遺族

「日本には、国としてまともな収入源がほとんどない」
 鶴見中尉殿は雄弁に断言した。
 二六〇年間崇め奉っていたものが、ある日突然別のものに取って代わる。それまで信奉されていた将軍様。土着の風習や信仰までがことごとく“前時代的”、“悪しきもの”と烙印を押され、吐いて棄てられた。勝てば官軍、負ければ賊軍とはよく言ったものだ。
 他国を侵略して植民地化するのが罷り通る時代がやって来た。このまま鎖国していたら、いずれ日本も食い物にされかねない。そういった危機感が倒幕を促し、明治維新を経て四半世紀以上経過した。
 時代は大きく変わった。富国強兵を掲げ、推し進め――日清、日露戦争を通じて欧米諸外国から一目置かれるまでになった。なのに、未だに全ての面において遅れを取っている。主だった米と生糸産業だけでは、近い将来立ち行かないだろう。

 文明開化。かの有名な知識人が名付けた社会現象は、様々な階級層に受け入れられ、まるで熱病に罹ったみたいに西洋思想に被れる者まで出た。そのうねりはとどまることを知らず、日本全国に広がっていく。
 都市部には西洋形式の建物が軒を連ね、新しい郵便制度や電信技術が誕生した。軍部によって食事面も西洋のものを取り入れ始め、人々の営みに少しずつ浸透していく。洋食は少しずつ安価になり、庶民でも背伸びすれば手が届くようになった。
 でもこれは、あくまでも都市部での話。未だに西洋化が進んでいない場所の方が多いのだ。
 日夜、欧米列強に追いつけ追い越せと脇目も振らずに、まるで蒸気機関車の如くひた走る。次々と新しいものが入って来る、目まぐるしい日々。特に日清、日露――二カ国との戦争を通して、人々の意識に“国民国家”というものが醸成されたのは大きいと思う。
 だけど光が眩しいほど明るければ、そこに出来る影は色濃くて――暗い。みんな一心に明るい未来を見ようとする中で、一体誰が取り残された暗い影に目を向けるだろう? 明るい未来と暗い過去は紙一重である。

 明治三七年二月。
『号外! 号外だよ! 遂に露西亜と開戦だ!』
 日清戦争以降も、露西亜はウラジオストク以外の新たな不凍港を手に入れるため、南下政策の手を緩めることはなかった。目をつけたのは、清国にある遼東半島にある旅順港だ。このままでは清だけでなく、朝鮮半島をも手に入れ――近い内に日本も植民地として手中に収める腹積りだろう。徳川幕府を倒し、明治新政府が産声をあげてから三十余年。開花期を迎える直前で、国家存亡の危機が海の向こうから迫っていた。
 日夜、新聞は露西亜との開戦を煽る記事を発行していた。実際、日本と露西亜の緊張関係の高まりは留まることなく、いつ開戦してもおかしくない状況であった。遂に、海軍艦隊による旅順港沖の奇襲大作戦の見出しが紙面を華々しく飾る。海軍艦隊の奮闘に人々は熱狂し、街は万歳の声が響き渡る。お祝いの雰囲気の中、打ち上げ花火が夜空を彩った。
 あぁ、遂に戦争が始まってしまった。号外を持つ手が震え、遥か北の旭川第七師団にいる兄上の顔が浮かぶ。ここまで来たら、兄上もいずれ――。居ても立っても居られず、私は仕事の非番を前倒しで数日間もぎ取り、蒸気機関車に飛び乗って実家の旭川へ向かった。

