06

 あまり良い目覚めとは言えなかった。原因は分かっている。昨日の暴動で言われたクルーガーの言葉だ。あんな言葉の羅列で、こんなにも心が掻き乱されるなんて。しがない悪魔の戯言だと――吐いて棄ておけば良いのに、どうして無視出来ないのだろう。
 昨日買ったばかりの新鮮な食材で、簡単な朝食を作る。寝ぼけ眼のまま、黙々と味気ない食事を口に運ぶ。養父が戦死してから、ずっと孤食だが慣れてしまった。
 ささっと食事を済ませると、身支度を始めた。髪を結ってまとめる。私はマーレ人だ。その証拠を手に取り羽織れば、自ずと気持ちがしゃっきりする。
 軍医見習士官となり、ホワイトカラーの軍服を纏った時は万感の想いが溢れたものだ。亡国の民ではなく、マーレ人としての認められた気がした。養父も、私のことを誇らしげに見ていたのを憶えている。

06. 自己矛盾

 地下室にいるクルーガーの元へ、朝食を届ける。扉を開けると、地下室特有の圧迫感と閉塞感で、気分が悪くなる。マーレ軍の巨人によって、祖国を踏み潰された記憶。猿轡をされて、輸送船の貨物室に押し込まれた苦い記憶のせいだろう。
 クルーガーが無言でこちらを見た。ぼんやりした橙色の明かりに照らされた彼は、すっかり落ち着いている様子だ。
「診療所はお休みよ。私はこれからラクア基地に往診に行く」
 長机に朝食を置くと、クルーガーはぼそりと呟いた。低くて抑揚ない声。静寂な地下室だからこそ、きっちり聞こえた。
「昨日は、悪かった」
 昨日の暴動で滲ませた激情。今は一片の欠片もない。
「……しばらく外出はなし。あなたは私の約束を破ったから」
「ああ、分かっている。しばらくはここで大人しくする」
 一日中この陰鬱した地下室に、彼を閉じ込めるのか。今更ながら、亡国の民としてマーレに強制輸送されたことを思い出した。
 自分がやられたことを、別の誰かにやり返す。強い者が弱い者を食い物にする。マーレ軍の常套手段だ。愚かな行為からは、何も生まれない。
 クルーガーの言葉に、私は何かを言いかけて――口を噤んだ。彼に何を言うつもりだったのか。慰めの言葉だとしたら、どうかしている。何も言わず一瞥して、私は地下室の鍵を閉めた。午前中は、ラクア基地内の軍病院で診察がある。午後からは、スラバ要塞従軍に備えて陸軍歩兵部隊と共に教練だ。

 ラクア基地内の軍病院へ向かう。街の人々は今日も当たり前の日々を享受している。街の中心部から少し外れた場所まで歩くと、道端に誰かが座り込んでいた。
 前を通り過ぎる際に目に入ったのは、黄色の腕章に滲む赤。どうやら怪我をしているようだ。もしかしたら、マーレ人に怪我を負わされたのかもしれない。
 怪我をすれば痛いし、血も出る。最悪死ぬことだってある。楽しいことがあれば笑うし、謂れのないことで傷付いたりする。悲しいことがあれば泣く。腹が立てば怒る。
「あんたと同じ人間――か」
 クルーガーの言葉が、勝手に口から零れ落ちた。無意識に立ち止まっていた。つま先はエルディア人へ向いている。マーレの軍服を着た私が、悪魔に何をしようとしているのだろう。中途半端な情けをかけるつもりか。足を止めたものの私は首を振り、その場を去る。朝から自問自答ばかりしている。
 近頃のマーレ政府は、各地に散らばるエルディア人収容区を統廃合している。彼らを大きな収容区に移送しているのだ。目的はマーレ政府が、彼らを管理しやすくするためだ。道端に座り込んでいたエルディア人は、移送列車から逃げて来たのだろう。
 帰る場所を失った彼らの行き先は、言わずもがな戦地だ。人手が足りないスラバ要塞攻略のため、マーレ軍のエルディア人特攻隊に編入されるだろう。
 
