母は気の抜けたような音を出した。その音は声にならぬままずっと続いて、体中の生気を凡て放出してしまった。私自身何も言葉を発することが出来ず、ただ茫然とすることしか出来なかった。

「それじゃあ――誘拐犯は〈京子〉で、殺人犯が〈母〉、そして告発者が涼子――そしてその三者は同一人だったと、そういうことになるのか!」

一人の人間の精神に棲まう常世の住人による悍ましい犯行。中禅寺の紐解く作業は終盤に差し掛かっている。

「涼子さんは〈京子〉として子供を攫ったことはぼんやりとは解っている。ただ自分がそんなことをする理由や、どうやってしたのかは能く解らない。
夢の中の出来事のように曖昧模糊としている。そして、その子がその後どうなったのかということに就いては、全く解らない。だからたぶん奥様、あなたが何らかの処置を施したのかもしれぬと考えていた節がある。更に〈京子〉に至っては、自分の子を始末したのは〈母〉だと思っていたに違いない。つまりあなたが殺したと思っていたのだ。
凡てを知っていたのは、〈母〉の状態のときの彼女だけです」

〈母〉は凡てを承知のうえで行動していたことになる。

「殺した子供はどうなったんだ」

監察医の里村が牧朗の遺体に少量のホルマリンが振り掛けられていたと言っていた。つまり――。

「真逆ホルマリン漬けにしていると?」

木場と私の質問に中禅寺は頷く。

「勿論ホルマリンに漬けていずれどこかに陳列してあるでしょうね。それは〈京子〉に対する当然の罰ですから」

悍ましくも哀しい真実に私は牧朗の死体を目撃したあの日の涼子の行動が漸く解った。

あのときの涼子は〈母〉だったのだ!

「その――ホルマリンに漬けた子供達は、じゃあ今でもあの部屋にいるんだね」

関口が唐突に発言したので、私を含めて部屋にいる全員が彼に視線を向けた。
木場が問う。

「あの部屋ってのは、書庫の隣の――あの部屋のことか?」
「たぶん関口君のいう通りだろう。彼女が用具置き場に立て籠もったのは菅野氏が失踪した後のことだ。だからあそこの鍵は涼子――いや〈京子〉が持っていた筈だ。あの部屋こそ彼女の秘密の小箱だ。あの部屋から凡てが始まったんだ。だからあそこに――」

敦子がいきなり叫んだ。

「そんな、そんなの人間のすることじゃないわ!涼子さんがたとえ極限状態で〈母〉という人格を得たとして、そんな非人道的な行いを何の躊躇いもなく出来るとは思えない!そんなこと出来る母親なんていない!」
「いるじゃないか」

榎木津がいった。

「その人だってしたことだ。その人の母親だってしたんだろう」
「状況が――、状況が違うじゃないですか」

敦子は涙声でそういった。
兄は妹が懸命に護ろうとしたものを否定する。

「違わないよ。僕等の常識で判断すればそれは違うんだろうが、三つの人格の中で僕等の常識が通用するのは涼子さんだけなんだ。〈京子〉も〈母〉もこの世の住人ではないんだ。謂わば人を超えた処にいる彼岸の住人なのだ。道徳だの倫理だの、況してや法律だのが通用する筈がない。彼女たちの行動原理は――彼女達にしか理解出来ないんだ」

兄の言葉に、妹は宝物をなくした幼子のような顔で兄を見た。
それでも中禅寺は言葉を続ける。

「〈京子〉が子供を攫い〈母〉が殺す。この不幸な人格交換は、しかし度度起こるものではなかった。出産後の不安定な状態で二度起こっただけだった。本当ならそれで終わりの筈だった。その証拠に以来十年近く涼子さんは涼子さんのままだった。
ただ生理不順だった彼女は、稀に月経を見ると意識がなくなったと証言している。しかし〈京子〉の出現までには至らなかった。だが一昨年、不幸にも――彼がこの家に来てしまった」

藤野牧朗の再登場である。涼子は何も覚えていなかった。

〈京子〉が牧朗と恋に堕ちていた頃、〈京子〉はまだ下位の人格ではなかったから、涼子に彼との記憶はない筈なのだ。
しかし身体は覚えていた。〈京子〉も涼子も身体は――細胞のひと粒に至るまで完全に同じ――ひとつだ。
牧朗の柔和な目元、形の良い唇から紡がれる心地良い声、優しい匂い――髪の毛一本に至るまで――涼子の身体は彼を記憶している。

「だから、身体が反応した。ホルモンの分泌がバランスを崩し、生理が始まる。そして長い間眠っていた〈京子〉が目覚めたのだ。十年振りにあの小部屋の扉は開き、子供は攫われた。そして十年前と同じように――」