 当時私は看護婦として東京陸軍病院に勤務していた。開戦後は従軍看護婦として招集され、そのまま東京陸軍病院に詰めることになり、大陸から搬送される負傷した将兵の看護を主に担当していた。
 怪我の具合は千差万別だった。何度包帯を変えても、じわりと滲む血。痛みに堪える呻き声。処置を施す先輩と同僚。怪我人を急いで手術室へ運ぶ執刀医。病院内は息つく暇もないほど、沢山の死傷者で溢れている。栄養失調や、伝染病などに罹った者。身体のどこかが吹っ飛ばされて欠損してしまった者。身体の奥に鉛玉が入り込んでしまい、取り出せない者は死を待つしかなかった。
『なあ、今朝の新聞読んだか? 海軍将校が、砲撃を喰らった軍艦内に取り残された部下を探すため、最期まで諦めなかった話』
『廣瀬少佐殿でしょ? 救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部に砲弾が直撃して亡くなったって』
『部下思いで情が厚い御仁だったそうだよ。やる瀬ないね』
連日、各新聞社が戦地に送り込んだ従軍記者から齎される戦況が紙面を賑わせる。海軍将校様の戦死の訃報に、市井の人々が新聞片手に鼻を啜っていた。
 露西亜のバルチック艦隊が日本海に向けて出航。陸軍第三軍、旅順要塞を撃破。奉天にて激戦。戦況は大日本帝国に優位。
 紙面を飾る活字。分かりやすく添えられた挿絵に、みんなが一喜一憂する。激動の時代に生きている感覚に、誰もが酔い痴れる。次第に長引く戦況に比例して、戦費を賄うために様々なものが更に増税された。当然、私達の暮らしに暗い影を落とすのに、それほど時間はかからなかった。
 旭川の実家から、訃報の電報が届いたのもこの頃だったと思う。墨で書かれた文字の上に雫が落ちて滲む。視界がどろどろに溶けて、周りが見えない。息が、上手く出来ない。酸素が気管支に詰まって、肺に届かない。やっとの思いで振り絞る声。嗚咽を押し殺して泣いた。
『……兄上、う、うぅ……』
 陸軍病院は連日連夜慌ただしい。病室を行ったり来たりする足音に混じる呻き声。消毒液と鉄錆の臭い。日を増すごとに、怪我人は増える。助けたくても助からなかった命が掌から零れ落ちる。
 でも私達に休む暇はない。海を越えた大陸で、今も大勢の人間が命を賭けて戦っているのだから。だけど、ふと力が抜けて廊下で尻餅をついてしまった。第七師団歩兵第二七聯隊少尉として出征した兄上は、二〇三高地攻略戦で戦死したとのことだった。

 明治三八年五月。
『連合艦隊がバルチック艦隊を撃破! 我が軍の勝利だ!』
『バンザーイ! バンザーイ!』
 開けっ放しの窓から、群衆の賑わいが聴こえてきた。その内容に、負傷した将兵達がどよめく。我が国が露西亜に勝った? にわかに信じがたく、野次馬気質の同僚が駆け足で号外を手にして戻って来るまで半信半疑だった。
『嘘じゃないわ! 本当に勝ったのよ!』
 両頬を染め興奮気味の同僚の手は、号外を握り締めていた。
 従軍記者から齎された戦勝の報は、各社がこぞって大々的に報じたおかげで瞬く間に広がった。号外は飛ぶように売れ、日本中がお祭り騒ぎ。露西亜大国を撃破したことで、一旦は極東南下政策に怯える必要はなくなったし、日本は極東亜細亜における確固たる地位を築くことも出来た。
 みんな一様に喜び合ったことは、昨日のことのように覚えている。将兵達は、痛みを忘れて互いに抱擁し合う。故郷に残した家族のこと。生き延びることが出来た喜びと、散って逝った仲間達に思いを馳せる。ひと目を憚らず泣き出す者もいた。ようやく解放される。日本中が待ち侘び、沸いたものだ。戦勝の提灯行列に、多くの人々が参列して万々歳と諸手を挙げながら街を練り歩く。
 戦争に勝った後は、露西亜から支払われる賠償金の話題で持ちきりだ。
『絶対賠償金は取れるだろ』
『幾ら取れるか賭けてみるか?』
 新聞各社は賠償金について煽りに煽る。今まで身を粉にして働いた金は、政府が全て税金として戦費に充てがわれた。度重なる重税に苦しみ、喘ぎながらも耐えたのだ。だから報われるべきと考える国民が大半で、露西亜から膨大な賠償金が取れる――期待は鰻登りだった。しかし、戦後処理は一筋縄ではいかなかった。
 露西亜は満州及び朝鮮半島から撤兵し、南樺太と南満州鉄道の利権を譲渡。即ち南樺太と満州は、日本の統治下になる。そのかわりに、戦争賠償金には一切応じないという露西亜側の最低条件で交渉は妥結した。新聞報道に煽られた市井の人々の期待を、裏切るような結果となってしまったのだ。
『賠償金が取れないなんて、ふざけるな!』
『戦争を続けろ!』
 これを契機に東京では各地の集会場に、大勢の人々が条約反対を掲げて集まった。彼らは政府高官の邸宅、賠償金について煽った新聞社、交番や電車を焼き討ち、市井は厳重な警戒態勢が布かれた。日清戦争以降、度重なる増税に不満と鬱憤を溜め込み続けた結果だと思う。
『この騒動いつまで続くのかしら……』
『落ち着くまで外出しない方が良いわ。軍関係者だと分かったら、何されるか分からないもの』
『怖いわ……』
 外出するのもままならず、軍病院もいつ襲撃されるのか戦々恐々だった。
 島国である日本が、帝国露西亜を相手取った事実は揺るがない。国土の広さで比較しても段違い。そもそも年間の国家予算や、軍隊の動員人数だって桁違いなのだ。今振り返れば、首の皮一枚繋がった状態での勝利だった。おかげで欧米列強から、一目置かれる存在になったものの――課題は浮き彫りのまま。