 軍病院での往診を終え、兵営で歩兵部隊と共に教練を受けた。
「マガト隊長は何を考えてるのか……。早く戦士隊を投入するべきだと思うのだが」
「慎重に事を運びたいんだろ。対巨人兵器の威力だって分からないんだ。ミョウジ軍医もそう思いますよね?」
「……私達以上にやきもきしているのは、マガト隊長でしょう。巨人は切り札ですから、戦況を見極めている最中なのではないでしょうか」
 一緒に教練に参加した歩兵部隊の士気も、あまり高くない。四年も続くこの戦争に、嫌気が差しているのは明らかだった。
 くたくたの身体に鞭打って、帰宅の歩を進める。朝に見かけたエルディア人は、姿を消していた。恐らく通報されて、治安当局に連行されたに違いない。何故か言葉にしずらい感情が胸に渦巻く。理由は分からなかった。
 帰宅して夕飯を作る。温かい海鮮スープ。トマト風味の肉炒めと、付け合わせのパン。出来たばかりの食事を、クルーガー用に取り分ける。皿をお盆に乗せ、階段を降りる手前で立ち止まった。
 嗚呼――、苛々する。
 誰か、この気持ちに名前を付けて欲しい。
「夕飯を作ったから、一緒に食べましょう」
 私がそう言うと、案の定クルーガーは怪訝な顔をした。気持ちは分かる。だけど一番不可解で気持ち悪いのは、私自身なのだ。
「早くして。せっかく作ったのに、冷めてしまう」
 それだけ伝えて階段を登る。後ろからのっそりと、クルーガーの気配がした。 

 お互い無言のまま、ひたすら食事をする。
 何とも奇妙な食事風景だと思う。クルーガーは黙々と咀嚼している。味の文句はなさそうだ。
「……マーレ料理は初めて?」
「……いや、何度か食べたことがある」
「……そう」
 どちらとも会話を再開することはなかった。
 クルーガーが食事している場面を、私はぼんやりと見る。スプーンでスープを掬い、静かに飲む。皿とフォークが擦れた。肉を口に入れて咀嚼する。パンを千切る音。
 敵国の海で採れた魚介類。敵国の土地で育まれた穀物と野菜。大事に育てられた家畜の肉。噛み砕き嚥下して、やがて自分の骨と血そして肉となる。敵国の物を取り込むのは、一体どんな気分なのだろう。
「俺を地下室から出して、一体どういう風の吹き回しだ?」
 不意に、基地へ向かう途中で見かけたエルディア人の姿が過ぎる。あの時、エルディア人の元に駆け寄ろうとして――何をしようとした?その先の行動を考えると寒気がした。マーレ人としてあるまじき行為。
「さぁ……?何でかな」
 食べかけのマーレ料理へ視線を移す。初めて口にした敵国の味は――果たしてどんな味だったか。もう覚えていない。すっかりマーレ人の味覚に塗り潰されている。      
 向かい側から、呆れた声が聞こえた。
「あんた、俺をおちょくってんのか」
「誰かと一緒に食べると、美味しく感じるから」
 生前、養父が口にした言葉だ。
 食べることは、生きるエネルギーになる。どんなに忙しくても、養父は私と一緒にご飯を食べてくれた。私を独りきりで、食事させることはしなかったのだ。養父なりの愛情だったのかもしれない。
 やられたら、やり返す。愚かな行為からは何も生まれないが、与えられたものを誰かに返す行為は無意味なのか。偽善行為だろうか。例え、お互いに敵対していたとしても。