赤ん坊の誘拐と殺害はセットだったのだ。
中禅寺の言葉を受けて木場は凶暴な顔になった。

「それじゃあ、事後処理をしたのは殺人犯である〈母〉の状態の涼子自身なのか!」
「そうでしょうね。今やダチュラの処方を知っているのは〈京子〉か〈京子〉の記憶も持っている上位自我〈母〉だけなのです。〈母〉は子供を殺し、ホルマリンに漬けて、それから証拠を隠滅し事後処理をする。
つまり攫った子供を産んだ女性にダチュラを投与して譫妄状態に仕立てて、事件を闇から闇に葬り去る工作を施す。それは久遠寺の母ならば当然すべきことだからです。当然その後のことは奥様、あなたが引き続きやってくれるであろうことも、彼女にはお見通しだった筈だ。事実あなたはそうしたではありませんか。久遠寺の体面を保つために」
「私は……私は自分の意志で行動しているつもりでいて――実は単に、久遠寺という呪いに操られていただけ、だったのですねぇ――」

遠い異国の話でもするように、母は小声で呟いた。
目を閉じ、額に手を当てたまま、木場が沈痛な面持ちでいった。

「牧朗の婿入りと赤ん坊の失踪が同時に起きたのは矢っ張り偶然じゃあなかった訳だ。しかし、じゃあ戸田澄江は何を知っていたんだ?あの女は無関係なのか?」
「これも想像なのだが、彼女は産婦にダチュラを投与している涼子さんを目撃したのではないだろうか。だが戸田澄江は事件そのものよりも涼子さんの持っているダチュラの方に興味を持ったのではないか。そこで、こう持ちかけた。秘密を守る代わりにその処方を教えてくれ、とね。そして取り引きは成立したんだ」
「薬目当て――か」
「ダチュラ――朝鮮朝顔はそれ程珍しい植物ではない。野生のものもあるし栽培だってそう難しくない。結局彼女は質の悪い薬物依存患者になった」
「そして死んだ――訳か」
「それが真相だろう」
外はただ雨だった。陽はもう傾き、夕暮れが迫る時分である。

「嬰児の誘拐、そして殺害は、牧朗の婿入りした昭和二十五年の夏から暮れにかけて三度行われた。そして四度目に〈京子〉が目を醒ましたのは、翌年の一月八日の午後だった」
「牧朗の死んだ日――か」
「そう。しかし一月八日といえば松が取れてすぐだ。たぶんそのとき、この病院には赤ん坊がいなかったんだ。違いますか?」
「ああ。それでなくとも患者は少なかったから。おらんかったろう」

父は自嘲を交えて中禅寺の質問に答えた。恐るべき真相答えを聞くことを覚悟した父は、もう動揺もしていなかった。

「なら〈京子〉は攫いたくとも攫えなかった訳だ。そこで已むを得ずあの部屋に行った。だから――梗子さんと牧朗君が揉めているそのとき、涼子さんはあそこにいたのだ。
つまり、鍵は開いていた。外から出入りが出来たのだ。あの部屋は密室でも何でもなかったのだ。そして……惨劇が起きた。刺された牧朗が書庫に逃げ込んで来るのを、涼子さん――いや〈京子〉は見ていたんだ。尋常ではない様子に扉を開けた〈京子〉の目の前には、血だらけの牧朗がいた。
〈京子〉にとって牧朗は攫った凡ての子供の父親であり、最愛の夫でもある。その牧朗が腹を刺されて逃げ込んで来た。彼女は助けようと駆け寄ったのだろう。
一方牧朗は、薄れ行く意識の中で何を見たのか。その日、涼子さんは和服・・を着ていた。牧朗が大事に持っていた母親の写真と、その日の彼女はよく似ていたのだ。死に至る混濁した意識の中で、牧朗はそこに母を見てしまった。そしていった」

――母様。

それが引鉄ひきがねになり、涼子は〈京子〉から〈母〉に変わった。
そして〈母〉の目を通して映った牧朗は、ただの巨大な嬰児にしか過ぎなかった。

「だからいつものように石で打ち殺して、ホルマリンを振り掛けたのだ」

私は何度目か解らないが、声にならない悲鳴を上げた。

「そして赤ん坊を殺した後、次に〈母〉は何をするべきか。勿論そんな不埒な行いをした娘に反省を促さなければならない。だから〈母〉は大きな子供を産んだ娘――梗子さんに奥様がしたのと同じお仕置きをしようとしたのです。そして一月九日。
彼女――なまえさんが来た。そうですね?」

中禅寺が私へ確かめるように質問した。
空白の二日間の記憶も凡て取り戻した私はおもむろに口を開いた。

「……はい。新年の挨拶をしに実家に行った私は、涼子姉様から梗子姉様を書庫室へ移すから手伝って欲しいと言われました。訳も分からず書庫室まで着いて行くと、大量の血を流して倒れている牧朗さんを見て私は慌てました。背中を丸めて横たわり、まるで大きな胎児のようでした。既視感がありましたが、いつ、どこで目撃したのか思い出そうとすると頭痛というか気分が悪くなって思い出せませんでした――」

――涼子、お姉様……大変です、牧朗さんが、牧朗さんが……!
――さあ、名前さん。梗子さんのベッドをここに運ぶよう手伝って下さい。
――何を、言っているの、お姉様!?牧朗さんが血を流して倒れているんですよ、早く警察を呼ばなくては!
――そんなものなど不要ですわ。これ・・は梗子さんへの罰なのです。悪いことをしたらお仕置きをしないといけませんから。
――梗子姉様への罰?お仕置き?一体何の話ですか?涼子お姉様の言っていることが解らないわ!