 終戦後、大陸に出征した各師団が続々と引き揚げて凱旋した。旭川第七師団も凱旋帰国を果たし、師団道路はお祭り騒ぎだったらしい。激動の日々から、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある明治三九年七月。
 東京から蒸気機関車を乗り継ぎ、北海道に戻って数日。小樽の陸軍病院に勤務することになり、数年ぶりに鶴見中尉殿から連絡を頂いた。奉天会戦で爆撃を受け、前頭葉の一部が欠ける大怪我を負ったことを事前に耳にして心配だったのだが――。
「お元気そうで安心いたしました」
「お陰様でな。今日は名前さんに渡したいものがあるのだ」
「……何でしょうか?」
 きょとんとした私をよそに、鶴見中尉殿がおもむろに取り出したのは和綴じの本。
「兄君が記していた日記帳だ。師団内での生活が綴られておる」
 和綴じの本の中身を捲ると、なだらかな筆跡で事細かに日々のことが綴られていた。兄上の痕跡を指でなぞる。どんな気持ちで、この日記を綴っていたのだろう? 私の知らない兄上が、和綴じの本に詰まっているのだ。
「それと、これを」
 土埃と僅かな血痕。真白の生地は擦り切れてボロ切れ同然。変わり果てた形で手元に戻って来たそれは、二〇三高地が激戦だったことを伝えてくれる。
「これは、」
「兄君が最期まで大事に持っていた御守だ」
 第七師団に出征命令が出たのは、開戦から半年後の明治三七年八月。出征する前に、私は急いで東京から旭川まで帰り、兄上に御守これを渡したのだ。長い時間蒸気機関車に揺られて、ひと針ずつ縫いながら――どうか、ご無事で帰って来ますようにと。
「これを渡した時、兄はきっと帰って来るって言っていました。鶴見中尉殿、どうか教えて下さい。兄は――っ、兄上はどのような最期だったのでしょうか?」
 優しくて温かな笑顔の兄上が、瞼の裏に映って消える。鼻がツンと痛く、目頭が熱い。喉元に何かが迫り上がるのを耐えた。
 御守を渡しに旭川第七師団総司令部を訪れた時、どうしても溢れる涙を見せたくなかったから私は人目も憚らず兄上へ抱きついた。軍人として鍛え抜かれた硬い筋肉はとても逞しい。兄上の優しい温もり。幼児を慰める手つきで頭を撫でてくれる。未曾有の戦争の行く末に、自ずと身体が震えてしまったことが、ありありと昨日のように思い出せる。開戦から既に二年半経っているのに。
「兄は御国のために、しっかり務めを果たしました。寂しくは、ありません」
「無理をしなくても良いのだぞ」
「……構いません。とうに覚悟は出来ております」
 最愛の兄だからこそ、最期を知りたい――知らねばならぬ。兄上がこの世に生きた痕跡を。
 鶴見中尉殿は黙ったまま、無感情な瞳で私を眺めていた。本当にその覚悟が私にあるのか、推し量っているのかもしれない。そして、ようやく兄上の最期の様子を静かに言葉に紡ぐ。

