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 鼻腔を掠める甘い桃みたいな香り。酔いに流され、身体に力が入らない。自力で歩こうとすれば、脚は縺れて前につんのめりそうになる。服越しに感じる柔らかさ。私の身体を華奢な女が支えてくれていた。タクシーを降り、幼馴染――名前は私を引き摺るように歩いている。
 酒は飲んでも飲まれるなってゆでしょ。
 名前が言いそうな小言は、いくらでも浮かぶ。酔い潰れた私を、彼女は迎えに来てくれた。その事実は、梃子でも動かせない。後でいくらでも叱られて構わない。せめて今だけは、私のことを見て欲しい。

 ※

 自分で言うのもあれだが、私は何でも器用にこなせる。勉強はもちろん、運動も得意だ。大好きな兄さあには敵わないけれど、尊敬の対象だから悔しい感情はなかった。私は国内有数の鯉登カンパニーの次男坊である。友人にも恵まれ、欲しいものは大体手に入った。それを気に入らない一部の口さがない輩から、やっかみをかけられることもあった。
 生まれながらの勝ち組。努力しなくても、欲しいものが手に入る。剣道も道楽なのだろう。顔の良い男は、女にも困らないんだろうな。
 陰で色々言われてきたが、私はそれらの雑言を聞き流してきた。奴らは知らないのだ。私が子供の頃から、どんな重圧を感じ、どれほど剣道の練習を重ねてきたのか。だから、好き勝手に言えるのだ。本当にくだらない。相手にするだけ無駄だ。好きに言わせておけば良い。我ながら、斜に構えた生意気な子供であった。

 大抵のことは思い通りに出来るのに。未だに一つだけ、どうしてもままならないことがある。
「大きなったら、平之丞お兄ちゃんの嫁御よめじょになる!」
 幼馴染の名前は、口癖のようにそればかり言う。私達は家族同士も仲良かったので、お互いの家を行き来していた。名前は負けん気強く、じゃじゃ馬娘だった。おままごとや絵を描くより、私とチャンバラしたり木登りばかり。外で遊ぶことも多かったので、肌は日に焼け、髪も短くて男の子みたいだった。
 仲良いと色んなことを、言われることも多かった。
「わいら仲良かね。好っなんか!?」
「音君はお友達。あたいは、平之丞お兄ちゃんが好いちょっもん」
「ほんのこてわいは、可愛げがなか。おいだって、もちっと可愛げある女子が良か」
 私は名前に対し、軽口を叩くことも多かった。それに対して彼女は怒るけれど、大喧嘩に発展することはなかった。幼馴染のよしみである。今思えば、私は名前に甘えていたのだろう。
 兄さあは私よりも何でも出来る。優しくて、かっこ良い自慢の兄なのだ。だから名前が兄さあに懐くのも分かる。
「やっせん! 兄さあは、おいのもんじゃ! 名前、兄さあから離れ!」
「叩かんでな!」
 兄さあを取られてしまうのではないか。私は幼心に寂しさを覚え、名前と兄さあの取り合いで喧嘩ばかりしていた。叩いたら、叩き返す。悔しくて再び叩けば、また叩き返される。次第に取っ組み合いに発展し、最終的に二人とも叱られる。その後、泣きべそかいて仲直りする。それが私達の常だった。
 私が小学校に入る前。兄さあは東京の名門大学へ進学と同時に上京した。それ以降、名前は兄さあのことをとやかく言わなくなった。兄さあを取られなくて良かった。子供だった私は、ほっとしたことを覚えている。
 小学校を卒業した私は、中高一貫校へ進学。剣道部に入部して、毎日厳しい練習に励んでいた。名前は地元の公立学校へ通った。お互いに別々の友人も出来て、二人で遊ぶことは減った。

