05

「……少し、昔の夢を見ただけよ。別にどうってことないわ」
「なあ。あんたのこと――患者の前で何て呼べば良い」
「ナマエでもミョウジでも……呼びやすい方で構わない」
「解った。ミョウジ先生・・
クルーガーは、たったそれだけ言って地下室へ戻ろうと踵を返す。
ねぇ、とその背中へ声をかけた。
「明朝、私が作った“エレン・クルーガー”のシナリオを確認するから、ちゃんと暗記しときなさいよ」
彼はチラッとこちらを一瞥しただけだった。
暗唱出来なかったら、それまでということだけ。
 血液採取キットには、まだ彼の血が残っている。診療録は作成途中だし、作業はまだ終わらない。窓から外を見れば、上弦の月が煌々と輝いて存在を主張していた。静かな夜だ。今この時も、スラバ要塞では多くの命が散っているのだろう。夜はまだ――明けない。

05. 化け物

「処方箋です。お大事になさって下さい。お気を付けて」
「いつもありがとうね」
 クルーガーがこの診療所で、私の助手役を演じて五日経った。はじめは、憎いであろうマーレ人を前にして彼は一体どんな反応をするのか――不安だったが、今のところ問題を起こすようなことはない。
 受付席に座り、来院した患者に問診票を渡す。患者の名前を呼び、診察室へ促す。
「ミョウジ先生。次の患者さんをお願いします」
「ええ、分かったわ」
診察後、会計と共に処方箋を渡して患者の体調や来院を労う一言まで口にして見送る。待ち時間を持て余す患者達と会話に混じったり、小さい子供をあやしたりすることもある。
「クルーガーさんのおかげで、この子も泣き止んだわ。本当にありがとう」
「泣き止んでくれて良かったです」
予想以上の対応に、私は舌を巻いた。養父が着ていた白衣は丈や大きさがクルーガーにぴったりで、馴染んでいる。彼は私が用意した“エレン・クルーガー”役を必要以上こなしている。まるで、最初からマーレ人だとでも言うように。
「今日の診察は以上です。いつもの薬を処方しますね」
「先生、先生!」
 診察が終わりカルテに診察内容を書き込んでいると、この街で一番話し好きの婦人が楽しそうに聞いてきた。
「受付にいる彼、初めて見たわ。とても素敵じゃない。新しく雇ったの?」
「ああ、クルーガーさんですか?彼は中東連合軍との戦争に志願するために、遥々ラクア基地にやって来たんですよ」
「まぁ!今時の若者にしては、珍しい愛国精神だわ!それで、どういった経緯で診療所ここの受付になったのよ?」
「最近、反戦派の暴動が酷いでしょう?それに巻き込まれて怪我を負って、道端で倒れていたところを保護しました。深手を負っていてはマーレ軍に合流出来ないから、怪我が治るまで私の助手としてこの診療所で療養することにしたんですよ」
あらかじめ作っておいたシナリオだ。こともなげに答えれば、婦人は目を輝かせて私の続きの言葉を待つ。
うずうずしているのは、手に取るように分かったからあえて気付かない振りをすることにした。どうせ碌なことじゃないのだから。
 他人の不幸な話と、他人の色恋話ほど面白いものはない。あなたが聞きたいことは、そうじゃないでしょう?もっと先に進んだ男女の話が聞きたいんでしょう?お生憎様。彼の正体は、海を一つ越えたパラディ島からやって来た悪魔だというのに。
「先生ったら、焦ったいわ。ねぇ、一緒に住んでいるの?」
「軍に志願する彼に敬意を払うのは、マーレ軍人の一人として当たり前ですから。それ以上も以下もありませんよ」
「いやだぁ、もう!先生も隅に置けない人ねぇ!」
彼女は、色恋の方へ話を結びつけたいらしい。
 全く以て平和呆けしている。私達が“悪魔”と罵っている輩が、扉一枚隔てた場所でマーレ人に成り済ましているとは露程も知らずに。
“軍に志願する彼に敬意を払う”。自分で作ったシナリオを口にすると、嘘っぱちでも本当のことのように思えて来るから不思議だ。久しぶりの感覚だった。
