甘い蜜

 ゆっくりと目を開けると、橙色の外灯に照らされた小樽の街並みが目に入る。鉄道も開通し、“北の金融街”と言われるほど、金融機関や商社などが集まる経済の中心街だ。四角い車窓の形に切り取られた風景が、無感動に過ぎ去っていく。人の一生もそれと同じ。
誰もが英雄として劇的に死ねるわけでもない。ましてや、死ぬ場所すら選べないことを先の戦争で知った。
 懸命に生きようとした。救いたかったけど救えなかった。ごめんなさい――。初めは遺体に白い布をかける作業も辛かったけど、身体は次第に流れ作業として順応していく。安置所へ運ばれる遺体を見送る度に、私は自分に問いかける。彼らが一体何をしたというのか、と。戦地に赴かなくても、本土で多くの生と死を見て思ったことだ。
『死んだ者に意味を与えることが出来るのは、生きている者だけなのだ』
 ボロボロの御守を握り締める。兄上が戦死して抜け殻同然だった私に、生きる意味を与えてくれたのは他でもない鶴見中尉殿だったのだ。
 橇が止まり、月島軍曹殿が声をかけてくれた。
「鶴見中尉殿の別宅に着きましたよ」
「……ありがとうございます」
「どうぞ、こちらです」
 ガラガラと引き戸を開け、家の主人へ到着を知らせる月島軍曹殿。すると、着流しの上から黒の肋骨服を羽織った鶴見中尉殿が出迎えてくれた。夜遅くまで起きて、私が来るのを待ってくれていたのだ。
「忙しいのによく来てくれた。待っていたよ」
「夜分遅くにすみません、鶴見中尉殿。宿直日のため、遅れてしまいました」
「構わん。寒かっただろう、身体が冷えてしまうといけない。さあ、早く上がりなさい」
「では、私は一旦兵営に戻ります。一時間ほどしたら、迎えにあがりますので」
「うむ。月島、寒い中ご苦労だった」
 月島軍曹殿は中尉殿と私に小さく礼をすると、音を立てることなく静かに引き戸を閉めた。他にも大事な仕事が残っているのだろう。忙しい合間を縫って、しがない看護婦一人の送迎に時間を割いてくれたのだ。隙のない仕事ぶりに、私は思わず感嘆の息を吐いた。

 火鉢で暖められた部屋に通されると、座るように促される。
「名前さんは甘いものは好きかね?」
「はい、好きですけど」
 鶴見中尉殿は唐突に尋ねた後、座敷を退出する。お構いなく、と声をかける暇を与えてくれなかった。
 奥の方から何やらガサゴソと音がする。手持ち無沙汰なので、かじかむ両手を火鉢で温めることにした。暖かさがじんわりと沁みる。春が近付きつつあっても、夜の冷え込み加減は冬のように厳しいのだ。しばらくすると、鶴見中尉殿がお茶請けとして艶やかなみたらし蜜の串団子と共に戻って来た。湯呑みには温かな緑茶が注がれ、食べるよう勧められる。
「小樽名物の花園公園団子だ。是非名前さんにも食べて貰いたい」
「あの、わざわざ私のために用意してくれたのですか?」
 正面に座る鶴見中尉は、にこりと笑うだけ。言葉にせずとも、簡素な仕草一つで十分だった。ただの看護婦一人のために、将校様に手間を取らせてしまった。申し訳ない気持ちでまごつく私をよそに、鶴見中尉殿は串団子に手を伸ばす。
「私はこれが好物でね、時々無性に食べたくなるんだ。さあ、名前さんも遠慮せず食べなさい」
 そう言って美味しそうに団子を頬張る中尉殿を見て、妙に強張っていた身体の力がほどけた気がした。頂きます、と一声かけてから同じように団子を一口食べる。
「ん、美味しいです」
「やはり夜遅くに食べる甘味は罪の味がするな」
「何だか悪いことをしているみたいですね」
 もちもちした食感の団子に絡む甘い蜜が、口の中に蕩けて広がる。甘いものは疲れた身体に染みるのだ。
 やっと帰るべき場所に、帰って来られたような気がする。
 尾形さんの仄暗い瞳。あのまま病室にいたら呑み込まれていただろう。無遠慮に探るような視線が凶悪的だった。私は鶴見中尉殿と通じて、尾形さんを探っている。彼への背徳感の裏返し。私は心の中に巣食う疾しい気持ちに、目を背いて逃げ出したのだ。
 淹れたての熱いお茶を一口飲んでから、私は要件を口にした。
「来週お休みをもらったので、実家に戻る予定です。兄が調べていた例の件・・・について、何かしら報告出来ると良いのですが」
「良い報せを待っているよ。手がかりが遺っていると良いのだが……」

