黄昏の森


その女は走っていた。
黄昏――またの名を宵闇と称される時間帯、徐々に闇に抱かれる夜に至る森を。

暖かくも切ない橙はほぼ消え失せた薄闇の路を、ひたすら駆けていく女。
鬱蒼と茂る森は、この時間になると暗澹として先が全く見えない。
それでも、いや、それだからこそ、女は走るのだ。

街娘と似たような格好をしても、隠しきれない高貴な雰囲気。
女は、この国の子爵家の令嬢であった。
家のためとはいえども、望まぬ祝言を上げることになった彼女は、隣国に住まう心から愛した者のもとへと向かっていたのである。

十日後に祝言だというのに、花嫁がいなくなれば捜索されるのは必須だ。
彼女とて、それは理解していた。しかし、愛する者のもとへ行きたいという想いに、自分を道具としか見ない親への怒りと嘆きとが綯い交ぜになり、今回の行動に繋がったのである。

不気味な森に竦みそうになる足を叱咤して、無理矢理に脚を動かす。
追っ手や先回りしている刺客がいないかを用心深く警戒しながら、慎重に進む――

「Bonsoir,Mademoiselle.」

女は、急にかけられた聞き慣れない響きの言葉に勢いよく振り返った。

そこに立っていたのは、フード付きのマントを纏った人物。手には燭台を持っている。
何を言っているかも何者かもわからない以上、警戒は解けない。女は咄嗟に腰に着けたレイピアに手を伸ばした。
その動きを見た後、マントの人物は首を傾げてから、何やら呟いた後、もう一度口を開く。

「こんばんは、お嬢さん(Guten Abend,Fraulein)……と言ったのだが…すまないな。君の知らぬ言語だったか」

自分の母国語にして紡がれた言葉。
そのような賛辞は聞き飽きていた女は、不愉快そうに眉を寄せる。

「あんた、何者よ…」

女は、自らに声をかけた人物を上から下まで睨むように見据え、観察した。

黒を基調とし、金の繊細な刺繍が施されたマント。フードからは濃紫のヴェールが垂れ、顔を完全に覆い隠している。
服は男性物だが、男性か女性かはわからない。ゆったりとした――というよりかは、大きめの服を着ているようだ。
背は高くもないし低くもない。女性なら高いが、男性ならやや小柄なくらいだ。
左手には洒落た装飾の燭台。
燭台を器用にホールドしたまま、その人物は手を顎に持っていく。

「…何者かと問われても困るな。私はこの森の近くに住む者というだけ。言うなればただの通りすがりさ」
「…本当ね?」
「ああ」

女は深く息を吐いた。
相手から発される中性的な声は酷く穏やかで、女を安心させた。
武器を持っている風でもない。

「しかし、お嬢さん。無粋だとは思うが、貴女こそ…このような時間に森で何を?」
「それは…」

いきなり核心を突く相手に、女は吃った。
フードとヴェールによって顔は見えないが、女を射抜くような鋭い視線が己のが体に突き刺さっている気がする。
思わず体を震わせた女に、フードの人物は小さく息を漏らした。

「フフ…そういえば、お嬢さんはこの森の噂を知っているかい?」
「…この、森の…?」

視線から解放されたとはいえ、未だに震え続ける体を抱きしめながら、女は眼前の人物が言った言葉を繰り返した。

「ああ。【死神の森】とか【刈り入れの森】と呼ばれるのさ」
「何よ、それ…」

女は思わず聞き返す。
いくら自分の暮らす国とはいえ、ここは国の端で辺境。そのような話や噂は聞かなかった。
マントの人物は、楽しそうに笑うと、先を話しはじめる。

「フフフ…ここはね、昔から、夕方から夜にかけて迷い込んだ人間が、死体で発見されると有名なのさ」
「…死、体」

女が怯えたのを見たマントの人物は、ますます楽しそうにそうさ、と言って更に話し続けた。

「それに怯えた世俗の人々が、死神の仕業だ。彼の森には死神が住み、迷い込んだ者の魂を刈り取っているのだと噂した。それが原因で、この森はそう呼ばれるようになったのだよ」
「死神なんて…いるわけないじゃない」

頬を冷や汗が伝うのを感じながらも、女は強気に言い放つ。
その時、不意に生温いが激しい一陣の風が吹き、マントの人物のフードが取り払われた。

ウルフカットにされた黒銀の髪。
鋭い深紅の瞳。
作り物の様――いや、一流の人形士にも作れないであろう、絶世の美貌。

女は思わず、その容姿に見とれる。
マントの人物は、困ったように眉を寄せた。

「参ったね…今日の風は悪戯っ子のようだ」

普段なら「風に意思などない」と鼻で笑うところが、目前の人物の美貌に酔った女は操り人形のように頷き、相手の腕を取る。

「ああ、さっきの話の続きだけどね…



















・・・
いるよ」
「…え?」

さきほどの話の続き。つまり、死神がどうのこうのという話だ。
非現実的ともとれるその言葉に、女は思わず聞き返す。

「フフ…その噂はね、この辺では更に補足されているんだ」

女は、ふと自分が寄り添った人物の妙な点に気付いた。



















――何故、燭台の蝋燭が消えない?
彼の者の動きに合わせて流れるのを見たところ、しっかりとした作りで重たいマント。
更にヴェールが付いたフードをも取り去るほどの強い風である。
それほど激しい風に吹かれながら、何故、あの蝋燭の火は消えなかった?

「夜な夜な森に現れては、迷い子の御霊を奪い去る、その死神は、黒きローブを纏いし者なり……フードに覆われしその顔は、闇を映したかのように黒き髪。血を垂らしたかのような紅の瞳を持つ。出会ったのならば逃げるべし。とね……もう分かっただろう?」

私がナニか、が。
艶やかな声でそう囁かれた女はマントの人物――即ち死神から体を引きはがそうとするものの、死神は彼女の腰に手を回し、完全に捕らえているため、逃げられない。

「それじゃあ……」

いただきます。
そう耳元で優しく甘く艶めかしく囁かれる。
次の瞬間、女の唇は死神の唇と重なっていた。

抗い難き睡魔。
甘美なる誘い。
欲求に身を委ね、幸せそうな顔をした女の肢体は冷たくなっていく。

「フフ…御馳走様」

口の周りを舌で舐めた死神は女の死体を放り投げ、フードを被り直してから何かを思い出したのか、不意に顔を上げた。

「……ああ、君達。私の邪魔はいけないと教えたよねえ?まったく…君達の主はもう私だ。そうそう、遠い東方の言葉にこんなものがある。【佛の顔も三度迄】。佛というのは神と似たようなものらしい。嫌われ者とはいえ私は神の一柱…次はない。君達…下等な存在に過ぎない妖精如き、消すのはたやすいのだからね」

ドスを効かせた声が、静かな森に響き渡り、その言葉に頷くかのように、木々がざわめく。

不気味な笑みを薄く浮かべた死神は、その姿を漆黒の羽へと変え、消え去った。

後に残ったのは、外傷がなく幸せそうな表情で横たわる女の亡骸だけだった――。



―――夕方とか夜に、この森へ入っちゃいけないんだってさ

―――何それ?

―――昔、おばあちゃんに聞いたんだけど、この森には死神が住んでて、夕方より後は死神が起きてるから殺されちゃうとか

―――まさかー。死神なんて空想上の生き物?でしょ?

―――…生き物かどうかは別として…

―――こんばんは、可憐なお嬢さん方

written by 水面 燈

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