04

『可哀想』とは一体何だ。私が可哀想な子供であるのなら、同じようにマーレに侵略された他国の人々はどうなのだろう。その土地の独特な文化や言語、人々の営みを武力によって捩じ伏せられた彼らは可哀想と思う対象である。
いや、マーレの人々は戦争に勝つことを望んでいる。そこに住まう人々のことなんて、何とも思っていない。
 ラクア基地の病院で過ごす負傷兵達はどうだろう。彼らも可哀想な部類に入るのか。国の為に戦った彼らは、勇敢な者であると讃えられるべき存在だ。人間らしさを失い、癒えることのない怪我を負った彼らは、決して可哀想な存在ではない筈だ。
 老婦人からずっと可哀想だと思われていた事実が、鋭い刃となって私の心を引き裂く。彼女は私が可哀想だと思ったから――優しく接してくれていたのだろう。心から血が流れ、冷えていく。

『可哀想』と思うのは、当事者じゃないからだと思う。自分の身に、火の粉が降り掛かる危険がない遠く離れた場所から、眺めることが出来る心の余裕がそうさせているのだろう。
「お願い……、ナマエちゃん」
 老婦人が懇願するような声音で、尚も縋って来る。その様子を私は茫然と眺めていると、グッと力強く手を握られた。折れそうな程頼りない手に、こんな力が残っているのかと思う程強く握られて驚いた。
 悪魔になると決めたのに。マーレ人として国を裏切っているのに。哀しくて、心からドクドクと血が流れる。嫌な音を立てて軋む。
悪魔にこんな感情は要らない。邪魔だ。不要だ。泣き出したくなるのを堪えていると、玄関に見知った人の気配がした。

04. 偽装工作

「……娘さんが来ましたよ」
 この話はこれでお終いだと言葉にせずとも、老婦人は娘の姿を見て察したようだ。だけど彼女は未だに私の手を強く握り締め、帰る素振りすらしない。迎えにやって来た娘が、いつものように申し訳なさそうに軽くお辞儀をした。
「先生。お忙しいのに、いつも母の話し相手になってくれてありがとうございます」
「いいえ、お気になさらないで下さい。ただの世間話を一つ、していただけですから」
「お母さん。ほら、帰るわよ」
「ナマエちゃん――、」
「お母さん!先生も後片付けが残っているんだから、長居したら迷惑でしょう?」
いつまで経っても私の手を離そうとしない母親に、娘がまるで幼子に物事の良し悪しを言い聞かせるように宥める。尚も私に縋り付く老婦人の姿に、「すみません、すみません」と何度も頭を下げる彼女が、何だか気の毒に感じてしまった。
 多分、老婦人は安心したいのだ。自分が長い時間を費やして構築した世界が、ある日突然壊されてしまう恐怖。それが耐えられないのかもしれない。
 幸福とは薄い氷の上で咲く、一輪の美しい花である。心を込めて大事に育てた花を、理不尽に毟り取られた時の怒りや喪失感は計り知れない。
 いつだって世界は、私達の望み通りの未来を与えてくれない。私達はいつも残酷という名の海に溺れているのだ。
「ちゃんと帰ってきますから……。お大事に」
例え嘘だとしても――ほんの少しの希望を与えることが出来る。その行為がどんなに酷いことなのか、私は理解していた。
 安心してください、とは言えなかった。これが、今の私がやれる精一杯だった。
果たして私は、上手く微笑んで彼女達を送り出すことが出来ていただろうか。