 遺された日記帳には、私の知らない兄上の姿があった。
 日々の忙しい軍務をこなしながら、度々実家に戻って父上のことを調べていたようだ。日記を紐解くと、隠されたあるもの・・・・の所在は、どうやら名字家が関わっているようだ。兄上は鶴見中尉殿から依頼されて、探っていたらしい。
「父とは仕事の関係で知り合ったんですよね」
「ああ、私が露西亜に駐在する少し前にな。師団の駐屯地を、札幌から旭川に移転する際に世話になったのだ」
 鶴見中尉殿との家族ぐるみの交流は、彼が露西亜に赴くまでの短い期間だった。
 理知的で紳士な立ち居振る舞い。年頃の娘ならば、誰もが頬を染めるだろう整った容貌。当時小学生だった私は、開発途上の旭川村を鶴見中尉殿に案内したことを憶えている。同級生の女の子達から、あの素敵な将校様を紹介して欲しいと請われたものだ。彼が近所の男の子達に、柔道を指南しているのを見かけたことも度々あった。そして、病弱な妹に陸軍の名医を紹介してくれたのも鶴見中尉殿だった。
「父君が亡くなってから、どれほど経つかね」
「……五年経ちました」
「時の流れは早いものだな。久しく墓参りも出来ておらん」
「戦争がありましたから仕方ありません」
 日清戦争後、露西亜との関係は悪くなるばかりで緊張感を帯び始めていたし、いずれ近いうちに開戦するだろうと囁かれていた。明治三三年。私は女学校を卒業後、実家を飛び出して一人で東京に出た頃だ。看護学校在学中に父の訃報が届くまで、結局一度も会うことはなかった。
 五年前、急ぎ帰省した私を待っていたのは、真白な骨壷に収まった父。母は泣いていたし、兄二人は下を向いて無言だった。大兄上は私のことを、親不孝者と詰った。
 悲しいはずなのに、涙は出なかった。最後まで親不孝な娘である。
「積もる話を手土産に、ゆっくり時間が取れたら父君の墓参りをするとしよう」
「ええ。そうして頂けると、きっと父も喜ぶと思います」
 鶴見中尉殿は団子を飲み込み、緑茶で口直しをする。
「ところで、病院はどうだ。忙しいかね?」
「一時期に比べたら落ち着きました。先日、病院の花壇を耕したので、もう少し暖かくなったら芥子栽培を再開しようと思います。それと――今日はこれをお持ちしました」
 風呂敷包みを解く。他愛ない世間話から、話題は三つの薬瓶の中身に移る。
 凝固した黒い塊は、今から七十年ほど前に勃発した戦争の発端になったもの。芥子の実から抽出した阿片麻薬である。

