黒と銀と青い海。


冬のヴェネツィアは寒い。
アックア・アルタも起こり水は美しさと恐ろしさを讃えていた。
 僕がここを訪れた理由は特に無いが、一つのところに留まっていることは僕にとっては危険である。
延々と逃げ続ける日々が続くのかと思うけれどそこら辺はまだ分からない。
単なるこの数十年がそうだっただけかもしれない。
 海風が僕の黒いコートの裾を揺らす。
茶色い外壁に丸いステンドグラス。
煉瓦で立てられたゴシック様式の教会。
外観は簡素で冷たい印象を持たせるようになっている。
ここはサンタ・マリア・グロリーオー・デイ・フラーリ聖堂。
そう、フラーリだ。
 神から逃げた僕がここにいるとは考えにくいだろう。
神のお膝元に悪魔、か。
 自分の ことを悪魔だと思ったりはしていないけれどね。
その時、僕の視線のところを小さな少女が通った。
長い銀の髪が風に揺れている。
 綺麗な髪とは裏腹に服はほつれたりしているところを見ると、何処かの孤児院の子供だろうか。
だとしたら教会にきていることも不思議ではない。
 僕が見つめていることに気づいたのか少女はこちらに近寄ってきた。
「なにしているの?」
 困った。
「君の美しさに見とれていたんだよ」
 我ながら怪しい人だ。ただ、凝視したことを誤魔化すことはできただろう。
「どうして?」
 どうして?美しいものは美しいからという理由しかないと思うのだけれど……
「どうしてといわれると困るけれど、美しいからかな」
 人間にのみ美しいという 感性はあるのではないか。
人間だけが美しさに拘るのだ。
 そしてその粋をつくしたのがこの水の都というわけだろう。
「お兄さん、名前は?」
 お兄さん。そうだまだそんな見かけなんだ。
「僕は、そうフラグメントだ」
 少女は自ら名乗ることもなく特になんの反応もしてくれそうもない。
ただ僕を見つめているだけだ。
……名乗っていただけないのはなぜなんだろうか。
 仕方がないから不躾だが僕から名前を聞くことにした。
「君の、名前は?」
 少しの間があって、彼女はその小さな唇を開いた。
「パラノイア、というの」
 パラノイア。
僕のフラグメントと同じくらいに名前としては成立していない。
僕のフラグメントは断片。
断片はいつまでも欠片であっ て一個体にはなれない。
人間には戻れない。
 一方彼女のパラノイアは、精神病の一種。
偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動、思考などの秩序が保たれているものだ。
妄想の内容には、血統、宗教、嫉妬、恋愛などが含まれる。
偏執病というものだ。
 宗教といわれると少し引っかかるものがある。
「それは、本当に君の名前?」
 少女が歯切れのいい声で間髪入れずに答えた。
「いいえ、私に本名は存在しないの」
 本名が存在しない。
抹消されたのかもともとないのか。
「どうしてパラノイアなんだい?」
 人に、女性につける名前ではないだろう。
ペットにだってつけないだろう。
「私の世界は妄想でできているって言ってたの」
  言っていた、誰が?何のために?
