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 鼻を掠めるアルコールの匂い。夢と現うつつの間で凭れかかる身体は重く、服越しから、僅かな体温を感じ取る。半身を支え、やっとの思いでタクシーを降りた。私は重たい身体を引き摺って、マンション前まで歩く。
 酒は飲んでも飲まれるな。
 珍しくも酔っ払った幼馴染へ、そう言ってやりたかった。けれども、そんなことどうだって良い。形の良い唇から紡がれた言葉に、いとも容易く身体は固まってしまう。
 幼馴染――音君の顔を、見ることは出来なかった。私は一滴も酒を飲んでないのに。酔いも回り、気怠げな音君の醸す色香に呑まれてしまいそうだった。

 ※

「大きなったら、平之丞お兄ちゃんの嫁御よめじょになる!」
「やっせん! 兄さあは、おいのもんじゃ!」
 私と音君は幼馴染だ。家族同士も仲良かったので、お互いの家を行き来していた。おままごとより木登り。お絵描きより魚釣り。お転婆の私は、わんぱく盛りの音君とチャンバラばかりした。私達は比較的、仲良かったと思う。平之丞さんが絡んでいない場合に限るが。
 平之丞さんは、初恋の人だった。かっこ良く、そして頭も良い。優しい近所のお兄さん。分け隔てなく、よく遊んでくれたのを覚えている。
「平之丞お兄ちゃんは、あたいのこと好き?」
「おお、好いちょっぞ。大きっなったや、楽しみにしちょっじゃ」
「嫌や! 名前、兄さあから離れ!」
「叩かんでな!」
「二人とも、仲良うせんなやっせんぞ」
 私達は負けん気が強い子供だったので、取っ組み合いの喧嘩ばかり。叩いたり、叩かれたり。泣かしたり、泣かされたり。平之丞さんを、困らせることも多かった。
 初恋は叶わない。それを知ったのは、小学校に入る前だったと思う。平之丞さんは東京の名門大学へ進学した、とユキさんに教えもらった。東京と鹿児島は遠い。頻繁に会えないのか。幼心に刻まれた軽い喪失感は、瘡蓋かさぶたとなり――やがて跡形もなく癒えた。当時の私は、身近にいるお兄さんに憧れていたのかもしれない。

 小学校を卒業し、私は公立学校へ進んだ。外を走り回るより、同性と遊ぶ方が楽しかった。音君は、地元で有名な中高一貫校に進学した。音君への明確な恋心に気づいたのは、中学二年の時だ。剣道の試合を見に行き、音君へ黄色い声を放つ女の子達を目にした時だ。
「鯉登君、かっこ良かね」
「好っな人はいるのかな?」
「もう許嫁がおったりして!」
「そんたまだ早なか?」
 人の目を惹く容姿の彼は、国内屈指の鯉登カンパニーの次男坊。既に約束された将来が待っている。大人になった音君の隣には、綺麗な女性が立っているのだろう。そこは私の場所ではない。想像してみたら、すごく嫌だと思った。子供の頃から音君の隣にいるのは私なのに。自分の中にある恋心を自覚したと同時に失恋した。
「ほんのこて名前は、勝ち気やし可愛げがなか」
「もっと可愛げあっ女子の方が良か」
 音君にとって、私はそう見えるらしい。恋愛対象外であることは明らかだった。幼馴染だからこそ、妙に取り繕う必要もない。子供の頃から軽口を叩き合った結果である。音君にとって私は幼馴染。それ以上でも、以下でもないのだ。
「受験勉強で忙しいし、もう遊びに行けん。ごめんね」
「そうじゃな……。すまん」
 今更素直になれなかったし、隣で想いを持て余し続けるのも辛かった。だから体ていの良い理由で、音君からの誘いを断り距離を置こうと決めたのだ。本当に高校受験で忙しかったし、高校に入ってからチア部での活動に精を出した。音君とは会うことはおろか、連絡を取ることもなくなった。
 そんな矢先のこと。音君から文化祭に誘われた。
「頼む! 幼馴染んよしみじゃち思うてくれ。久しぶりにわいにも会おごたっし」
「……分かった。行くよ」
 初めは断ったものの、押しに負けて行くことにした。浅はかだと思うけど、嬉しかったのも事実だ。何着て行こう。買ったばかりのモノトーンのワンピースと、小さめのショルダーバッグにしようか。髪型とメイクはどうしよう。既に頭の中では、当日の服装やメイクについて考えていた。
 三年ぶりに会った音君は背もぐんと伸び、凛々しくて華のある男の子になっていた。音君の友人達と、楽しく談笑しながら出し物を見て回って行く。擦れ違う女の子達は音君へ熱い視線を送り、方々から黄色い声も漏れ聞こえる。私は居心地悪さを感じているのに、当の本人はどこ吹く風状態だ。
「わっぜ視線を感じる……」
「人に見らるったぁ慣れちょっ。気にすっな」
 こともなげに言い放つ言葉に、私は困惑してしまう。言われてみれば音君は、昔から良い意味で目立っていた。
「そげんところ、変わっちょらんね」
「ない、笑うちょっど? おかしなこっでもゆたか?」
「ううん。ないでんなか」
 くすくす笑う私に、音君は首を傾げるだけだった。文化祭は楽しかった。音君の友達とも仲良くなれたし、何だかんだ行って良かったなと思った。やっぱり、音君のことが好きだ。目を背けていた気持ちを、自覚せざるを得なかった。軽口は叩けるのに、素直に想いを伝えることは出来なかった。
 私は平之丞さんと同じ大学に進学出来た。あろうことか音君と同じ進学先だった。彼はスポーツ特待生枠をもぎ取っていたのだ。未だに想いは伝えてないけれど、さすがにここまで来ると今のままの関係でも良い気もする。妙に避けたり、距離を置くことはやめた。