 当時、亜細亜貿易を目的とした英国の勅許会社は、需要が高まる紅茶の茶葉を清から大量に輸入しており、対価として銀を支払っていた。英国は銀の国外流出を抑えるために、植民地である印度から大量の阿片を清へ密輸して儲けていたのだ。
 鶴見中尉殿は黒い塊がたっぷり入った薬瓶を手に取り、うっとりした眼差しを送っている。
「初めての試みで、これだけ出来れば上出来だ」
「そう言って頂けて光栄です」
「宇佐美上等兵と一緒に、病院の花壇を耕したそうじゃないか」
「宇佐美さんのおかげで捗りました。芥子栽培は、それほど手間はかかっていません」
「名前さん、よくやった」
 鶴見中尉殿からお褒めの言葉を頂けて、ホッと胸を撫で下ろす。分からないなりに専門書を紐解いた甲斐があった。今日ここに来たのも、月一回の報告と共に出来上がった阿片を届けるためだ。
「英国は阿片を密輸することで、清に支払っていた銀の回収が出来た。それは何故だか分かるかね?」
「……薬漬け、でしょうか」
「まさにその通りだ。清国内では阿片による麻薬中毒が蔓延り、両国にきな臭い雰囲気が漂い戦争が起こった。まぁ、有害な阿片を密輸することの非人道的観点で英国議会は揉めたらしいが、結局軍隊派遣は採択された。近代化された英国海軍の軍事力に敵わなかった清が、欧米列強に食い物にされたのは記憶に新しいだろう。隣国が植民地化された危機感は、尊王攘夷を経て――最終的に徳川討幕の機運を生み出した。我々人類は、歴史という大きな波に抗うことは出来ないのだ」
 阿片が齎す経済効果は、英国と清国の前例を鑑みれば、一目瞭然である。何と言っても、この国には主だった収入源がないのだから。
「芥子栽培にさほど手間がかからないとなれば、関東州満州での製造、販売計画が軌道に乗るはずだ。これからは、帝国主義を振り翳した諸外国による侵略戦争は増えていく。我が国も例外ではないだろう。阿片は鎮痛薬として、需要はいくらでもある。鉄道満鉄を使って世界各国に売れば工場や鉱山事業よりも、遥かに効率が良く資金を創り出すことが出来るのだ。名前さんに頼んでいることは小さなことかもしれんが、広い目で見ればとても有意義なことなのだよ」
 阿片は最大の金のなる木。どこかで聞いたような単語がふと蘇る。
 あれは確か――。
「尾形上等兵の様子はどうだ?」
 中尉殿の問いかけ。脳裏に尾形さんの姿が過ぎったのは同時だった。ここに来た本来の目的を果たすべく頭を振る。
「怪我は順調に回復しています。顎や腕の機能訓練も真面目に取り組んでますし、最近では身体が鈍ると言って、目を離した隙に病院内を歩き回るので寧ろ困ってるところです」
「そうか、順調に回復しているのか。私が訪ねてから、彼の見舞いに来る輩はいるか?」
「いいえ、誰も面会に来ておりません。尾形さん自身も怪しい動きはないです」
「どうだ、尾形を手懐けるのはなかなか難しいだろう?」
 鶴見中尉殿の仰る通りだ。懐きそうで懐かない。中尉殿でさえ彼を持て余しているのなら、私ごときが敵うはずない。
 私は鶴見中尉殿へ、気になっていたことを聞いてみた。
「玉井伍長殿の所在は分かったのでしょうか?」
「消息不明だ。山にめっぽう詳しい男もいたのに、遭難したとは考えにくい」
 中尉殿が言わんとしていることが、容易に察してしまう。背筋にぞわっと寒気が走る。私はその先を口にするのをやめた。
「だが分かったこともある」
 目の前にいる鶴見中尉殿は、お皿に残ったみたらし蜜で三文字を書く。
 ふじみ――。
不死身・・・の杉元。尾形上等兵に怪我を負わせた男だ」
 鶴見中尉殿は小樽の街で、不死身の杉元を捕らえたものの――まんまと逃げられたと言った。
「恐らく尾形は、山の中で杉元と交戦した可能性が高い。でなければ、あんな大怪我を負うわけがない」
「尾形さんのこと、気にかけているのですね」
「……あの戦争を共に乗り越えた、私の部下だからな」
 鶴見中尉殿は、残っている串団子にみたらし蜜を絡める動作を繰り返している。何やら考え事をしているようだ。この方はいつも数歩先――それこそ数十歩先を見据えているのだ。脳内でいくつかの仮定を組み立て、起こり得そうな結果を何通りも再現する。私なんかが想像すら出来ないことを、思案しているのだ。

 暫く黙ったままの鶴見中尉だったが、おもむろに口を開いた。
「引き継ぎ尾形の監視を続けるように。奴を泳がせて、他の造反者を炙り出す。玉井達が行方不明な今、面会を口実に接触しに来るはずだ」
 造反組を叩き潰す絶好の好機と捉えている節を隠そうともしない。鶴見中尉殿は私の手を軽く握り、一番欲しい言葉をくれる。
「私の計画を進める上で、名前さんの力が必要だ。だからこれからも、私の力になってくれないだろうか」
「鶴見中尉殿――、もちろんです」
 無骨で角張った手が私の指先に触れる。触れられた箇所に熱が灯る。
 浮遊感が心地良い。私は何も考えなくて良い。思考停止しても、目の前にいる中尉殿が導いてくれるのだから。芥子栽培を頼まれ、鶴見中尉殿の思想から離叛する輩を炙り出すよう任された時は、本当に嬉しかった。人間は他人から必要にされると、生きる希望が芽生える生き物なのだ。
「戦死した名字少尉の遺志を継げるのは、妹の名前さん……貴女だけだ」
 光のない瞳は笑っていなかった。眉間から、どろりと髄液が漏れ出す。異様な出立ちに拍車をかける。
「おっと、失礼」
「だ、大丈夫でしょうか?」
「問題ない。感情が昂ると、たまに変な汁が漏れ出すのだ」
 前頭葉を損傷すると、感情の制御が上手く出来ないと聞いたことがある。向かい傷は武人の勲章と言い放ち、誇らしげにしているきらいすらある。慣れたようにハンカチで、漏れ出た汁を拭う。私に出来ることは、せめて兄上が途中まで調べた情報を引き継ぐ。すなわち、鶴見中尉殿の目的に一歩近づくということだ。きっとそれで感情が昂ったのだろう。
 五年前、父上の身に何が起きたのか。
 遺体の発見場所は、旭川の町はずれにある森の中だったという。首元には掻きむしったような跡が残っており、絞殺だろうと警察は断定した。だけど、それ以外は何の手がかりは残っていなかった。未だに犯人は捕まっていない。
 父上の人間関係を洗いざらい調べたが、怪しい人物は浮上せず警察もお手上げ状態だという。一体何があったのだろう? 恐らく鶴見中尉殿が兄上に依頼した、あるものの所在と関係があるのではないか?
「鶴見中尉殿。月島です」
 襖の向こうから、様子を伺う声が聞こえた。懐中時計を確認すると、ここに来てからいつの間にか一時間経っている。月島軍曹殿の仕事っぷりは抜かりない。
「もうそんな時間なのか。話し込むと時間の流れが早い。名前さんは、仕事の途中なのだろう? 次来た時は、兄君の話を聞かせてあげよう」
「はい、楽しみにしております」
「残った団子は包んでやろう。休憩時間にでも食べなさい」
 鶴見中尉殿の別宅を出ると、いつの間にか雪は止んでいた。雲の隙間から、星が瞬いている。
 亡くなった兄の面影を追う。遺された日記にも、師団での生活について記されていた。だけど文字だけでは味気ない。温かみ――温度がないのだ。だから、せめて中尉殿の口から在りし日の兄を知りたい。
 行きと同様に、馬橇の心地良い揺れに身を任せる。膝の上に乗せた風呂敷包みの中身は、阿片の薬瓶から甘じょっぱいみたらし団子に変わった。丁寧に包みを開けると、たっぷりかかった黄金色の蜜。
 私は串団子をそっと口に運ぶ。甘い蜜が唾液腺を刺激して、口の中で弾けた。鶴見中尉が施す甘美な言葉と仕草。人を誑し込もうとする様は、まるでこの串団子そのものだと思う。
 人を惹き付けて離さない何かがある。それは、尾形さんにも同じように言えるかもしれない。底が見えない闇より深い色。何を考えているか図れない瞳はとても蠱惑的で――そして魅力的だ。悪魔的とでも言おうか? 甘くてとろみのあるみたらし蜜が団子に絡まる。その甘美な舌触りを味わいながら、私は尾形さんの暗い瞳を掻き消すように団子を飲み込んだ。