 私達が共に食卓を囲むようになって二週間。一人で食事するよりも、素材の味を感じるようになった。相変わらず、食事中は会話が弾むことはない。
 少しずつだが――僅かな変化はあった。
「魚介料理が食べたい?」
「島の捕虜の中に、マーレ料理人がいたんだ」
 クルーガーはパラディ島での生活を、ぽつぽつと話すようになったのだ。島にはもう巨人がいないらしい。三重の壁から飛び出し、全て駆逐し尽くしたと言った。信じられなかったが、嘘とも言い切れない。
 パラディ島の話をする時、クルーガーの目は凪いでいた。初めて食べた海の幸は、驚くほど美味かったと言う。私が知らない島の話。否――世界が知らない彼らの生活の一幕。彼にとって大事な思い出なのだと、察するのに時間はかからなかった。その様子はまるで普通の――。
「構わないけど……私は料理人じゃないから、味の保証は出来ないわ」
「別に構わない。食えれば良い」
「あ、そう……」
 クルーガーの物言いに腹が立ったので、美味しい魚介料理を作ってやると密かに思った。
「ずっと言おうと思っていたんだが、食事くらい軍服脱げよ。食べ零したらシミになるだろ」
「……そうね」
 診療中は別にして、クルーガーの前で軍服を脱いだことは一度もない。マーレ人としての証を脱ぐと、少しだけ心が軽くなった気がした。知らない内に私の中で、アイデンティティが少しずつ崩れ始めているのかもしれない。クルーガーは何も言わずに、私を一瞥しただけだった。
 
 診療所を畳む準備を並行しながら、今日は午後から診察を開始した。クルーガーも私の助手役にすっかり馴染んでいる。
「先生。待合室が騒がしいけど、どうしたんだろうか」
聴診器を外すと、患者が不審そうに言った。ちょっと見て来ますね、と声をかけて待合室へ向かう。
「一体、どうしたのですか?」
「ナマエ先生!こいつらが偉そうに――」
そこには、複数の治安当局員の男達と患者達が睨み合っていたのだ。
「……あなたは下がって」
 駆け寄る患者を後ろに下がらせる。治安当局員の男はライフル銃を構えたまま、居丈高な物言いで来訪の意を告げた。
「見たことない男が、この診療所にいると通報があった。近頃は、血液検査を免れたユミルの民を摘発するのも我々の仕事でね。ご協力お願い出来ませんか?」
 ここには抜き打ち調査でやって来たと言う。
「クルーガーさんがエルディア人?馬鹿なこと言わないでちょうだい!」
「彼はマーレ人だ」
患者達が口々に反論する中、男は受付に座るクルーガーを穴が開くほど見ていた。私は男の不躾な視線と、クルーガーの間に割って入る。
「あなた達。私がマーレ軍ラクア基地所属の軍医であると分かって、ここに来ているのですか?」
「存じ上げていますとも、ミョウジ軍医殿。我々としても、軍医殿の診療所に押しかけるのは心苦しいのだ。しかし、そこに座る男について通報があったのも事実」
男がライフルの銃口で指し示す先はクルーガーだ。クルーガーの表情からは、何の感情も読み取れない。以前との変わり様に、私は内心驚いた。
 待合室は水を打ったように静かだ。下手な行動をすれば、患者達も巻き添えにしてしまう。やはり私はいざという時に、悪魔に成り切れないかもしれない。中途半端で厭になる。
「ライフルを下ろしなさい。患者達が怖がっています。今は診療時間なので、お引き取りを」
「軍医殿が多忙なのも承知です。だが、我々も暇ではないのだ。この街にユミルの民が紛れていたら、市民の皆々様方は安眠出来ない。違いますか?」
 男はまるで、演説みたいに滑らかに喋る。
「あなた達がそこまで職務に熱心だとは思いませんでした。では、診療時間が終わったらまた来て下さい」
だからお引き取り下さい、と強く釘を刺す。
「ここにいる患者の皆さんに、立ち会って頂きたい!あの男がユミルの民ではないと、証人になって欲しいのですよ。今やることに意味がある。小細工されかねない」
「……さっきから黙って聞いていれば、好き勝手言いますね。私がマーレ軍医だと分かっての狼藉ですか?」
 どうしても、今この場で暴きたいらしい。彼らの横暴な態度に、苛立ちが腹に溜まる。
「いやいや、軍医殿がユミルの民を匿うとは思っていません。しかし、真偽を確かめなければ税金の無駄使いと揶揄されてしまう。我々の難儀な立場を、ご理解――頂けますよね」
慇懃無礼な態度。お願いをする態度ではなかった。ライフルの矛先は、私に向けられる。人差し指が引金に添えられていた。明らかな恫喝だった。
「……それとも、何か困ることでもあるのか?」
 お互いに睨み合う。この場で私が拒否し続ければ、不審がられるだろう。クルーガーは連行されてしまう。そうなれば、マーレ人に成りすましているのが露見する可能性が高い。それだけはどうしても避けたい。
 頭の中で描いた最悪なシナリオは、何としてでも避けなければ。必死で次の手を練っていると、クルーガーが目の前に立ちはだかる。