 進学と同時に上京し、私は今日も遅くまでバイトに勤しむ。帰ったら一杯やろうかな。そんなことを考えつつ帰り支度をしていると、同じ大学の杉元君から着信があったのだ。珍しくも音君は酔い潰れたらしい。
『鯉登が酔っ払っちまってるんだ。名前さんが迎えに来てくれるまで、帰らないって一点張りでさ。そろそろ店も閉まるし……今から来れる?』
「ごめんね、音君が迷惑かけちゃって。今から向かう。お店の場所は?」
 小さい子供じゃないのだから、タクシーに押し込めて帰らせれば良いのだ。そもそも、人様に迷惑かけるまで飲むなんて。世話が焼ける。心の中でぶつぶつ呟くなら、杉元君の頼みを拒否すれば良いのに。何故か私の身体は、酔い潰れる音君の元へ向かっている。これが惚れた弱味か。
 都内の繁華街は、終電間近なのに多くの人で賑わっている。そう言えば、今日は金曜日だ。週五日間の疲れを癒すべく、サラリーマンやOL達は酒を楽しんでいる。街全体が、ほど良い酩酊感に包まれていた。駅へ向かう人集りに逆らい、指定されたお店へ向かう。店員に待ち合わせと伝え、中を見渡せば杉元君と白石さんを見つけた。
 杉元君は音君と同じ学部の友人だ。白石さんは杉元君の下宿先の隣人だという。白石さんとは直接的な関わりはないが、音君達の飲み仲間なので必然的に顔見知りになっていた。テーブルには空の皿と共に、数本の徳利も転がっている。しこたま飲んだのだろう。
 白石さんは、私へ手を振った。
「あ! 名前ちゃん、こっちこっち!」
「おーい、鯉登。名前さん来たぞ。起きろ」
「……ん、名前だ」
 小麦色の肌に差す、ほんのりした赤味。切長の目はアルコールに酔い、とろんと微睡んでいた。だけど目は据わっており、だいぶ酔いが回っている。音君は酒豪だ。どんなに飲んでも、普段は顔色を変えないのに。酒に酔う彼の姿は初めて目にする。私は大きな溜息を吐き出した。
「鯉登ちゃんの奢りだから、つい飲みすぎちゃった」
「何でこんな飲ませたの?」
「俺らも止めたんだよ。だけど、聞く耳もたなくて……」
 私の質問に杉元君は、呆れ気味に答えてくれた。再び音君は、テーブルに突臥してしまう。ここで寝られると困る。
「私は音君の保護者じゃないんだけど」
「そんな冷たいこと言わないでよ。タクシー呼んでおいたから!」
 白石さんも、だいぶ出来上がっていた。
「お客様。タクシー来ましたけど……」
「お、ちょうど良い。俺らも手伝うから。おい、白石。お前も手伝えよ」
「えぇ……」
「ありがとう」
「鯉登。立てるか?」
 さすがに私一人で、音君を担ぐのは難しい。杉元君達にも手伝ってもらう。どうにかタクシーに、音君を押し込むことが出来た。
「これ、タクシー代。足りないかもしれないけど」
「えっ、良いよ! 大丈夫。ありがとう」
 杉元君から渡されたタクシー代を返す。また学校でね、と挨拶した。運転手に音君のマンションを伝え、軽いエンジン音と共にタクシーは発車した。車窓から流れ去る、煌びやかなネオン。深夜にも関わらず、まるで昼間のように明るい。目を凝らさなければ、天辺に陣取る月に気づけない。

