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※2022/12/3発行の鯉登夢アンソロジー
「Sugar&Spice」寄稿作品のWEB再録
※ネームレス



 ほろ苦い香りが昇り立つ黒い液体を、テイクアウト用の断熱紙コップへ注いでいく。並々と注がれたそれは、香りだけで眠気すら吹き飛ばしてくれそうだ。カップの半分に注がれたコーヒーにミルクをたっぷり加える。黒い液体に広がる白の螺旋模様。黒と白のコントラストは一瞬の内に混じり合って、独特な角が取れて穏やかな香りに変わった。アメリカンコーヒー四つ。カフェラテ三つ。タブレットに表示される注文数を確認し、手際良く紙コップに蓋をしていく。
 時刻は十五時過ぎ。午後の労働に勤しむ身体は、しばし小休止を求める時刻だ。私の仕事上、朝食と昼食の次に慌ただしくなる時間帯でもある。タブレットは新たな注文が入ったことを、赤い新着アイコンで知らせてくれた。
 空を覆う高層オフィスビル群と、大勢の人がひしめき合う都内。十坪程度の小さなテナントが私の仕事場である。昨年、冬のボーナスを貰って営業職を辞め、貯金を元手にテイクアウト専門のコーヒーショップを開業した。
「デリバリーサービスです。コーヒー三つは出来てますか?」
「はい! こちらです」
 私は淹れたてのコーヒーを袋に入れ、配達人へ渡した。ありがたいことに、毎日は充実している。
「コーヒーの注文をした第七商会だ」
「はーい」
 注文の受け渡し口から声がした。落ち着きながらも、どこか勝ち気な口調。だけど嫌味な感じは一切なく、天真爛漫な純粋さを思わせる声だった。カップを袋に詰めて受け取り口に行くと、いつもの彼がいた。艶のある黒髪は、仄かに藤色を帯びている。健康的な小麦色の肌。きりっとした目元は印象的で、若々しさを感じさせる。ぱりっと糊の効いた上品なネイビー色のスーツを着こなしている。
「アメリカンコーヒー四つに、カフェラテ三つです」
「ありがとう」
「いつもありがとうございます」
 彼は二つの袋を受け取り、颯爽と去って行った。お互いに名前も知らないし、特段親しく話をする仲ではない。注文品を渡す際に、お互い軽く会釈をする程度である。注文の受け渡しは五分もかからないので、長い一日のほんの僅かな関わり合いだ。ほんの僅かばかり力を加えれば、簡単に千切れてしまう躾糸みたいな関係である。
 もちろん彼は何とも思ってないだろうけど、私は躾糸に似た関係が嫌いじゃない。私からは話しかけないけど、今日も元気そうだと分かれば良いのだ。第七商会から注文が入れば、今日も彼が受け取りに来るのかな、と考えてしまう。いつものように颯爽と彼が受け取りに来るだけで、ちょっと嬉しくてくすぐったい気持ちになるのだ。大人のくせに我ながら子供みたいだと、心の中で突っ込んで苦笑するまでがワンセットだ。私だけの秘密の日課。名前の知らない彼には、内緒である。
 今日も第七商会から、コーヒーの注文が入る。受け取り時間は十八時。世間では定時間際の時間である。ここはオフィス街なので、夜遅くまで電気の灯るビル群も多い。業務効率化を目指そうとも、仕事量によって定時退社は難しいこともある。
 注文品は珍しくも、カフェインレスコーヒー七つ。注文の受け取り時間を鑑みると、今日は遅くまで残業するのかもしれない。夜遅くまで働くなら、小腹を満たす甘い物もあった方が良いだろう。試作品として作った一口大のクッキーと、フィナンシェをおまけでつけよう。何度も味見したし、味は問題ないと思う。注文品と共に、個包装したお菓子も袋に詰めていく。
「コーヒーを受け取りに来た」
「はーい」
 受け取り口から、聞き慣れた声が聞こえた。お互いに小さく会釈する。
「カフェインレスコーヒー七つですね」
「ああ。ありがとう」
 いつものように注文品を渡す短いやり取りを終えた後、彼は来た道を引き返して行く。やがて後ろ姿は雑踏の中へ吸い込まれて見えなくなった。ふと、夜空を見上げてみる。都心の空は我が物顔で、建ち並ぶ高層ビルに埋め尽くされている。東の空から夜の帳を連れて来た満月は、とても窮屈そうに夜空のキャンバスに収まっていた。

「先日のクッキーとフィナンシェは、おまけの商品なのか?」
「へっ?」
 今日もお店に彼がやって来て、注文品を渡す時だった。まさか話しかけられるとは思ってなかったので、我ながら間の抜けた声を出してしまった。彼は動じずに、あたふたする私を眺めている。切長の目力強い視線に曝されて恥ずかしいから、あまり見ないで欲しい。
「あっ、この間のクッキーとフィナンシェ食べてくれたんですね」
「コーヒー代しか払ってなかった。差額を払わねばならんと思っているのだが」