 名前は元気だろうか。ちょうど、剣道の県大会が控えていたので、久しぶりに連絡してみた。良ければ試合を見に来ないか、と。了承の返信が来た。この県大会で良い成績を納めれば、来年は中等部の部長になれるのだ。無事に県大会で優勝を果たし、部活仲間と喜びを分かち合う。労いやお祝いの言葉をくれる人々に囲まれ、私は名前と話せなかった。それからほどなくして、名前から申し出があった。受験勉強で忙しいから遊べない、と。そして互いに、連絡を取ることもなくなった。
 子供の頃は一緒にいても、生活環境が変われば容易く途切れてしまう。このまま私達は、幼馴染として終わるのだろう。気の合う遊び友達がいなくなった、とでも言おうか。一抹の寂しさに似た、何とも表現しにくい感情だけは自覚していた。名前に対して抱く感情の正体。この頃の私は、まだ自覚すらしていない。
 可愛げない。じゃじゃ馬。名前に対する印象が、がらりと変わったのは高校二年の頃だ。
 他校のチア部に可愛い子がいる。甲子園出場を賭けた対戦校のチア部だったらしい。
 友人はそう言った。年頃の男子にとって、女子の話題は何よりも食いつき良い。どんな感じの女子なのか。苗字や連絡先は知っているのか。その他諸々。あれこれ盛り上がるので、結構楽しかったりする。悪ノリの延長線で、今度の文化祭は知り合いの女子を連れて来ることになった。
「鯉登はモテるから、女子の知り合いがずばっいるじゃろ」
 知り合いの女子。剣道一筋で生きてきたので、あいにく女っ気はない。別に女子なんて文化祭に呼ばなくても良いではないか。女の一人や二人で、鯉登の名が廃るわけではない。とは言っても、仮に友人達が女子を連れて来たら。しばらくして、ようやく思い浮かんだのは、音信不通の幼馴染だったのだ。
「……分かった。連れて来よう」
 我ながら、くだらない見栄だと思う。案の定、名前に断られたものの――私の粘り勝ちになった。
 文化祭当日。他の友人達は、女子を連れて来なかった。声をかけたけど、断られたらしい。本当かどうか問い詰めるのは、野暮というものだ。友人は私の隣にいる名前を見て、開口一番にこう言った。
「あ! 噂のチア部の女子!」
「名前が……?」
「名前ちゃんちゅうのか! 鯉登、お前やっぱい抜け目ないな」
「噂はよう分からんけど……こん間、うちん野球部と対戦したよね」
 嬉しそうな友人達の反応に、名前は戸惑いながらも笑う。他校のチア部に可愛い子がいる噂。それは私の幼馴染だったのだ。女っ気ないし、じゃじゃ馬娘の名前が可愛いとは。友人達と楽しそうに談笑する彼女を傍らで眺めてみる。記憶にある彼女と比べて、随分と大人びた気がする。ほんのり甘い香りもした。
 綺麗に伸ばした髪は毛先をワンカールさせ、瞼には肌馴染み良いブラウンカラーのアイシャドウを乗せている。唇も薄いピンク色に染まっていた。

 名前のことなら、何でも知っている。昔から謎の自負はあった。だが、目の前にいる名前はどうだ。もしかしたら、私の思い違いなのではないか。友人達と喋る彼女を見て、もやもやした嫌な感情が生まれた。
 私はこの感覚を知っていた。名前に兄さあが取られてしまう。幼い頃に感じた、あの焦燥感に似ているのだ。名前を友人に会わせなければ良かった。己の幼さに辟易し、自己嫌悪に似た感情を持て余す。名前は私の幼馴染だ。二、三年ぶりに再会したのだから、私とも喋ってくれたって良いだろう。名前に対して、次第に苛立ちを覚えていく。
「名前」
「何? 音君」
「あ、いや……。ないでんなか」
「ねぇ、音君のクラスの出し物見に行きたい」
「良か。こっちだ!」
 昔と変わらず、音君と呼んでくれて嬉しかった。
 名前への気持ちを明確に自覚したのは、文化祭の後だ。友人の口から、名前の話題になった時だった。
「名前ちゃん、彼氏おっとか?」
「鯉登、知っちょっ?」
「名前に彼氏? 知らん」
 彼氏。恋人。言われてみれば、そんなこと一度も考えたことなかった。私だって好きだの何だのという恋愛絡みの話には、多少なりとも興味ある。名前が見ず知らずの男に笑いかけ、手を繋ぎ、あろうことか――。
 無理だ。その先は想像したくなかった。昔から名前の隣にいたのは私だ。口喧嘩はもちろんのこと、取っ組み合いの喧嘩もたくさんした。ギャン泣きされたし、一緒に笑ったことも数え切れない。私は彼女の色んな表情を知っているのだ。私の友人が名前の彼氏だと仮定してみる。申し訳ないけれど、絶対に嫌だった。兄さあを取り合っていた頃とは違う。笑いかけてくれるのも、私の名を呼んでくれるのも名前であって欲しい。