「何があったのか涼子姉様へ問い質しても微笑みながら梗子への罰だと一点張りで、私には意味が解らなかった。その笑みは、子供の頃からずっと夢だと思っていたあの出来事――姉様の笑みはあのときと同じだった。その笑みを見て、漸くあの夢が現実にあったことだったと分かったんです。会話が噛み合わなくて、私は訳が分からなくなって――私は初めて姉様と言い争いました」

――埒が明かないわ!兎に角、私は警察に連絡して来ます!
――警察は不要です!

「私が部屋から出ようと踵を返したとき、物凄い力で腕を掴まれました。私は振り払えなくて、そのまま壁に頭を打ちつけました」

私は隣の母に目を向けた。
母は、既に生気を失ってしまっている。

「お母様と同じことを、姉様は私にいったのです」

――貴方も悪い子だから、お仕置きが必要ね。今見たことは忘れなさい。誰にも言ってはなりません。

「十年前の記憶が頭に流れた一瞬の隙を突いて腕に痛みが走りました。恐らく注射器で何やら薬を盛られたんだと思います。その後は永遠と落ち続けるのか昇り続けるのか判らない心地好い浮遊感が続きました」
「その薬はダチュラだろう。涼子さんからダチュラを盛られたなまえさんは、その後意識が戻ったのは二日後の十一日だった訳だ」
「はい。時蔵さんと富子さんがベッドを寝室から書庫室へ移していた様子を、私は薬を盛られてぼんやりしながら見ていました。時蔵さんか富子さんのどちらかに付き添われて自宅に戻り、そのまま二日間は眠っていたんです。
意識が戻った私は九日のことは疎か十年前のことも丸っきり憶えていませんでした。昨日は自宅で原稿執筆に疲れてに眠ってしまったんだと――八日の記憶と混濁したまま私は実家へ二度目の来訪をしました。時蔵さんと富子さんは私を見て怖がっていました。
二日前に訪れたのに、何事もなかったかのような私が二人には異常に映ったのでしょう。そのときに涼子姉様から牧朗さんが行方不明・・・・になったと聞いて――」
「それでお前さんは一年半の間、牧朗が行方不明・・・・の世界――仮想現実の中で過ごして来たから死体が見えなかったんだな。だが何故九日のこともやっと思い出した十年前のことも忘れちまったんだ?」

木場は漸く、私が牧朗の死体が見えなかった理由が解ったようだ。
しかし、彼の中でまだ疑問は残っているようで、その問いには中禅寺が答えた。

「図らずも涼子さん――〈母〉の一言は、奥様がなまえさんへ言い放った言葉と全く同じだった。その言葉に意図的に切断した脳の回路がリンクされ、封じ込めた記憶が甦ってしまった。だが、まだ彼女の中で十年前の出来事は痼りが残っていた。脳というのは不思議なもので、忘れたい出来事程忘れることが出来ないんだ。〈母〉が言い放った言葉は芋蔓式に十年前の出来事に繋がってしまった。彼女は藤牧の死体を見ただけで既視感すらあった。それは潰された無頭児の死体を示しているんだが――九日の記憶を持っていたら危険だと彼女の心が判断した。だから、十年前の出来事を連想する九日の記憶の回路も遮断したんだ。ダチュラの効能も拍車が掛かったと思う」
「そして記憶が全て戻ったなまえさんは、旦那に『牧朗さんの屍体を一年半前に目撃している』といったのか」

関口がいった。

「そして、涼子さんがそうされたように、あの部屋にベッドを運び込んで死骸と一緒に梗子さんを寝かせたのです」

中禅寺によって語られる真実に、私も母も父も震えた。

「そうか……そういうことだったのか!」
「そんな、そんな――」
「たぶん〈母〉の人格はそれを契機きっかけに前触れなく涼子さんと入れ替わって出て来るようになったんだろう。〈母〉は涼子さんの記憶も持っているから、この人格交換は傍目には殆ど判らない。榎木津探偵や関口君がここを訪れている間も何度かそれは行われた筈だ」
「京極堂、じゃあ君は昨日の夜」
「僕の加持によってトランス状態に陥った涼子さんは、先ず〈京子〉に変わった。だが〈京子〉は事件を部分的にしか知らない。だから僕は〈母〉を呼び出したのだ」
「どうやって!」
「簡単なことだ。僕は耳許でこういったのだ。おかあさんとね」


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