この人達を裏切っているくせに。自身の口から滑り落ちる言葉に、思わず嘲笑いたくなる。そんな台詞、どの口が言っているのか。少しずつ、私の心が乖離する。
 クルーガーの偽装戸籍と診療録が完成した。役場に提出し、無事に受理されてから、三週間弱経った。これで彼も外出することが可能になったが、念のため外出許可は出来なかった。私は診療所での診察と、ラクア基地内軍病院の往診に明け暮れている。
 中東連合軍との戦況も、戦傷者の回復状態も芳しくなく、軍部内は焦燥感に駆られていた。連日連夜、悪魔達を使い捨ての駒よろしく、戦場に投入させている情報を仕入れた。全てはマーレが勝利するためなら、彼らが礎となることに何の感情も感慨も湧かない。
 近頃はクルーガーの成り済まし生活も軌道に乗っている。頃合いを見計らったように、本人から申し入れがあった。
「外に出たい?」
「ああ。偽装戸籍も届け済みだし、問題ないだろ。それに――ずっと室内に篭ってると怪我の治りに障るし、身体が鈍って仕方ねぇ」
「……言うようになったわね。怪我なんかしても、すぐ治るくせに」
私が用意したシナリオ・・・・を、違和感なく引き合いにして来るとは。嘘が真実になりつつある証拠だ。それに、取引内容には外出の件も含まれている。今更反故にするなんて出来ない。
 近頃のクルーガーの様子を思い返す。受付対応の他に、簡単な診療補助をお願い出来るほどだ。初めて会った時に痛いくらい感じた、マーレ人に対する剥き出しの憎しみや怒りは鳴りを潜めている。負の感情は、なかなか鎮火出来ない。
恐らく、私が与えた“エレン・クルーガー”という架空の人物を演じることで、彼本来の激情を切り離しているのだろう。そろそろ腹を括った方が良いなと、私は思った。
「……解った。だけど外に出る前に」
「俺にとって不愉快な光景が広がっているって話か?ここに来るまで、エルディア人が虐げられている光景は何度も見ている。問題ねぇよ」
「エルディア人は信用出来ない」
そう言って、私は外套を羽織り風呂敷包みを手に取る。玄関のノブを握り、クルーガーに大事なことを一言告げる。
「私のそばから離れないで。くれぐれも、妙な行動は慎むように」

 二人で街に繰り出すのは、今日が初めてだった。天気は良好。青空に雲が薄っすらと浮かんでいる。石造りの家屋が建ち並ぶ街中は、多くの人で賑わっていた。
 中央の大通りを挟んだ両左右には、カフェや出店を始めとした飲食店。金物屋から床屋に、服飾店など様々な店舗が軒を連ねている。どの店舗も、客を呼び込もうと店員が呼び込みをしていた。
 今日の目的地は、ここから少し歩いたところにある生鮮市場だ。彼は私の隣で、周囲を物珍しそうに見渡しながら歩いている。そんなに珍しいものなんてないのに。
「あら、ナマエ先生とクルーガーさん!二人で買い物だなんて珍しいのね」
「こんにちは。今日は食材の調達だから、彼にも手伝ってもらおうと思って」
「クルーガーさんは、もう怪我の具合は良いのかい?」
「……はい、少しずつ治ってきました。えっと、トマトとナス、玉ねぎをそれぞれ二つずつお願いします」
クルーガーはメモに書かれた食材を店員に伝える。病院の受付時と何ら変わらない対応の彼に、私は人知れず安心した。
「いつも毎度あり。にんじんを一本おまけしておいたわ」
「……ありがとうございます」
行く先々で親しげに声をかけられる中、クルーガーも行儀良く挨拶する。私の隣にいて、市場の人達と会話に混ざる姿は、まさしく“エレン・クルーガー”だ。穢れた島に住む悪魔とは思えない。
 診療所に来る患者達は、養父が診療所を切り盛りしていた頃の常連だ。私が跡を継いだ後も、ありがたくも変わらずに通って来てくれる。
