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※2022/12/25 金カ夢Webオンリーにて、Privatterで限定公開したものです。
※来年4月の鯉登夢Webオンリーでの発行を目指して、現在作業中の原稿内容を公開します。発行時では夢主の名前は固定にしますが、こちらでは変換可能です。
※鯉登音之進という1人の青年の人生について、明治軸と現代軸の二部構成予定です。明治軸は幼少期〜壮年期まで、今回の公開部分は幼少期の一部です。
※私生活多忙により、まとまった時間が取れないので発行を取りやめました。


 一九〇六年 十二月

 天井から吊るされた硝子製の白熱電球を点ける。文明開花を象徴する明かりは、十二畳ほどの部屋を照らすには十分だが、日記を書く時は少し手元が心許ない。部屋の主である青年――鯉登音之進は、手持ち用の洋燈を灯した。
 鯉登が陸軍士官学校を優等で卒業し、北海道の旭川を拠点とする第七師団の新任少尉に任官して半年。部下兼教育係の月島から、日々手厳しい指導を受けながらも、ようやく兵営での業務に慣れてきた頃合いだ。鯉登は万年筆を握り、今日の出来事を書き始める。眠る前に一日の出来事を振り返り、書き留める行為が染みついているのだ。
 士官学校では生徒指導の一環として、日記教育というものがある。教官は口を揃えて、思うぞんぶん日記を記せと言っていた。そう言われると、思い思いに書き記すものである。皆それぞれ思ったことを書くので、鯉登も多分に漏れず色々なことを日記に書いた。
 日常の他愛ない寮生活。美味しかった食べ物。同期達と繰り出した東京観光。離れて暮らす家族への思い。見聞きして得た知識。そして、国内政治や国際情勢の所感と見解まで。
 様々な事柄を書き記した日記は、一週間に一度教官へ提出することになっている。そして朱線で塗り潰された日記が戻って来るのだ。酷い時は教官から呼び出され、同期の小松原と共に日記の内容について叱られる。
 鯉登は理路整然と意見を教官へ述べると、小松原は固唾を飲んで二人を見守った。
「日記に書けないようなことがあるのは、軍人として値しない証拠ではないでしょうか」
「鯉登。つまりお前は、偽りの日記を書くことは、軍人にあらずと言いたいのか?」
「はい。どんな内容であろうと隠さず書くために、軍人は日頃から恥ずべき行いをしてはならない。私はそういった考えの元、日記を記しています」
 軍人として清廉潔白であれば、嘘偽りを書く行為はしない。寧ろ教官の顔色をうかがい、朱線を避けるために書く日記に何の意味があるのだろう。それが鯉登の自論であった。教官は沈黙したまま、真意を探る視線を投げてくる。鯉登には疾しい気持ちや、偽りの思いはない。姿勢を正し、注がれる視線を静かに受け止めることにした。傍らで直立する小松原は、二人のやりとりを横目で見ている。しばらくの沈黙後、教官は鯉登を諭すような口振りで言う。
「鯉登の美徳は真っ直ぐなところだ。しかし真っ直ぐだからこそ、お前は自分を過信しすぎだ。いつの日か誰かに利用されて足元を掬われぬように、見極める目を身につけなさい」
「はい。肝に銘じます」
 教官は頷いた後、鯉登の肩を叩いた。
 軽く叩かれただけなのに、とても重く感じたことを覚えている。いずれ指揮官になる鯉登が背負う、幾万人もの部下の命だ。己がとなり手足を使う。手足は替えられるが限りある。その意味と意義をよく考えなさいと、幼い頃から父に言われていた。
 帝国陸軍は、巨大な烏合の衆である。様々な思考や思想を持つ集団を動かすために、一つの思想を植える手段として日記教育は理に適っている。机上の理論だけでは、実務は伴わない。学校で学んだ知識と現場での経験が結びついてこそ、真価を発揮する。鯉登は実務をこなしながら、様々な経験を通して学んでいる最中である。教官の考えを理解出来るまで、まだ時間はかかるだろう。