「司祭様が、私につけてくださったの」
 司祭。
またなのか。
「君は、何か特別なことができるんではないかな……」
 そう、常人ではできないような何かが。
「私は、別になにも出来ない」
 気づいていないだけなのか、隠しているのか。
僕は腕時計を見て、溜息をついた。
「よろしければ、お嬢さん」
 僕のその一言に驚いたように彼女は眼を丸くした。
「僕と一緒にお茶でもいかがかな?」
 彼女は驚きをすぐに隠して先ほどまでの無表情に戻った。
「別に、どちらでも」
 そっけない様子だ。
これでは幼さなんてどこにもない。
「では、行こうか」
 僕は彼女の手をとった。
「それで?何を聞きたいのですか?」
 全くもって子供じみていない口調で彼女は僕に話しかけてくる。
「僕は君が何か普通の人には持っていない能力を持っているのではないかと思っている」
 我ながら素直に話したものだ。
素直すぎたかも知れない。
「私にそんな能力はないと思います」
 不確定だ。
「私は、ただの捨て子です」
 孤児のようだ。
だとしたら僕の最初の見立てはあっていたということだ。
「孤児か。ではなかなか満足できないことも多いだろう。本とか」
 そう、生きていくには知識が必要だ。
彼女はどうなんだろうか。
「本は図書室で読めます。何の問題もありません」
 随分と簡潔だ。
その頃になると僕は少なからずこの少女に魅入られてい た。
 銀髪に青い目。見ているだけでも魅入られること間違いなしだ。
「君からは何かを感じるなんていったらおかしいかな?」
 普通の女性だったらまだ口説こうという気にもなれるけれどさすがに少女となるとそうもいかない。
明確な年齢は聞いていない。
「パラノイア、君の年齢は?」
「どうしてその様な事を気にするのですか」
 全くもってかわいげのない、無駄のない答え方だ。
「君があまりにもしっかりしているから、かな」
 もっと上手く情報を聞き出せればと思ってしまう。
「私は、今年で九歳になります」
 九歳。
信じるならばだが。
 会話をしだしてから初めて彼女から話題を振ってきた。
「なぜ私にここまで興味を持つのですか」
 なぜ、それは僕 と似たような存在ではないかと思ってしまうからだろう。
可能性。かもしれない。そうかもしれない。そうだといい?
(いや、まさか)
 僕は軽く頭を振ってその考えを振り払った。
今さら仲間が欲しいなんて、どうかしている。
「どうかなさいましたか」
 どうかといわれるとそういうわけでもないのだが。
「いいや、そういうわけではないよ」
 名前、それだけだ。
「なにか確固たる証拠がありそうですね」
 そういうわけではない。
司祭と、名前、ヴァチカンに通じていそうだというすべて勘に基づいている。
勘も馬鹿には出来ないけれど。
「それを、教えてくれたら言うかもしれません」
 言うかもしれませんなんて不確定な言葉は子供にしか言えない。
でも問題 は今目の前に座って紅茶を傾けているのはどれだけ賢くて大人のように感じられても見た目は九歳の少女。
僕も全くもって人のことは言えないが。
「要するに聞くだけ聞いて言わないってことをするかもしれないわけだよね」
 恐ろしく自分本位だ。
とても子供らしいけれど。
「いけませんか?」
 上目づかいの少女は美しい。
その青い瞳は水の都中の青を集めて注ぎ込んだかのようだ。
銀の髪は教会の中の静謐な空気を集めて染めたようだ。
 少女からは清らかさが漂っていた。
「仕方ないなあ、僕は女性には甘いから……」
「まだですか?」
 寒色系だからか冷たい。
色がない僕とは別だ。
「ヴァチカン」
 パラノイアの肩が小さく震えた。
海風が強いようだ。
「司祭」
 今度は先ほどのように見える反応は起きなかった。
「英単語の名前」
 パラノイアは俯いたままだ。
「どうする?見たところ君はあまり大事にはされていないようだが」
 服装だ。
僕のころは上質な法衣が与えられていたが時代の流れか能力の差か。
 後者だろう。
「それで、君の能力はなんだい?差し詰め想像するに妄想を使った何かかな?」
 パラノイアはどうやら利き手の右手で自分の左腕を跡がつくほど握りしめている。
「やめなさい、跡が残る」
 そういうと僕はパラノイアの右手を掴んだ。
特になにも起きなくてよかった。
 妄想関連だと信じ切っていたからつい手を出してしまったが。
「それで、それでフラグメントさんはどうしてくれるんです? 」
 どうして、どうして?
虐げられているのならば連れて行こうと?
傷つけられているのならば守ろうと?
「君はどうしてほしい?」
「私は、わたしは……」
 その破れかけの服の袖を振っている。
青い眼は鋭い。
「私は、このまま朽ちたくはない……!」
「それは、僕についてくるということかな?」
 その眼は僕を見つめている。
「仕方がないな、まずは服を買うところから始めようか」
「えっ?」
「そんな恰好で僕と旅をするっていうのかい?」
 綺麗に着飾れば人間とは思えないほど美しくなるだろう。
そのために連れて行くと思えばいい。
別に、仲間が欲しいわけではない。
 少し歩き始めてから僕は後ろを向いて彼女に話しかけた。
「それで、君の能 力はなんなの?」
「私は―――……」

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