「あれはおいの幼馴染じゃ」
「いや、まあ、知っちょっけど。急にどげんしたんじゃ?」
 私の牽制らしからぬ物言いに、友人は戸惑うだけだった。
 自分の気持ちを自覚したものの、前途多難だと感じた。私は名前に散々、可愛げないだのじゃじゃ馬だの言い続けてきた。思い返してみると、女の子扱いは一度もしたことない。我ながら酷いと思う。
 そもそも兄さあに懐く彼女に対して怒ったのは、自分のものを取られたくなかったから。ずっとそう思っていたのだが、どうも違うらしい。私は兄さあばかり見る名前が嫌だった。兄さあではなく、私を見て欲しかったのだ。友人と楽しく喋る名前に対して苛立ったのも同じだ。友人の口から、彼女の名を聞くのも嫌なのだ。独占欲の範疇を超えていた。ただの幼馴染に対して抱く感情以上のものだ。己の中にある慕情に気づいてしまった。出来れば気づきたくなかった。気持ちを伝えたところで、今更受け入れてくれるとも思えない。
「音君はお友達。あたいは、平之丞お兄ちゃんが好いちょっもん」
 極めつけは、この言葉だ。名前の初恋の人は、私の兄さあなのだ。あんな昔のことなのに、未だに覚えている自分自身に驚いた。私が兄さあを超える男になれば良い話だ。いつもの私なら当然そう考えるし、目標達成に向けてタスクを組み立てる。後はコツコツと処理するだけなのに、こればっかりは話が別なのだ。思い通りに出来ない。名前が絡むと恋慕が邪魔して、ままならないのだ。
 文化祭以降、疎遠だった私達の関係は元に戻りつつある。進展はないまま、残りの高校生活は過ぎ去った。私と名前は兄さあと同じ大学へ進学した。まだ彼女の中には兄さあがいるのだろうか。柄にもなく、そんなことを感じた。
「鯉登、飲みに行こうぜ。お前の奢りで」
「じゃあ、あそこの店にしない? どうせ飲むなら、美味い店でしこたま飲みたいだろ?」
「お、良いな。じゃあ、そこにしようぜ」
「まったく、しょうがないな。この貧乏人どもめ」
 杉元はスポーツ特待生で、尚且つ学部も同じの同級生だ。反りは合わないが、何だかんだ良く連んでいる。隣にいる坊主頭の男は白石だ。杉元の下宿先の隣人。他校の四年生らしいが留年中だという。パチンコで金をすっているので、金欠気味ということしか知らない。