 都内の住宅街は、意外と坂道が多い。道幅は狭いものの距離は短いため、勾配の差を感じるのは一瞬である。だけど、酔いが回っている場合は別だ。案の定、隣から弱々しい声で名を呼ばれた。
「名前、気分悪か……」
「えっ、大丈夫!? 家まで我慢出来る?」
「横になれば、少しマシになっかもしれん。良かか?」
「う、うん……。良かよ」
 どうやら、僅かな坂道の高低差と車体の揺れに、気分悪くなってしまったらしい。既に後部座席は、十分に横になれるスペースもない。膝枕してあげる他なかった。
 音君は力なく上体を横にすると、膝に重みを感じた。私は両手を空に彷徨わせる。すると音君は、行き場を失った私の手を掴む。さらりと柔らかな髪の感触を覚える。無言でこちらを見上げる彼と目が合った。どきっと心臓は高鳴った。
 頭を撫でろ、とでも言いたいのか。私は辿々しい手つきで、彼の髪を撫でていく。すると音君は、私の毛先を指で弄り始めた。くるくると指に髪を巻きつけている。
「何しちょっと?」
「……ないごて髪を伸ばしたんじゃ? 小せ頃は短かった」
「別に大した理由はなか。何となく、伸ばしてみようかなって思っただけ」
 小学生までは音君と、たくさん遊んだ。家も近かったので、互いの家に行き来したものだ。髪の毛は動きやすさ重視で短かった。髪を伸ばし始めたのは、中学生になってから。正確に言えば、音君への恋心を自覚してからだ。
「音君に似合うか聞いたら、動きづらそうて答えたことを覚えちょっ?」
「……そげな昔のこと、覚えちょらん」
「そうゆと思った」
 やっぱり。音君にとって、しょせん私はその程度なのだ。憶えているのは私だけ。心の柔らかい部分を、鋭利な刃物で抉られた感覚。六年ほど片想いを続けるなんて、我ながら諦めが悪いと思う。本当に馬鹿みたい。
 沈みかけた気持ちを誤魔化すため、話題を変えることにした。
「今日ね、バイト先に平之丞さんが来たの。元気そうじゃったよ」
 かっこ良かった、と言う言葉は飲み込んだ。音君は子供の頃から、私が平之丞さんを褒めると機嫌を悪くするのだ。
「……ふぅん。そうか」
 一呼吸分の沈黙の後、蚊の鳴くような声だった。音君は興味なさげに言う。平之丞さんが絡むと、相変わらずのようだ。恐らく大好きな兄を、私に取られたくないのだろう。

 私のバイト先は都内にある、有名なホテルだ。フロント業務中、スーツを着こなす平之丞さんに声をかけられたのだ。今日はホテルの催事場で、第七証券の総会が行われていた。第七証券は、鯉登カンパニーのグループ会社なのである。
「気分はどう? 少しマシになった?」
 返事のかわりに、すうすうと寝息が聞こえた。精悍な顔立ちなのに、寝顔は意外とあどけない。いつもは凛々しい眉毛も、今は穏やかだ。長い睫毛と筋の通る鼻梁。昔から目立つ容貌の持ち主は、私の膝の上で無防備に眠っている。
「ふふ、子供みたい……」
 幼い頃に音君の家へ泊まり、よく一緒の布団で寝たことを思い出す。あれから十年以上経ち、寝顔を見るのも久しぶりだった。すやすやと眠る幼馴染は、私の気持ちを知る由もない。腹立たしいような、切ないような複雑な気持ちになる。藤色がかる黒髪を撫でる手を止める。そのまま、小麦色の頬をひと撫でする。
 滑らかな肌触りで羨ましい。指先から伝わる体温。アルコールのせいで、微かな熱を帯びていた。疚しいような気がして、何故かどきどきする。音君にばれたら、どう言い訳しよう。
「お客さん、着きましたよ」
「は、はいっ!?」
 運転手の間伸びする声で、一気に現実へ引き戻される。己の行動に、恥ずかしくなった。あたふたしながら外をうかがえば、一際高いタワーマンションが見える。音君の住まいだ。起こすのは忍びないけれど致し方ない。
「音君、ほら起きて。家に着いたよ」
「ん、何だ……名前。着いたんか……?」
「支払うから、降りる支度して」
 眠たげに目を擦る音君は、まるで小さな子供だ。ぼんやりする音君の傍らで、私はICカードで料金を支払った。タクシーから降りた音君は、ふらりとよろけてしまう。まだ酔いは抜けていないらしい。千鳥脚気味の音君は危なっかしい。
「よいしょ……。もう少しだから、ちゃんと歩いて」
「うう……。す、すまん」
 肩を支えるにしても、成人男性を支えるのはさすがにきつい。マンションのエントランスは目の前なのに遠く感じてしまう。
「反省しっちょなら、次は飲みすぎん欲しか」
「情けんなか……」
 いつもは売り言葉に買い言葉だが、珍しいことに音君は萎れている。ちょっと言いすぎたかもしれない。相手は酔っ払いだ。どうも調子が狂う。
「ごめん。ちゃんと反省しちょっなら良か」
「なあ、名前……」
「なあに? 音君」
 急に名を呼ばれたので返事する。音君の肩を支えているので、必然的に距離は近い。目尻は赤みを帯び、瞳は酔いのせいで潤んでいた。形良い唇から紡がれる言葉に、私は息をするのも忘れてしまった。

隣にいる人
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