 お財布を取り出して、値段は幾らだと無言で問いかけてくる。お客として当然の行動である。
「良いんです。あれは試作品なので、お代は頂戴してません。事前に説明しなくて、すみません……!」
 私は両手を振り、お財布をしまうように促した。クッキーとフィナンシェは店の正式メニューに載っていないので、代金も決まってない。だから、お代を頂くわけにはいかないのだ。クッキーとフィナンシェをおまけにしたのも、小腹をちょっと満たしてもらえれば良いと思ったから。それを説明しても目の前にいる彼は、律儀に支払うと言って譲らない。意外と頑固だなあと思いつつも、逆に気を遣わせてしまい、徐々に申し訳ない気持ちになってくる。
「いや、でも――」
「味の感想! それだけ教えてもらえれば、本当に良いんです。問題なければメニューに追加しようと思ってるので、その時はいつものコーヒーと一緒に注文してください」
 食い下がる彼の言葉へ、上から被せるように言う。私にそう言われてしまえば、彼も引き下がるほかない。ようやく味について、快活に答えてくれた。
「味の感想だな。美味かったぞ! バターの香りも豊かで、コーヒーの苦味にとても合う。部下も喜んでいた」
「本当ですか? 良かった」
「私は美味いと思ったから、そう言ったのだ。自信を持て」
 言葉を交わすのは初めてなのに、自信が湧いてくるから不思議である。堂々とした口調は、自信に満ち溢れている。きっと嘘を吐かない、正直な人なのだろう。彼の人となりが垣間見えた瞬間だった。
「すまん。自己紹介が遅れたな。私は鯉登音之進だ」
 手際良く名刺を差し出されたので、条件反射で丁寧にそれを受け取る。私も名乗りながら、名刺を丁重に彼へ渡した。どうやら、前職の営業時代に染みついた癖は抜けてないらしい。
 相手の名前を知ると、親しみやすさを覚えるのは何故だろうか。ぼんやりした輪郭が形造られて、徐々に実体を伴っていく感覚に似ている。鯉登さんは代金を支払い、袋を両手に颯爽ときびすを返す。去り際に、また来ると一言残して。颯爽と現れて帰って行く姿は、まるで初夏の薫りを運ぶ風に似ていた。風のような人。それが鯉登さんの第一印象である。
 試作品の感想が聞けて良かった。コーヒーの酸味や苦味に合うように作ってみたのである。何度も試行錯誤して作ったので、飛び抜けて不味くないはずと思っていたけれど、何かが足りなかった。それは、ほんのひと匙の自信だ。私は誰かに、背中を押してもらいたかったのかもしれない。自信を持ての一言は最後に味を整える、ひと匙の調味料だった。
 あの日から二つ、変わったことがある。私と鯉登さんは、少しずつ言葉を交わすようになった。そしてもう一つは、クッキーを一袋頼むようになったのだ。
「鯉登さんは、甘い物好きなんですか?」
「美味い物なら何でも好きだ」
「それ、答えになってませんよ」
 私は思わず、小さく笑った。
 適切な距離感を測りながら交わされる会話は、二人の間に垂れた糸を引き寄せ合うような作業に似ている。まるで、学生時代に抱いた淡い感情を思い出した。尊敬する上司や、優秀な部下の話。抱えている仕事の話。それから次第に、休日の過ごし方を話したりする仲になった。
 今日も第七商会から、コーヒーの注文が入る。いつものように、鯉登さんは注文品を受け取りに店舗へやって来た。足取りはいつもと変わらないのに、彼のまとう雰囲気に少しかげりを感じる。注文のコーヒーを紙袋に詰めながら、思ったことを聞いてみた。
「鯉登さん。何か嫌なことでもありました?」
「何故そう思う?」
「いつも自信満々なのに、今日はしょんぼりしているので」
「私はいつも自信満々に見えるのか?」
 鯉登さんは小さな声で、ふふふと笑う。
「何で笑うんですか。私、変なこと言いました?」
 鯉登さんと世間話をする仲になってから、距離感の他に変わったこともある。
「すまん、すまん。そげな風に見られちょったとは思わんかったから」
 彼の故郷である鹿児島弁。時々、何にも武装していない素の鯉登さんが顔を出すようになった。胸の真ん中で春の小春日和に似た、ぽかぽかする温かさが小さく灯る感覚。彼にとって、心許せる相手だと認定されたのではないか。舞い上がる私に待ったをかける、冷静な私もいる。私の勘違いかもしれないでしょう、と諌められる。その度に心の中で、首を横に振るのだ。
「仕事終わったら、少しだけ寄ってください。試食して欲しいお菓子があるんです」
「試食? 私で良いのか?」
「鯉登さんなら、忖度そんたくせず感想を言ってくれるでしょう?」
「まあ……そうだな。私は媚を売るのは苦手だ」
「じゃあ、仕事終わりに待ってます」
 私は注文品を入れた紙袋を鯉登さんへ渡す。彼は了解を示すように、受け取ってくれた。