無益な井戸端会議のように思えるが、彼らと交流して得た情報は軍部も無碍に出来ない。スラバ要塞へ従軍するために診療所を畳むまで、残された時間が僅かでも――私は彼らと交流を続ける。一瞬だけ脳裏に、脚の悪い老婦人の泣きそうな顔が過った。
 必要な食材を買い終えた私達は、診療所に戻るために元来た道を戻る。
「あれが反戦派の暴動の跡か?」
「ええ。治安当局が夜間の取り締まりをしているけど、イタチごっこよ」
クルーガーが、大通りを挟んだ左側前方を指さす。郵便局の建物だったそこは、今では跡形もない。瓦礫の山となっているだけだ。暴動の爪痕と共存する街の住民達。
「あんた、軍人のわりにこの街の住民から慕われているんだな」
再びおもむろに口を開く彼は、今日はよく喋る。久しぶりの外出で、気持ちが少し浮き足立っているのかもしれない。
「それなのに住民よりも俺を選んだ。あんたの心は……痛まねぇのか?」
私はその問いに、答えなかった。決して、答える言葉が見付からなかったわけじゃない。
世界の敵と地下室で対峙した特殊な環境下で悩んだ結果、どうせ堕ちるのなら――。慣れ親しんだ住民の手を取らずに、悪魔と手を結んだのだ。
 目の前で、何やら喚き声がした。野次馬が何重にも輪を作り、巻き込まれたくない者は遠巻きにして様子をうかがっている。
何かあったんですか、と近くにいる男性に声を掛けた。
「またいつものアレ・・さ」
どうやら、反戦派暴動で襲撃された建物の再建作業中のエルディア人に、マーレ人がちょっかいを出して小競り合いに発展したらしい。
リアカーからレンガが零れ落ち、砕け散っている。建設作業に集中するエルディア人は無抵抗だ。恭しく頭を下げて、罵詈雑言を一身に受けている。それを良いことに、マーレ人の言動がエスカレートしていく。
 この街の――否、世界の日常だ。別に珍しいことではない、と普段の私なら通り過ぎるのだが――よりによって今日はクルーガーと一緒だ。
「行くわよ」
耳元で声をかけると、抑揚のない声音が返って来る。後ろをついて歩く彼の足取りは、どこか重たそうだ。私は歩調を合わせて彼の隣を歩くことにした。
「おいおい、聞こえてんだろ?無視してんじゃねぇぞ!」
「……お、俺達がっ!俺達が、一体何をしたって言うんだ!!」
 ガシャンと何かが崩れる音と、肉同士が打つかる音。そして、怒声に罵声。小競り合いが、やがて暴力の色を帯びていく。賑やかだった街が喧騒と混乱に呑まれる。野次馬達も煽りに煽る。
戦争が長引いて鬱屈した感情をぶつけるには、暴力が格好の吐け口になるのだ。
「待ちなさい!」
「……っ、何だよ」
今にも飛び出しそうな勢いのクルーガーを止めるようと、急いで手首を掴む。その反動で買ったばかりの卵が、ベシャリと潰れた音を立てて割れた。
「どこに行くの?まさか、エルディア人を助けるつもり?あなたは今、れっきとしたマーレ人よ」
「あんたには関係――」
「妙な行動を起こすなと言ったわよね?約束を反故にするのなら、協力しない」
クルーガーの瞳には、見知った怒りが灯っていた。初めて会った時に目の当たりした激情。紅蓮色に燃える炎。ぞわっと背中が粟立つ。
「お前らは弱者が虐げられているのを、いつも見て見ぬふりをする」
「悪魔は人じゃないから」
 人間と悪魔が殴り合っている。誰かの叫び声と、喚き声に混じる野次馬の歓声。
世界は狂っている。
「俺達が人間じゃない、だと?怪我をすれば痛いし、血も出る。最悪死ぬことだってある。楽しいことがあれば笑うし、謂れのないことで傷付いたりする。悲しいことがあれば泣く。腹が立てば怒る。俺達は、あんたと同じ人間だ」
「違う。エルディア人は正真正銘の化け物よ。平気で人間を踏み潰し、そこに住まう人々の営み、未来をも奪う」
「俺が知っているエルディア人は、みんな善良な人間だ。誰もが好きで人を喰ったり、他国を侵略したかったわけじゃねぇ」