 今夜は新月だから月の明かりはない。目の前に聳える病院は、さながら不気味な黒い塊のように見える。少しだけ降り積もった雪の上を歩くのに気が引けた。雪が降っていれば痕跡を消してくれるのに。まあ、仕方ないか。ゆっくりと――物音立てずに――昇降口の鍵を開けて、身体を滑り込ませた。病室の窓は明かりが点いていないが、念のため見回りすることにした。
 ぼんやりした洋燈の灯りが廊下を照らす。それぞれの病室を確認すると、患者達は特に問題もなく眠っている。最後に尾形さんの病室を確認すれば終わりだ。
「よお」
「ひ、!?」
 扉を開けると黒い何かに話しかけられて、危うく洋燈を落としてしまうところだった。
 額に残った傷跡がじくじくと痛む。殴られた衝撃で床に倒れ込み、状況を理解するよりも先に手拭いで口を塞がれた――あの時感じた恐怖を思い出してしまい、身体が強張る。
 ドクドクと忙しない心臓の鼓動を聞きながら洋燈を翳すと、病室の窓際にぼうっと亡霊みたいに浮かび上がる尾形さんの姿。
「お、尾形さん……まだ夜中ですよ。どうかしたんですか」
「……眠れなくてな。なんだよ、夜這いにでも来たのか?」
「違いますよ! 夜間巡回です」
 夜這いというとんでもない単語に、強ばった肩から力が抜けた。今のは分かっていて、あえて言ったのだろう。きっと、私がどんな反応をするのか楽しんでいるに違いない。その証拠に大きな暗い目は、じっとこちらをうかがっている。
 私には帰る場所があるから怖くない。昼間は蠱惑的な瞳に絡め取られそうだったのに、今は不思議と冷静でいられる。鶴見中尉殿に触れられた箇所を撫でれば、再び熱を帯びたような気がした。中尉殿がそばにいてくれるから、何も恐れることはないのだ。
 しばしの沈黙の後、尾形さんは短い溜息を吐き出した。
「……フン。つまらん」
 初心うぶな反応でもすれば良かっただろうか? と無駄なことを思ってしまった。
「早く寝ないと、また起きられなくなりますよ」
「問答無用で起こしてくるのは、あんただろう」
「また三時間後に巡回しますから、それまでにちゃんと寝て下さいね」
 踵を返して退室しようとすると、簡素な一言が背中に投げかけられる。
「これ、返すぜ」
 手渡されたのは綺麗に折りたたまれた襟巻きだった。数日前、薄い患者衣に褞袍しか羽織っていなかった彼に無理矢理巻きつけたものだ。それ以降、尾形さんは庭先を散歩する時は首元に必ず巻いている。
「巡回しただけなのに、鼻先が赤いぞ」
「……ええ。この時期は夜でも冷えますから」
 そう言って私は、襟巻きを自身の首に巻く。病室は、息を潜めたように静かだった。
 -  - 


- ナノ -