 十八時過ぎ。本日最後の注文品を準備していると、注文口の窓を軽く叩く音が聞こえた。駆け寄ると、仕事終わりの鯉登さんが店の前にいた。
「お仕事お疲れ様です。どうぞ、中へ入ってください」
 注文口の左隣にある扉から入るように促す。店舗の作りは十坪程度の内、調理場は半分以上で残りは事務所として使っている。外の扉から、行き来出来る造りだ。
「残り一件の注文品を受け取りに来るまで、少し待っててください。すみません」
「分かった。構わん、気にするな」
 鯉登さんを事務所へ案内してから五分ほどだろうか。デリバリーサービスの方が、注文品を受け取りにやって来た。コーヒーを渡し、これで本日の営業は終了である。店じまいもそこそこに、私はお盆に飲み物と試作品を乗せて、事務所へ続く扉を開けた。
「お待たせしました」
 長方形に模った濃褐色の生地は、上から粉砂糖で綺麗に薄化粧を施されている。お皿に盛られたお菓子に、鯉登さんは切長の目を丸くした。大人びた雰囲気の彼でも、年相応の青年らしい反応を示す。
「フィナンシェではないか!」
「はい。食べてみてください」
「では……いただきます」
 鯉登さんは行儀良く両手を合わせ、フィナンシェを口に運ぶ。彼の口から、どんな感想が出て来るのか。ひとまず私は、待ってみることにした。実は、この瞬間が一番緊張するのだ。
「……この生地は、コーヒーか? ん? 仄かに酸味もするな……」
「何だと思いますか?」
 試作品のアクセントでもあるので、是非とも鯉登さんに当ててもらいたい。私は無意識に、まじまじと鯉登さんを見つめていたらしい。
「そげん見られると食べづらい。味の感想も出て来ん」
「あっ、すみません。つい……」
 緊張するあまり、前のめりになってしまった。他人からまじまじと見られるのは、誰でも気分良いものではないだろう。私は慌ててテーブルの端へ目線を落とした。それでもやはり気になるので、一瞬だけ鯉登さんに視線を向ける。彼は味わいながら、二口目を咀嚼していた。
「……オレンジ、か?」
「正解です! フィナンシェの生地に、コーヒーとオレンジマーマレードを加えました」
 オレンジとコーヒーの相性は良い。巷ではオレンジコーヒーも流行っているほどだ。コーヒーのお供として、試しに作ってみたのである。
「味はどうでした?」
「うん、美味いぞ。コーヒーの酸味の中に、オレンジマーマレードのほろ苦さが良いアクセントになっている。生地はしっとりした食感で、口の中にほど良く馴染むし、コーヒーにもぴったりだろう」
 鯉登さんはよどみなく、感想を述べてくれる。ひとまず味に問題なくて良かった。私は、ほっと胸を撫で下ろす。
「もう一つ食べても良いか?」
「もちろんです。クッキーもありますよ」
 どうやら試作品を、気に入ってくれたみたいだ。鯉登さんは顔を綻ばせて、フィナンシェを頬張っている。美味しそうに食べるところを見ると、心和むのは何故だろう。私まで、頬が緩んでしまいそうだ。
「鯉登さんのお墨付きなら安心です」
「そうだろう、そうだろう!」
 鯉登さんは、得意げに笑う。いつもの調子を取り戻してくれたようだ。
「良かった! やっと笑ってくれましたね」
「そんなに元気ないように見えたか?」
「声に張りがなくて肩も落としていたので、すぐに分かりましたよ」
 大袈裟に言ってみれば、鯉登さんは気まずそうに頬をいた。
「仕事でミスをした。部下達がフォローしっくれたから何とかなったけど、自分わがが情けなくてな……。ちっと落ち込んでいた」
 自信に満ちる彼でも、失敗することもある。私にとって鯉登さんは、手の届かない高嶺の花。だから彼も、失敗して落ち込む人である事実に驚いた。考えてみれば同じ人間なのだから、当たり前のことなのに。
 初めて目にする、等身大の鯉登さん。心に刻まれる切ない疼きと、芽吹き始めた感情に堪らなくなる。無意識の内に、励ましの言葉を口にしていた。
「その失敗は、きっと次に活かせますよ! 失敗は成功のもと、と言うでしょう? 自信持ってください。私、初めて試作品を作った時、どうしても自信持てなかったんです。思い切って鯉登さんに味の感想を聞いた時、美味しいから自信持てと言われて嬉しかった。だから、これを食べて少しでも元気出してもらいたくて……」
「そうか。案ずるな、もう平気だ。お陰で元気出た」
 最後の一つを手に取り、美味しそうに食べてくれた。
「ふふ。ほろ苦くて仄かに甘い。手作りのお菓子は美味いな。また新作を作ってくれ。私が試食しても良いぞ」
 鯉登さんの人懐こい年相応の表情に、私の心はどきりと高鳴った。どんな調味料よりも甘くて苦くてしょっぱい味を、私は既に知っている。
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