった」
「今日のことで……疑惑?」
「そう」
重ねられていた手にぎゅっと力がこもる。
「…………まさか」
ハピィはエルの言わんとしていることを読み取り、ぎくりとする。それを理解した様子のハピィにエルは頷いてみせる。
「うん、僕はそう睨んでる」
「そんな…」
信じられないと言いたげなハピィにエルはさらに言葉を続ける。
「『彼』の父親は有能な召喚士だったはず。高度な技術は必要だけど、その力を応用したらトレア内外への転移は容易いだろうね」
あくまで疑惑の域を出てはいないけど、と付け加える。
でも、ハピィ自身も『彼』の行動に引っかかりを感じたのは否めない。
「そこでハピィ、もう一度君にお願いだ。あの人の元へ行って、伝言を伝えてほしい」
ハピィから体を離し、向かい合う形になる。
「伝言…」
「そう。『召喚士に気を付けて』って」
「それだけ…ですか?」
「うん、それで分かってくれると思うから」
前任の大天使守護者はエルの元を離れてどれだけの時が経っているのだろうか。
 数十年前、ハピィが門番を任されたときにはエルの隣にはフィールがいて、その姿はなかった。それでも、どんなに時が流れていても2人の間には信頼関係が結ばれているように感じる。
「扉は僕がさっき固く閉じた影響で自力で出るのはハピィでも難しいと思うから、僕が転移魔法で黄泉の門まで送ってあげるね。僕の魔力を持っている――つまりこの十字架を持っていれば転移魔法で扉を通れるはずだから」
先程返されたばかりの十字架を、再びハピィの右手を取りその上に乗せる。十字架がシャンデリアの光を反射してきらりと美しく輝いた。
「ですが、エル様を長時間一人にする訳には……」
「僕なら大丈夫だよ。目的はどうであれ、大天使の僕を狙うには相手にもリスクが大き過ぎるはずだからね」
不安は拭えないが、確かに今すぐエルに被害が及ぶ可能性は低そうだ。他にもエルを守る天使兵はいる。
「…分かりました」
それならばエルの勅命に従うのが先決だ。ハピィは手渡された十字架をぎゅっと握った。
「帰ってきたときも扉は開かないと思うけど、それに魔力を込めてくれたら君の魔力が僕に伝わるから、その時に転移魔法をそっちに送るから安心してね」
エルは軽く言ったが、遠く離れたところに魔法陣を展開することはかなりの高等技術であり、並大抵の者では出来ない。
「はい。なるべく早く戻って来ますね」
「…うん」
先に人間界へ降りていったスィと同じことを言うハピィに、やはり長く一緒にいると親友同士も似てくるものかと少し笑みを漏らした。そしてそのスィが今は居ないことが、急に寂しく思えた。
「そうと決まれば、すぐに出掛ける準備をしてきますね」
「ハピィ、さっきリラのところへ行ったばかりで疲れてるでしょ。少し休んでから行きなよ」
「いえ、急を要することですから。――それに」
ハピィはエルの頬をそっと撫でる。
「エル様をそんな顔にさせたままでいる訳にはいきませんから」
エルは僅かに目を見開き、くすぐったそうにハピィの手から離れた。
「…ありがと」
照れた様子のエルに、ハピィはにこりと微笑んだ。
「…では、一度自宅に戻り準備が整い次第こちらに戻ってきますね」
「分かったよ」
一礼してハピィは部屋を出ていった。





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