 お目当ての居酒屋に入ると、元気な掛け声と共に歓迎された。まだ開店したばかりのため、店内の席はまばらである。お通しを運んで来た店員へ、とりあえず生中を三つ注文する。大学生になってから、居酒屋に初めて行った。実家での外食は名の知れたレストランばかりだったので、がやがやと騒々しく大衆的な居酒屋は新鮮でもあった。三年もすれば、新鮮味は薄れたのだが。
「好きなものを選べ」
「白石、どれにする? わあ、これ美味しそう」
「本当だ。あ、これもどう?」
 メニュー表を杉元に渡せば、白石と一緒に悩み始める。あれも良い、これも良いと言い合う。注文する気配は一向にない。食べたいもの全部頼めば良いではないか。痺れを切らした私がそう言うと、二人は迷いなく全部注文した。こいつら容赦ないな。
 男三人の胃袋は伊達ではない。スポーツで身体を動かすことも多い私と杉元は、普段から食べる量は普通の比ではないのだ。アルコールは食欲を促進させる。テーブルの上は瞬く間に空の皿とジョッキばかりになった。取り留めない話題は次々と流れ、地元の話から初恋の人の話に移り変わる。
「鯉登ちゃんは? 初恋の人」
「初恋だと?」
「良いだろ。俺も話したんだから、お前も話せよ」
 杉元と白石は、ほろ酔い気分で怠絡みしてくる。にやにや笑っており、何故か腹が立った。白石は追加で焼酎のお湯割りを注文し、私の機嫌を取ろうとする。
「お前、モテそうだもんなあ。恋のお話、聞かせて?」
「鯉登ちゃん、今までたくさんの女の子を泣かせてそう」
「期待を裏切るようで悪いが、私は今まで女と付き合ったことないぞ」
 そう言うと、二人は驚いた。お互いに酔いの回る赤ら顔を見合わせている。間抜け面で面白かった。
「でも好きな人は!? いるんだろ?」
 頭の中で、名前の姿がよぎる。初恋とは、一体いつ頃のことを指すのか。私には分からない。私はいつから、名前のことが好きだったのだろう。普段の私なら誰にも話さないが、今日は言っても良いかと思った。酒のせいで気持ちも緩んでいるのかもしれない。
「まあ、現在進行形で……」
 すると杉元は、とんでもないことを言い出した。
「名前さんだろ? そうだと思った」
「キエッ!? あっ、あれはただの腐れ縁だ!」
「んなわけないだろ。誰がどう見ても、分かりやすいと思うぞ。なあ? 白石」
「他の女の子と比べて、何か違うんだよね」
「ないかちごって、ないがちごっど!?」
「あれ、自覚なし? だって鯉登ちゃん、他の男が名前ちゃんの近くに寄らないように、隣をキープしているでしょ。早く告っちゃえば良いのに」
「……それが出来たら、苦労せん」
 隠していたつもりなのに、割りとショックだった。恋慕の情に気づいた日から、いつの間にか四年近く経ってしまった。早く告白しろと言われても、出来ないものは出来ないのだ。告白出来たら、とっくにしている。