「血液の採取?」
 老婦人達を見送った後、私の行動は早かった。地下室からクルーガーを出して診察室に案内すると、彼は眩しそうに目を細めた。どうやら地下室の薄暗い照明に慣れてしまっているため、診察室の明るさが眩しかったらしい。
 私はいつものように診察用の椅子に腰掛けて、クルーガーにも座るよう目配せする。彼は怪訝な顔をしながら、机の上に用意された血液採取キットを眺めている。
「これからあなたの血液サンプルをマーレ人の血液に偽装する」
「偽装戸籍と診療録を作るのに俺の血が必要なのか?妙なことに使うんじゃないだろうな?」
「本物のように細工をするって言ったでしょう?それとも……紙ぺら一枚でマーレ人に成り済ませるとでも?」
私がそう言うとクルーガーは黙り込む。そして少しだけ難しそうな顔をしたものの――この場は私に任せた方が良いと判断したのか――大人しく椅子に座った。
 近年、血液検査の技術が向上しているおかげで、世界中の収容区から逃れていたユミルの民が見つかっている。昔のように、医者のお墨付きがあればどうにかなる時代は、とうに終わりを迎えたのだ。
ちなみに、血液検査を誤魔化して難を逃れていた悪魔の末裔達がその後どうなったのか――言わなくても十分解るだろう。
 偽装戸籍や診療録だけでは、いずれ露見してしまう時代がやって来る。軍部の動きが手に取るように解り、尚且つ医学の進歩に触れていた養父は予見していたのだろう。私が未だにマーレ人と偽っていられるのも、彼の用意周到な準備があってこそなのだ。同じ手法で、目の前にいる悪魔が書類上――人間になる。
「あなたの血液にこの特殊な薬を混ぜれば、マーレ人と同じようなサンプルになる。これを偽装戸籍と一緒に登録する」
 私は、あらかじめ薬が入った採血管をシリンジに取り付けた。
 恐らくイェレナは、全て織り込み済みだったのだろう。私は未だに彼女の掌の上で踊らされているに過ぎない。いざという時に、私がマーレ人に成り済ませた同じ手法をクルーガーに施すだろうと――彼女は解っていた。今のところ、イェレナが思い描いた通りに物事が運びつつある。本当に、良く頭が切れる女だ。
 一体イェレナは、何歩先まで策を練っているのだろうか。澄まし顔の彼女を思い浮かべてしまい、舌打ちしたい気分だった。不愉快な気持ちが手つきに表れてしまったようで、どうやら駆血帯を強く締め過ぎたようだ。クルーガーに指摘されるまで、私は気付かなかった。
「……締め過ぎじゃねぇか?」
「……っ、ごめん」
 咄嗟に謝ってしまった。謝られるとは思わなかった彼は、こちらの様子をじっと眺めている。向かい合ったまま、お互い無言なので居心地が悪くて仕方がない。カチコチと、時を刻む音が診察室に響き渡る。この沈黙は、私とクルーガーの関係を如実に表していた。
きっとこれから先も、彼と相入れることはないだろう。
 気を取り直した私は、差し出された腕に指を当てて最適な血管を探す。該当箇所をアルコールで拭くと、嗅ぎ慣れた消毒液の匂いが鼻孔を掠める。そして、一声かけてから穿刺せんしした。
 プツリと針が刺さり、採血管に赤黒い液体が満ちていく。この小さな硝子製の管に、世界を悪夢の底へ突き落とした忌まわしきものが凝縮される。エルディア人の身体に流れる血潮が――私の祖国を蹂躙した。
 針を抜けば微かな蒸気が上がり、瞬く間に傷跡が綺麗に修復されていった。目の前で見せ付けられた巨人の再生力。くらりと、眩暈を覚える程の憎しみと哀しみが腹の中で蜷局を巻く。
「これがあんた達が憎む巨人の力だ」
 クルーガーの口振りは乾いていた。私達に対する懺悔の気持ちや、申し訳なさは全く含まれていない。彼は目を伏せて、早々に自身の腕を引っ込める。
 贖罪の気持ちはないのか。喉から出かかった言葉を無理矢理飲み下した。まずは、やるべきことを先にやらなければ。
「これからのことを……擦り合わせしようと思うの」
「擦り合わせ?」
私はマーレ軍の現状と、この街で起きている反戦派の暴動について端的に話すことにした。
 マーレ人と偽り、この街に溶け込むには知っておかなければならないことが沢山ある。クルーガーが無事に軍部へ潜り込める機会が訪れる日まで。イェレナによって課せられた重い鎖が、私の首に執拗に絡み付く。
「この診療所も今は何ともないけど、いつ反戦派に襲撃されるか解らない。彼らに襲撃されて、万が一あなたが住所不定・無職のエルディア人だと露見したらそれこそ終わり。身を隠すより、堂々と周囲に溶け込んだ方が気付かれにくい」
 そこで私は一計を案じた。単純な話だ。いつでも巨人になれるクルーガーとマーレ庶民が共に暮らせば良い。即ち――。
「私の助手になってもらう」
「はあ……?」
私の言葉にクルーガーが素っ頓狂な声をあげる。このタイミングで、彼に主導権を渡してはならない。
だから私は、彼から投げつけられる視線を無視して、後片付けを続けた。あくまでも主導権は、最後まで私が握っていなければならない。
「俺は医学の知識なんか持ってねぇよ。簡単な応急処置しか出来ない」
「それで十分。あくまでもあなたは私の助手だから」