「名字少尉は二〇三高地攻略戦中、露西亜が放った砲弾に巻き込まれ――身体は爆薬で吹っ飛んだ。死の間際、せめてこの御守だけでも名前さんの元に、と託されたのだ。中には彼の小指の骨を納めておいた。それしか持ち帰ることが出来なくて申し訳ない」
 そっと中身を取り出せば、小さく折り畳まれた布。その中に包まれた、僅かな白い骨がころりと転がる。
 遺体の損傷が激しかったり、木っ端微塵の状態などで遺体を持ち帰れなかった話はよく聞く。それに比べたら、小指の骨だけでも帰って来たのはマシなのかもしれない。
「ありがとう……ございます……っ、」
 大粒の涙が頬を伝い落ちる。ぼろぼろと零れるそれを、止めることは出来なかった。
 戦争には勝ったのに、なんて無常なのだろう。二十数年間、懸命に生きた痕跡――証――がこれっぽっちだなんて。兄上は二度と北海道の地を踏むことが出来ず、小さな骨の欠片だけになってしまった。
「名前さん、我慢しなくて良い。気が済むまで泣きなさい」
「鶴見、中尉殿……?」
 将校服に焚き染められた白檀が僅かに鼻腔を掠める。“情報将校”の通り名に相応しい、隙がなく鋭い危険な甘い気配に心が惹かれてしまう。呼吸二回分で私は鶴見中尉殿に、抱き竦められていることに気がついた。
 もう泣き言は言わないから、今だけ少し甘えても良いだろうか。抗いがたい香りに誘われ、ぐらりと自制心が崩れる音が脳裏で響く。気がつけば私は、鶴見中尉殿の腕の中で溜まったものを吐き出した。
 どうして、兄上なのだろう。兄上が何をしたと言うのか。
 改めて、これが戦争の代償なのだと自覚した。御国のために命を使って、大義を果たすことは軍人の本懐。とても名誉なことなのだ。分かってる、のに。どうしても感情が追いつかない。
 何も報われなかった。生きて帰って来てくれれば――命があるだけで――良かったのに。ずっと蓋をしていたやり場のない怒り。やる瀬ない哀しみが湧き上がる。私はそれらを自身にぶつけることしか出来ない。今の私があるのも、兄上が奔走してくれたおかげ。恩返しすら一度も出来ぬまま。
 小さな骨の欠片を、包まれた布と共に胸に掻き抱く。もうあの時みたいに、私を抱き締めて頭を撫でてくれた兄上は、この世にいないのだ。無機質な骨は、温かみすら失われて冷たい。鶴見中尉殿は私が泣き止むまで、黙ったまま抱き締めてくれた。温かい。生きた人間の温度。思わず錯覚してしまいそうになるけれど、兄上とは全く違う温もり。