「わいらと違うて、おい達ん積み上げてきた年月が長すぎて、関係が壊れっとが嫌なんじゃ」
 私は不貞腐れた子供みたいに、テーブルへ突臥す。剣道では負けなしだが、名前のことになると負けっぱなしだ。我ながら情けない。何故、こうも思い通りにいかないのか。
「いや、でも――。やっぱ何でもねぇよ」
「おい、今何かゆちょっな!? 気になっじゃろう!」
「だから、何でもねぇって!」
「ねぇねぇ、名前ちゃんとの馴れ初めは!?」
 酔った者同士で、取っ組み合いが始まりかける。慌てふためく白石の制止のおかげで、店内の平穏は何とか保たれた。
「な、馴れ初めか……えっと、」
 結局私は、洗いざらい全部話してしまった。幼い頃から始まり、中高を経て今に至るまで。名前とのエピソードを話す度に、杉元と白石は目を輝かせている。口元に手を翳し、わぁっと歓声すら上げる始末だ。ときめきを隠せていない。男がそんな仕草をしても、ちっとも可愛くないぞ。
 二人からもっと話を強請られ、つい良い気になってしまう。酒を煽る度に身体は熱くなり、頭もぼんやりしてきた。アルコールのせいなのか。名前に対する想いのせいなのか。もはや私には判別出来なかった。私は次々に運ばれる焼酎へ手を伸ばし、水のように飲み続けた。
 しくじった。ぐらぐらする頭の中で、そう思った。うるさい。喧しい。活気溢れる店内の雑音ですら、とても不快に感じる。前に座る杉元と白石は何やら声をかけてくるが、口をぱくぱく動かすだけ。何を言っているのか聞こえなかった。どうやら私は、酒に酔っ払ってしまったらしい。普段なら、まだまだ飲めるのに。好いた女を酒の肴にした罰が当たったのだろうか。
「うう、気持ち悪か……」
 ずきずきと頭の芯が痛む。不愉快なほどの吐き気に苛まれる。胃から内容物が迫り上がるのに、どうしても吐き出せない。
「大丈夫か? とりあえず水飲め」
 火照る頬に、冷たい感触。差し出されたそれを受け取りたくても覚束ない。全身ばらばらになった感覚だ。
「名前に会いたい……」
 溜息と共に、呆れた声が聞こえた。
「駄目だこれ……」
「飲み過ぎだって止めたのに」
「きさんらが……飲ませたでじゃろ……」
 駄目だ。抗議したくとも、吐き気で力は出ない。帰るのも億劫だ。傍らで杉元達は何やら話し込んでいるが、どうでも良い。とにかく、気持ち悪さを何とかしたい。私は目を瞑り、吐き気が治るまで耐えることにした。
「おい、鯉登。名前さん来たぞ。起きろ」
 どれくらい経ったのか分からない。名前、という単語に釣られて目を開ける。そこには、呆れ顔の幼馴染がいた。もしかしたら、怒っているかもしれない。でも、怒った顔もむぜ。酒に酔った姿は、名前に見られたくなかった。酔いに溺れた思考は、右往左往する。
「何でこんな飲ませたの?」
「俺らも止めたんだよ。だけど、聞く耳もたなくて……」
 嘘をつくな。次から次へと、酒を頼んだのはお前らだろう。それを全部飲んだのは私だが。
「鯉登ちゃんの奢りだから、つい飲みすぎちゃった」
「私は音君の保護者じゃないんだけど」
 もしかして、杉元か白石が彼女を呼び出したのだろうか。何故、名前の連絡先を知っているのだ。そもそも名前だって、男からの呼び出しに軽々しく来るとは。諸々問い詰めたい気持ちはあれど、身体はそうもいかない。
「お客様。タクシー来ましたけど……」
「鯉登。立てるか?」
 杉元と白石は、へべれけの私を立ち上がらせる。左右から支えられながら、一歩ずつ足を進めると、耳元で杉元が小さく言う。
「名前さんのこと、後は自分で何とかしろよ」
「……何の話だ?」
「俺達はここまでだからな」
 おい、どういう意味だ。問い詰める間もなく、私はタクシーに押し込まれてしまう。そしてタクシーは静かに発車し、喧騒の街中へと進んだ。杉元の意味深な言葉。その解答は聞けぬまま。