それより重要なのは、彼がマーレ人として溶け込めるかだ。書類上マーレ人になっても、土台がなければ成り切れない。
「それで、偽装書類の名前はどうする?」
「……エレン。エレン・クルーガーで作ってくれて構わない」
「エレン――ね、解った。これ、渡しておくから明日まで頭に叩き込んで」
「何だ、これ……?デタラメばっかじゃねぇか」
手渡された数十枚に亘る書類をパラパラと捲りながら、クルーガーが顔をしかめた。
 この書類には、“エレン・クルーガー”という架空の男の――これまた嘘八百な人生が――書き連ねられている。たった数十枚という薄っぺらい紙の中に記された事柄が、作り物の“エレン・クルーガー”の人生となるのだ。
「エレン・クルーガーの設定。出身地、誕生日、血液型、家族や友人関係、職務経歴は勿論、この診療所にやって来た経緯を作っておいた」
 マーレ人志願兵として故郷から遥々ラクア基地にやって来たものの、暴動に巻き込まれて怪我をしたため私に保護された。怪我が治るまで、私の助手としてこの診療所で世話になる――というのが大まかな筋書きだ。
 私は養父から同じような方法を施されて、マーレ人になった。虚構も演じる内に、境界線が曖昧となり――本物真実となる。この手法の恐ろしいところは、虚構に囚われて呑み込まれてしまうことだ。
 だけど、紅蓮の炎を宿す彼なら。迷いのない瞳を持つ彼ならば、本当の自分を見失わない筈だ。
「こんな面倒なことしなくても、あんたの弟にした方が疑われる可能性少ないと思うが」
「そんなの嘘だとすぐバレるでしょう」
私は溜息を吐いて、男の前に鏡を置いてみせた。一滴も同じ血が混ざっているとは思えない程――。
「ほら。私とあなた、全然似てない」
 この街の住人を騙すには、物語ストーリーが必要だ。ありきたりでも構わない。下手に血の繋がりを示唆して墓穴を掘るより、よっぽどマシだ。
「風呂場に案内するから付いて来て。服もこちらで余っているものがあるから、明日からそれを着てちょうだい。そんなみすぼらしい格好じゃ、マーレに馴染めない」