「……落ち着いたかね?」
「もっ、申し訳ございません! 見苦しいところを見せてしまって……!」
「辛い時は吐き出すのが一番だ。どうだ、少しはすっきりしただろう?」
「……はい」
 滲む雫を慌てて指先で拭った。鶴見中尉殿は私の無礼と失態を咎めるどころか、優しい口調で慰めてくれたのだ。妹が病死した時、鶴見中尉殿に慰められたことを思い出す。あの時も私が泣き止むまで、何も言わずにそっとしておいてくれた。両目周辺の皮膚が焼け爛れ、前頭部を覆う白い葫蘆ホーロー製の額当てが目立つ。異様な有様に拍車をかけているが、見た目が変わっても中身は変わらない。
 鶴見中尉殿は居住まいを正し、雄弁な口振りで冒頭の言葉を言い放った。
「露西亜も一枚岩ではなかった。帝政露西亜とレーニン率いる共産党。そして、極東露西亜に住む少数民族で構成されたパルチザン……。我々が戦争に勝つことが出来たのは、露西亜国内で燻っていた勢力を上手く扇動し、帝政露西亜へクーデターを起こすように仕向けたからだ」
 彼は数年前に情報将校として、露西亜へ駐在した経緯があるため情勢に詳しい。旅順が日本軍の手に渡った直後、首都サンクト・ペテルブルクでは労働運動が勃発したと確かな筋から情報を得たという。
「我々日本は、戦争を続ける資金も人材も底を尽いたが、露西亜にはまだ戦争を続ける余力が残っていた。だがクーデターが起きて、自国の情勢が不安定になったため、戦争を続ける余裕がなくなったのだ。結局儲かったのは商人だけで、我々の手元には何が残っただろうか?」
 厳しく、冷徹な眼差しで問う。あの戦争の意義は何だったのか。
 得られたものが大きければ、失ったものも多い。掴み取った勝利の陰に埋もれる大きな犠牲。職業柄、大陸から搬送された傷痍将兵達の看護を通して見つめた陰の部分。
「これから先、米と絹だけでは立ち行かないだろう。ましてや国は、戦争で莫大な借金を抱えておる。鉄道や工場、鉱山の採掘事業に国が手を出しても、たかが知れている。だから私はこれからやるべきことを考えた」
「何をなさるおつもりですか」
「それなら我々で財源を――雇用を創るより他ならない」
「雇用、ですか?」
「長期的且つ安定した雇用を与えることが重要なのだ。日々の食糧の確保すらままならない生活から救い出す。北海道は広大で資源も豊富だ。国に頼らずとも、我々だけでやっていける基盤を創る。あの戦争で家族を喪った遺族のためにも、我々は狂ったように走り続けなければならない。それが散って逝った仲間達へのはなむけだ」

 強い意志を宿した声だった。鶴見中尉殿なら、大望を絶対に成し遂げられる。そう思わせる不思議な魅力があるのだ。その広い背に、沢山の報われぬ想いを背負って険しい道を進む。報われる日が来る事を願って。
「……私に何か出来ることはあるでしょうか? 少しでも役に立ちたいのです。兄上のためにも……」
「“兄上のため”! 名前さん、よく言ってくれた」
 口から零れ落ちた気持ちに、鶴見中尉殿は感心したように膝を打つ。
「名前さんに、ぴったりな仕事があるのだが……」
 鶴見中尉殿が先導してくれるから、着いて行くだけで良い。私はその先を促すようにこくんと頷く。私ごときでも何か役に立つことが出来ることがあるなら何だってしたい。
「軍病院の一角に専用の花壇を作って、芥子の栽培に一役買って欲しい。阿片は儲かるから、英国が手を引いている今しかない。専門書はこちらで粗方揃っている。何か困ったことがあったら、遠慮なく言って欲しい」
「芥子ですか。栽培したことはありせんが、専門書を読みながらやってみます。他には何かありますか?」
 鶴見中尉殿は眦を細めて、何やら思案顔である。悪魔的な魅力に箔がついた彼に魅入って囚われてしまいそう。
「そうだな……。これからは怪我をして病院に搬送された私の部下の看護をして欲しい」
「……それだけで良いのですか?」
 思わず拍子抜けしてしまった。病人と怪我人の看護をするのが私の本職。芥子の栽培以外、私は本職に専念するだけで良いのだ。
「いいや、これは看護婦の名前さんにしか出来ない仕事なのだよ。いつも通り仕事をしながら、何か怪しい動きがあれば報告してくれ。今度私の優秀な部下を紹介しよう。宇佐美上等兵なら、きっと名前さんの力になってくれるはずだ」
鶴見中尉殿は、優しく微笑んでくれた。あなたのお役に立てるのならば、私は――。
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