 車内は深夜ラジオの音声のみ。人気お笑い芸人がパーソナリティを勤めている。名前は無言で、車窓から夜の街を眺めている。どうやら、怒ってはいないみたいだ。杉元の言葉を考える。駄目だ。頭が痛くて、考えたくない。幹線道路は渋滞しておらず、帰路は順調だ。都内の道路は狭いため、タクシーは小回りしながら、坂を登ったり降りたりする。酒で酔う身体に、僅かな車体の揺れは堪えた。
「名前、気分悪か……」
「えっ、大丈夫!? 家まで我慢出来る?」
「横になれば、少しマシになっかもしれん。良かか?」
 どうして、杉元達の連絡先を知っていたのか。ちょっと――否、だいぶ妬けたので、名前に強請る。酒に酔って、気分悪いのも本当だ。
「う、うん……。良かよ」
 私は上体だけ横になり、幼馴染の膝に頭を預ける。所在なさげな名前の手首を掴む。意外と細くて、内心どきっとした。頭を撫でて欲しくて、掴んだ手首を己の頭へ導く。戸惑いがちな視線と合う。名前は辿々しい手つきで、私の髪を撫でてくれた。
 吐き気を紛らわすため、名前の毛先に触れる。彼女が髪を伸ばし始めたのは、いつ頃だったか。確か、疎遠になる少し前だったと思う。子供の頃は肩より短かったのに、今では面影すら残っていない。
「音君に似合うか聞いたら、動きづらそうて答えたことを覚えちょっ?」
「……そげな昔のこと、覚えちょらん」
 嘘だ。本当は覚えている。いつも髪が短かったので、髪を伸ばす名前の姿は新鮮に映ったから。似合う、と言って欲しいのは分かったけど、素直に言いたくなかったのだ。じゃじゃ馬娘へ素直に気持ちを伝えれば、負けだと思ったからだ。当時の私は、照れ臭かったのかもしれない。今更、そんなこと言えやしない。
「今日ね、バイト先に平之丞さんが来たの。元気そうじゃったよ」
 未だ名前の中に、兄さあはいるのか。きっと私が入る余地はないのだろう。虚しいではないか。叶わない恋なんて、いっそ終わらせた方が良いかもしれない。さすがの私も、珍しく弱気になってしまった。
「……ふぅん。そうか」
 今だけは、兄さあの話は聞きたくない。私は寝たふりをすることにした。ふて寝だ。我ながら子供だと思う。小さく笑う名前の声が聞こえた。そして頬に指先が掠め、ひと撫される。私の心臓は驚き、大きく跳ね上がった。何の前触れもなかったので、何をされたのか分からなかった。撫でられた箇所はじわじわと熱を持ち、指先の感触は生々しいほど肌に残っている。

 どうして名前は、今みたいな行動に出たのか。何の意図があって、私に触れたのだろう。期待しても良いのか駄目なのか、分からないだろうが。未だうるさく高鳴る心臓の音は、外に聞こえてしまいそうだ。私の気持ちを知らず、好き勝手に弄びおって。寝たふりなんてしなければ、問い詰めることも出来るのに。数分前の己に対して後悔する。名前のことが何も分からない。一人で悶々としていると、運転手の声がした。
「お客さん、着きましたよ」
「は、はいっ!?]」
 名前は慌てて、私のことを叩き起こす。今まで寝てましたと装いながら、私は起き上がる。お会計するから降りて、と言われたので大人しく従うことにした。ふらつく足でタクシーを降りると、目の前には私の自宅が高く聳えていた。一歩踏み出すも、ふらりとよろけてしまう。横になったおかげで気持ち悪さは消えたものの、まだ体内にアルコールは残っているようだ。
「よいしょ……。もう少しだから、ちゃんと歩いて」
「うう……。す、すまん」
 甘い桃に似た香り。香水とは違う、女性特有の甘い匂い。私を支えるのも、きついだろうに。
「反省しっちょなら、次は飲みすぎん欲しか」
 いつもは適当に聞き流す小言ですら、今の私にとってダメージは大きい。
 幼馴のよしみで、何でも伝わると思っていた。あの頃から私は、何も変わっていない。今も幼馴染の立場に胡座をかき、名前に甘えているのだ。ようやく私は、杉元の真意に気づく。余計なお世話である。
「情けんなか……」
 萎れる私の様子に、名前はまん丸の目を見張る。会話は噛み合っているようで、実は全く噛み合っていないのだ。彼女はそのことに、気づいていない。私は幼馴染の名を呼んだ。
「なあ、名前……」
「なあに? 音君」
 いつもと変わらず、名前は返事してくれる。大人になっても、昔から変わらない部分だ。その声で私の名を呼んでくれると、心臓は切なく疼くのだ。私は今まで、欲しいものは手に入れてきた。努力した甲斐あって、だいたいのことは思い通りに生きてこれたのだ。だけど一つだけ、ままならない人がいる。
 彼女だけは、例外だった。名前へ想いを伝えることは、勉強で学年一位を取るのも、剣道の全国大会で優勝するよりも難しいのだ。悔しいけれど、本当のことだから仕方ない。
「好いちょっ……」
 本当に情けない。深酒して醜態を晒した挙句、酒の力を借りなければ好いた女へ気持ちを伝えることも出来ないとは。

ままならない人
- ナノ -