「ねぇ。何で私だったの?」
 今でも覚えている。ゴウン、ゴウンと地響きに似た振動が直接臓腑に響く感覚。周囲は暗くて何も見えないし、声を出そうとしても口にタオルか何かを噛まされたせいで、うぅぅ、と唸ることしか出来ない。けれど、沢山の子供達の気配だけは肌で感じ取れた。モーターの低い唸り音に混じる幽かな水飛沫。船の貨物室か何かだろうか。
 澱んだ空気が煮詰り、息苦しい。肺の中が膿んだような気がした。どんよりとした雰囲気で満たされている部屋。故郷は破壊され、両親共々殺された悲しみに暮れる子供達の中に、紛れもなく私もいた。不安と絶望に押し潰されてめそめそと鼻を啜る音の中――己の行く末に不安がない訳ではなかったが――私は涙を一粒も零すことがなかった。
 どこに輸送されるのだろう。口にタオルを噛まされているのは、無闇矢鱈に舌を噛み切って自決させないため。私達は『人間』ではなく『物』なのだ。一人の人間と見做されず、既にマーレの所有物として扱われている。
これからの人生は、捕虜――言葉悪く言えば奴隷――として生きていかねばならぬ現実に、私は何の感情すら湧かなかった。どっちにしろ、死んだも同然なのだ。ならば、せめて人として死にたかった。
奴隷に生殺与奪権を与える必要はないとでも言うように、口の中にあるタオルが忌々しかった。
 とうの昔に、一度だけ。私は養父に尋ねたことがある。押し込められた子供達の中から、何故私だったのか。彼のに手を引かれて――ただの『物』に成り下がった私が、一人の『人間』として尊重され、清潔な寝床と三食の食事を与えられ、おまけに教育を施されているのか。どうしても解らなかったのだ。
「君はあの中にいた他の誰よりも、“生きたい”と心から願っていたからだ」
「……そんなこと、ない」
「ちゃんと目を見れば解るものだ。目は心の窓だからな」
養父の双眼に映る幼い子供は、無表情なままこちらを見返していた。
 リビングの中で日当たりが良い棚に飾られた一枚の写真。色白でどこか儚げな雰囲気を持つ女性が、写真の向こう側にいる人物へ柔和に微笑み掛けている。写真の中の彼女は愛おしげな雰囲気を纏っており、とても優しい一枚であった。
「女の人……、」
「彼女は私の妻だよ。数年前に病で亡くなったがね」
 戦争に従軍する前の話だそうだ。二人の間に子供はいなかった。今考えると、私にとってあまりにも都合が良い状況とも言えた。
「良いかい、ナマエ。君がこの国で、安全に暮らすための大事な話をしよう」
「大事な話?」
「そうだよ。お前の生死に関わる話だから、しっかりと聞くように」
そう言って彼は、分厚い書類の束を私に渡した。そこには、“ナマエ・ミョウジ”の設定・・が事細かに書き記されていた。
 あの貨物室に身を寄せていた他の子供達はどうなったのか。
 当時の私には解らなかったけれど、長じた今なら解る。軍国主義・マーレの先鋭となり、自分達がされたことを今度は他人に行なっているだけだ。
負の連鎖は留まらない。我が物顔で世界の覇権を握ろうとする大国に、他国は憎しみを募らせ続ける。膨れ上がった憎悪が破裂するのも、時間の問題だろう。
 嗚呼、私は可哀想なんだと――老婦人の言葉によって今更自覚する。育ててくれた養父を戦争で失った。それ以前に、祖国を巨人に踏み潰されて帰る場所を失った。否応なく、マーレに連れて来られた過去が暗い影を落とす。
本当の両親と離れ離れになった私のことを、養父は今まで一度も『可哀想な子だ』と口にしたことはなかった。彼が口癖のように私に言っていたのは、『君は私の娘だ』という言葉だった。そのお陰で、一度も自分が可哀想な子だと思ったことはなかったのだ。
 もしかしたら、養父も心の中ではそう思っていたのかもしれない。それを知る術は、とっくに失っているのだが。




「ん……、」
 ぼんやりとした灯りで目が覚めた。机には作りかけの偽装書類と、血液サンプルがそのままだった。頭が重く、身体も幾分か怠い。時計の針は、深夜二時を指している。どうやら、ほんの一時間くらい居眠りしてしまったようだ。
 胸糞が悪い。夢見が悪かった。あれは私が本来のアイデンティティを失い、そして新たな土台を手に入れた瞬間だった。あんな過去の出来事を、夢で見た理由。それは、目の前に座っているクルーガーのせいだ。
「……やっと起きたか」
 ボソッと呟かれた声に驚いた私は、無様に椅子から転げ落ちた。ガタンッと大きな音と、身体を床に叩きつけられた衝撃で一気に眠気が吹っ飛んでしまった。
「何で……こんなところにいるのよ。シャワー浴びたら地下室に戻れって言ったでしょう」
私が強打した腰をさすりながら言うと、クルーガーは表情を一切変えなかった。
 狂気を宿す確かな自我の瞳に曝される。彼が口に出した言葉に、私は奇妙な感覚を覚えたのだった。
「あんた、魘されてたから」





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