「……ミョウジ先生。俺は大丈夫です」
 そう言って彼は、治安当局の男に身分証を渡した。身分証の写真と、実物のクルーガーを交互に確認している。
 あの身分証は、本物を元に精巧に作った偽物だ。マーレ人の証明であるスタンプも自作した。例え光に翳したり濡らしても、問題ないように細工を施している。身分証に記載した嘘の情報を、クルーガーが淀みなく回答出来れば――この場はやり過ごせるはず。
 こういうことも想定して、私は作り物の“エレン・クルーガー”の人生設定を詰めたのだ。果たして、クルーガーは上手く乗り切れるか。
 男は無尊な態度で、クルーガーに質問を開始した。ID番号。生年月日。血液型。出身地。両親の名前。軍属地――。
 この場にいる人間で、誰よりも緊張しているのはクルーガーと私かもしれない。掌に冷や汗が溜まる。背中が粟立つ。緊迫した空気が漂う中、クルーガーは質問に淡々と答え続けた。
「……ご協力、誠にありがとうございました」
 治安当局員の男は、つまらなそうな物言いだった。偽装身分証を押し付けるように返す。彼らは大きな足音を立てながら、診療所を出て行った。
 張り詰めた空気が一瞬で萎む。手が小さく震えてしまうのは、怖かったからだろうか。それとも緊張しているからだろうか。震えを止めるために、両手を握ってみたが無意味だった。
 息を潜めていた患者達も、大きく息を吐き出して脱力する。彼らは何にも関係ないのに。怖い思いをさせてしまった。
 私とクルーガーは、お詫びをし続ける。
「先生達が謝ることはないさ。何も悪いことはしていないんだから」
「そうそう。気にしないで」
「全く、治安当局員の態度は腹が立つな」
 私達を微塵も疑っていない無垢な瞳と笑み。慰めと労いの言葉を貰う筋合いはないのに。罪悪感でおかしくなりそうだった。気を取り直して診察を再開する。陽がとっぷり暮れる頃、漸く診療を終えることが出来た。