「怪我をしてもたちまち回復するし、項を抉られない限り死なないじゃない」
一七〇〇年間の歴史が物語る、覆しようのない事実。
やっぱり、どんなに取り繕っても綻びてしまう。穢れた島の悪魔はシナリオ通りの“エレン・クルーガー”に成り得ない。
「……項を抉られない限り死なない?たったそれだけで化け物扱いして来たのか?俺からしたら、エルディア人を兵器扱いしてきた世界お前らの方がよっぽど悪魔だ」
 エルディア人を兵器と見做し、他国を侵略してきた軍国マーレ。彼らを悪魔と罵りながらも、利用してきた軍国マーレの矛盾。
「…… たったそれだけ・・・・・・・?自分達が犯した悪の所業から――過去から目を逸らすっていうの?私の両親を――故郷を踏み潰し、多くの民を踏み殺して来たのはあなた達エルディア人よ!」
巨人の力を使って、世界を混沌の渦にしたのはエルディア人お前らではないか。
「現実に目を向けるべきなのはお前らの方だ。俺達の巨人の力を使って、他国を侵略して来たのはお前らマーレだろう」
 九つの巨人の力でエルディア人が大地を踏み潰す地獄の光景を、私は一度も忘れたことはない。
 あの日だってそうだ。どうしようもないくらい退屈だけど、平和で幸せな日々が――この先も、ずっと続くんだと思っていた。もう幸せは戻って来ない。今振り返れば何の根拠もなかったけど、そう願っていたというのに。
「離せ。良いから――、離せよ」
「……世界は、悪魔あなた達を助けない。それが共通認識」
振り解こうと躍起になるクルーガーだが、私も負けじと握る力を込める。
 すると、どこかから甲高い警笛の音が響いた。騒ぎを聞きつけた数名の治安当局員が、棍棒を振り翳しながら走って来る姿が見えた。
「耐えて。治安当局員彼らに睨まれる」
暴力には暴力を――とでも言うように、権力という名の棍棒をこれ見よがしに振るう治安当局の男達。バキボキと、骨が折れそうな鈍い音がする。エルディア人とマーレ人は抵抗も虚しく、当局員の男達に引き摺られて行く。
煽っていた野次馬達は、暴動が収束される様子を傍観しているだけ。暴力を伴う治安活動で暴動が鎮圧されると、野次馬達は元の日常へ戻っていくのだ。
「帰ったら診療所の地下室に戻りなさい。そこで頭を冷やして」
掴まれた手首を振り払うクルーガーは、憤怒の形相のまま歩き出す。
 パリ、と何かが割れる音がした。落ちて割れてしまった卵の殻が、クルーガーに踏まれて更に細かく皹割れてしまった。卵の黄身は、無感情に青空を見上げている。ああやって巨人は、無慈悲に人を踏んで来たのだ。私達人間は割れた卵だ。大地の悪魔たる巨人を、無様に見上げることしか出来ないのだ。
 買い物袋を抱えて前を歩くクルーガーの背中を見つめる。外出させるにはまだ早かったのかもしれない。自身の判断ミスに溜息を吐いた。今回は何とかなったが、次も同じように妙な行動を起こされたら――。
彼を押さえることが出来るとは思えない。自信がなかった。
 相手は、あの島から遥々やって来た。イェレナが送り込んだ悪魔だ。診療所で私の助手役を演じる彼を間近に見て、悪魔だということを忘れてしまったのか?私が絆されたとでも?そんな訳ない。私はマーレ軍所属の軍医で、世界からエルディア人の根絶を願っているどこにでもいるマーレ人だ。
 怪我をすれば痛いし、血も出る。楽しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣く。腹が立てば怒る。私達と同じ人間だというならば――何故、世界私達が募らせてきた悲しみや憎しみを分かろうとしないのだ?
 もう一度、割れた卵に視線を落とす。黄色い目玉が無言で問う。果たして、どちらが本物の化け物なのだろうか。




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