 取り留めない思い出に懐かしさを覚え、小さく笑う。万年筆のペン先は淀みなく、軽やかに紙面の余白を埋めていく。
 今日の朝も寒くて、寝床が恋しかった。敬愛する上官である鶴見のお茶請けを、月島と買い出しに出かけた。宇佐美と尾形は、職務を谷垣と二階堂に押しつけていた。書類業務に飽きたので、庭先で雪だるまを作った――など、本日の出来事を記していく。
 北の大地に、本格的な冬の季節が到来した。夕方から吹き荒ぶ冷たい風は、夜が深くなる頃には雪を伴い始めた。吹雪は木造の合同宿舎へ体当たりを繰り返す。その度に窓は忙しない音を立て、鯉登は小さく眉根を寄せる。明日は早朝から、宿舎の玄関前を雪掻きしなければならない。ずっしり重たい雪の塊が、鯉登を待っているだろう。
 今夜も冷える。一日の疲れを湯浴みで洗い流して身体を温めたのに、すっかり湯冷めしそうだ。鯉登は体温を逃がさないために、たっぷり綿が詰まった厚手の褞袍どてらを羽織り直した。鹿児島生まれの鯉登にとって、関東上空を吹く乾燥した空っ風も、雪国特有の湿った冷気も一向に慣れる気配はない。冬の鹿児島も寒い日はあるし、桜島の頂上は雪化粧も施される。だけど、生まれ故郷の寒さは彼の身体に馴染んでいた。
 父の仕事の関係で函館に居を移し、初めて過ごした冬の光景を今でも覚えている。凍てつく冷気は容赦なく肌を刺し、肺へ息を送り込む度に痛くて仕方なかった。白銀を纏う函館山から海を一望した鯉登は、故郷でひとり眠る兄を想い――そして、笑わなくなった父のことを思い浮かべ、己に対する失望に雁字搦めになっていた。
 海は兄の命を奪った、忌まわしい存在に他ならない。兄の平之丞は海軍少尉で、日清戦役の黄海海戦で帰らぬ人となってしまった。
 北の冬は白と黒ばかりで味気ない。鯉登の眼下に広がる函館湾は大きくうねる度、濃い灰色に波立つ。暖かな日差しをたっぷり受けた紺碧の錦江きんこう湾に慣れ親しんだ彼にとって、北の海は何者をも寄せつけない、どこか陰気で暗い印象を抱かせる。記憶に残る故郷の海と、目の前に広がる北の海はあまりに対照的で、互いに相容れない存在に感じた。どう見方を変えても、同じ海とは思えなかった。
「音之進様」
 温もりを感じる懐かしい声。幼少期の記憶は朧げなのに、女と過ごした思い出は明瞭に覚えている。靄のかかる記憶の中で、彼女の周りだけは温かな光に包まれていた。名前は名字名前という。鯉登にとって名前は、恋慕という感情を初めて教えてくれた人だった。女でありながらも、瞳には強い意志を宿しており――美しい人であった。子供の頃から、高嶺の花でもあった。
 鯉登は万年筆を走らせる手を止めた。名前のことを想う度に、諦めざるを得なかった気持ちが溢れてしまうのだ。彼女への気持ちは未だ鎮火せず、胸の奥深くで燻り続けている。鯉登は文机から、真新しい日記帳を取り出す。名前との思い出や想いを、記してみようと思ったのだ。胸に燻った想いの丈を紙に記せば、整理出来ると聞いたからだ。
 いざ書こうとすると、染み一つない真っ新なページにペン先を走らすことに躊躇してしまう。もう上官から、日記内容を添削されることはない。しかし、己の記憶を回顧して恋慕を記すことは、帝国陸軍の軍人――そして、薩摩隼人としても女々しい行為だと思った。鯉登の身体には薩摩の血が流れ、しっかりと軍人教育が根を張っている。
 それでも名前と過ごした時間は眩しく、かけがえのないものだった。彼女と過ごした十数年間、鯉登は素直になれなかった。言語化した気持ちを日記に記せば、鯉登音之進という一人の人間として、名字名前と向き合えるかもしれない。支離滅裂になろうとも構わない。誰かに読ませる代物ではないのだから、吐露しておきたい。
 まずは、どこから書き始めれば良いか。名前と出会ったのは、いつだったか。鯉登は約二十年分の有象無象した記憶から、彼女の姿を探し出す。耳の奥で、季節外れの音が反響する。万年筆を握り直し、鋭いペン先で日付を書き始めた。