 後片付けをクルーガーに頼み、私は夕飯の支度に取りかかる。いつものように包丁を握り、食材を切っていく。トントン、と規則正しい音にザクッと肉が切れた音が混じる。
「……痛っ、」
 人差し指から血が溢れ、引き攣るような痛みに顔を顰めた。反射的に傷口を舐めると、口内に微かな鉄錆の味が広がる。
 未だに震えが止まらないのだ。その事実に、思わず呆然としてしまう。手が小刻みに震えてしまうせいで、包丁が握れない。おまけに、食材を押さえることも上手く出来ず、手元が狂ってしまったらしい。
「おい。何して――」
 気が付けば、クルーガーが隣にいた。
「ちょっと……!」
 無骨で大きな手が、私の両手を掴んだ。
「手が冷えてるし、まだ震えている……。怖かったか」
「……まさか。ちょっと手元が狂っただけ」
「下手な嘘を吐くな。治安当局員あいつらが帰ってから、ずっと震えていたの知ってんぞ」
 灰色の双眼に見下ろされる。
 私はクルーガーの瞳が苦手かもしれない。言葉で取り繕っても、無意味だと言われた気がする。心の片隅――自分でも手が届かないところを、抉られる感覚に陥るのだ。
「消毒する」
「こんな切り傷、舐めとけば――」
「ちゃんと消毒しないと、バイ菌が入るかもしれないだろ。あんた医者のくせに、自分を蔑ろにするな」
 有無を言わせない口調とは裏腹に、握られる手は温かくて酷く柔い。生きている――。どうしても、彼の手を振り解くことは出来なかった。
 問答無用で椅子に座らされ、消毒液に浸した綿を切り傷に当てがわれる。 
「バイ菌って……子供みたい」
「……うるせぇよ」
 労わるような手つきで軟膏を塗られ、手際良く処置をしてくれた。
「……えっと、ありがとう」
 救急箱を片付けるクルーガーへ、声をかける。まさか島の悪魔に、御礼の言葉を言うことになるとは思わなかった。
 私が、クルーガーに?
 自身の胸に突如やって来た違和感に戸惑っていると、ぼそっと吐き出されたのは簡素な一言だった。
「別に」
 つっけんどんな態度。変わり映えしない無表情に、何故か腑に落ちてしてしまう。彼にとって、敵である私に優しくする謂れはないからだ。
 これで良い。イェレナの策略で、今は同じ屋根の下で暮らしているだけ。来たるべき時が来れば、さようならだ。それまでの期間、医者と助手を演じ切れば良い。

 お互いに憎しみ合うのが、私達の正しい関係。世界の正しい在り方なのである。そう言い聞かすように。呪文を唱えるみたいに、何度も心の中で反芻する。動揺と困惑は、瞬く間に消えてくれた。
 やっと平常心に戻ることが出来た私は、台所に戻って包丁を手に取った。クルーガーから送られる何か言いたげな視線に、気付かない振りをする。
「さっきは…… 治安当局員あいつらから庇ってくれて、ありがとうな」
「私はあの時……無関係な患者達を守るために必死だっただけよ」
「患者達があんたに求めているのは、彼らを守ろうとする姿勢・・・・・・・・だ。それが完璧だったから、今も俺はここにいられる」
 万が一、クルーガーが連行されて偽装が見破らたら、芋蔓式に私の秘密がマーレ軍に露見してしまう。最悪の事態は避けなければならない。そういう意味では、私達は一連托生なのだ。
 クルーガーを守ること。即ち、私自身を守ることに繋がる。だから、純粋に彼を守りたかったわけじゃない。
 クルーガーが憎いであろうマーレ人を騙ること。即ち、彼自身の安全が確保されることに繋がる。
 待合室で繰り広げられた即興の芝居。演者は私達二人だ。クルーガーは全員観客の前で、れっきとしたマーレ人だと証明してみせたのだ。否――、演じ切った。
 持ちつ持たれつな関係を、彼なりに理解しているのだろう。だから私が気に病む必要は何一つないのに、どう反応すれば良いのか分からない。
 人から感謝や御礼を言われたら、その気持ちに応えてやりなさい。
 養父はきちんと教えてくれたけど、今の私にその言葉を口にする権利はない。
「……この街の人達は単純だけど、素直な人が多いんだな」
後ろをうかがうと、クルーガーは何かを押し殺した表情を浮かべている。
「やっと分かった?」
 先日の暴動で、クルーガーは私に尋ねた。住民を裏切って、心は傷まないのか――と。あの言葉の解答を、今日彼は身を持って経験したのだから。
 クルーガーが丁寧に処置を施してくれた指が温かい。未だに大きな手に包まれた感触が残っている。生きている人間の体温。当たり前の事実に、気付きたくなかった。気付かなければ良かった。
 いっそのこと、全部投げ出せたら良いのに。彼らを悪魔だと罵っていた頃に戻ることが出来たら、どんなに良いだろう。知らなければ良かった。知ってしまったら、軽々しく悪魔だと詰ることが出来ない。狂った方が楽になるかもしれない――なんて。泣き出したい気持ちを無理矢理押し込み、私は再び夕飯の支度に取りかかった。




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