 ※

 一八九一年 七月

 蝉が一週間限りの命を謳歌する。初夏の眩しい光を浴びた桜島の輪郭は、目が冴えるほど青々としていた。音之進は竹刀袋を背負い、海岸線に沿った道を駆け抜けて行く。潮風は彼が身につける白い道着の袖を揺らした。
「今日も鯉登の坊ちゃんは元気や」
「転ばんように気をつけっね」
 道行く人々は口を揃えて、小さな子供に親しみを込めて声をかけた。彼らは音之進を可愛がってくれるのだ。音之進は律儀に、小さく頭を下げた。
 鯉登家は鹿児島で名の知れた家だ。今でこそ軍人一家であるが、家系図を辿ると薩摩藩の郷士だった。父は若い頃、激動の時代に神戸海軍操練所で学び、海軍の一員として御一新で身を立てた傑物である。音之進が生まれるずっと昔の話だ。そして兄も海軍将校になるべく、江田島海軍兵学校で学んでいる。音之進は父と兄を尊敬しており、誇らしさも胸に抱いている。軍人であれば、お国のために命を使う。それが正しい道であり役割だと、常日頃から母に言われているのだ。
 将来の夢は父と兄に恥じない、立派な海軍将校だ。二人の背中は音之進の道標みちしるべであり、目指すべき姿でもある。だから厳しい自顕流の稽古にも堪えられる。その証拠に彼の小さな掌には、いくつもの血豆が出来ている。
 抜けるような青空の下、音之進は息を弾ませながら走った。午前中の稽古を終え、すっかり空腹なのだ。今日の昼食は何だろうと、頭の中は献立ばかり占めている。
 やがて前方に、瓦屋根の木造平屋建てが見えた。玄関まで続く飛び石を踏み、大きな声で帰宅を知らせた。
「ただいま!」
「お帰り、音之進。手と足を洗うて来やんせ」
「はい、母上」
 母から手拭いを受け取り、庭の一角にある井戸へ向かった。ロープを掴み、滑車で釣瓶つるべを引き上げていく。たっぷり水が入った釣瓶は重く、音之進は両腕に力を込めた。ようやく井戸水を汲み終わり、バシャバシャと手と足を洗っていく。汲みたての水は冷んやりしており、火照った身体に気持ち良い。皮膚に纏わりつく汗を流し、さっぱりした。ふう、と一息つくと蝉の鳴き声が一際強く聞こえた。きっと、庭のどこかにいるのだろう。
 昼食を摂るために居間へ行くと、既に食膳が置かれていた。焼き魚、和え物、香の物、麦茶だ。膳の傍らに座る母は、おひつからお椀へ白米をよそってくれた。ふっくら炊き上がったご飯は真っ白に透き通っており、見ているだけで唾液腺が弾けそうだ。ぐう、と空腹を知らせる音が鳴る。
「いただきます」
 音之進は両手を合わせ、いの一番に艶々なご飯が盛られたお椀を手に取る。ひと口ずつ噛む度に、お米の甘さが口の中に広がっていく。箸は止まることはない。空腹は最高の調味料とは、言い当て妙だ。夢中に食事をお腹に収めていると、母は何かを思い出したように言う。
「今日から新しか女中が来たんじゃ。さあ、こちらへいらっしゃい」
「はい」
 鈴を転がしたような声と共に、一人の少女が小歩きで現れた。白い肌に映える、後ろに纏めた艶やかな黒髪。長い睫毛に縁取られた目元。淡く色づく頬。そして筋の通った鼻と、小振りな唇。大人というにはいささかあどけなく、子供と呼ぶには大人びている。音之進より年上で、兄よりいくつか下だろうか。
 少女は音之進の正面に腰を下ろし、三つ指を突いて礼儀正しく挨拶した。
「初めまして。名字名前と申します」
「セツさんの後任よ。お父様の知り合いから、紹介してくいやったの」
 数ヶ月前まで、鯉登家にはセツという女中がいた。しかしセツに良縁話が舞い込み、熊本へ嫁いでしまったのだ。音之進は彼女に懐いていたので、とても寂しがっていた。母は後任で住み込みの女中を探しており、父の伝手を頼って見つけることが出来たのである。
「ほら、音之進も挨拶しやんせ」
「は、初めまして。鯉登……音之進じゃ」
「よろしくお願いしますね」
 ようやく名前は顔を上げた。彼女の涼やかな瞳とかち合い、音之進は反射的に視線を逸らす。思わず見入って、目が離せなくなりそうだったから。どうしてそう思ったのか、理由を考えても思い浮かばない。この頃の音之進は、まだ何も分からない小さな子供なのだ。
 母は名前の緊張を解すため、笑顔で明るい声を出した。
「名前さん、そげん畏まらないでくいやい。仕事は徐々に覚えてもらえれば良か」
「はい。頑張ります」
 名前は安心したのか、緊張した面持ちをいくらか和らげる。
「あら音之進、どげんしたの? いっもやぞろしくらい元気じゃって。名前さんに見惚れてしもたの?」
「ちっ、ちご! そげなわけなか!」
 名前は母子の戯れに小さく笑う。口角に笑みが浮かぶと、大人びた様相から年相応の娘になる。二律背反の境界線を垣間見た音之進は急に恥ずかしくなってしまい、反抗的に振る舞うだけで精一杯だった。いつも母から言葉使けに気をつけやい、と叱られるのに今回は微笑ましそうにこちらを眺めているだけだ。
 胸の鼓動がうるさくて敵わず、誤魔化すため飯を掻っ込む。いまいち飯の味が分からなくて、しかたなく麦茶で流し込んだ。味の分からない食事は後にも先にも、これが最初で最後だった。音之進と名前の出会いは、夏も本番にさしかかる頃であった。

記憶〜マガレイト〜
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