「中禅寺君。その、あんたは大体のことが判ったという。ならその真実とやらを聞かせてはくれんか。いや――儂等は聞くべきなんだ。なあ、菊乃」
隣の母はもう泣いてはいなかった。泣き疲れた年老いた母親がいるだけだった。
「知らない方が良い真実もある」
「いずれは知れよう」
「今のあなた達――特に奥様には残酷な内容かもしれない」
「ふん、慣れておる」
「そうですか」
中禅寺は一同を見渡して大きな溜め息を吐くと、関口の方へ目を向けた。関口はびくりと肩を震わせた。鬱病気質の小説家は昨夜からの信じられない出来事で神経が参ってしまっているのかもしれない。
「牧朗君に宛てた涼子さんの手紙を、いったい誰が届けたのか、僕にはそれが最後まで判らなかったのです」
父や母、関口、そしてこの場にいる全員が終わらない悪夢に終止符が打たれるのを待つような空気に、陰陽師は諦めたように語り出した。
この家に巣食う姑獲鳥を落とすために。
「彼の日記には書簡を持った来たのは老人だと記してあった。僕は最初は時蔵さんかと思ったが、どうもしっくり来ない。当時彼は四十代だ。初老と呼ぶにもまだ早い。それに、忠誠心の固まりである時蔵さんが、彼女の秘密を知ってあなた達にそれをご注進しないでいるとはとても思えない」
「全くその通りだ。あの時蔵なら――知っておったら、いの一番に知らせに来たじゃろうよ。だが中禅寺君、当時家に老人などいなかった。先代は
父の言葉が続くのを構わず、中禅寺は己が導き出した結論を語った。
「それは菅野さんだったのでしょう」
「菅野――だと?だって君、菅野は老人というような歳じゃあ――いや……うん、知らない者が見れば老人に見えたかもしれんな。しかし、何故菅野が出て来るんだね?」
「菅野さんが今回の事件の
中禅寺は断定する口調でいった。
「菅野が何をしたというのだね?」
「本人が失踪して十年以上経過している現在、証拠など残っている筈もない。だから推理の域を出るものではありません。加えて僕は菅野医師の人物像に就いて先程お聞きした程度の極めて僅かな情報しか持っていません。しかしその僅かな情報でさえ一点に収束し、ひとつの可能性を示唆している。それは図らずも僕の推理を裏付けることになった」
中禅寺は懐から手を出して、菅野の出で立ちを列挙する。
「先ず菅野氏は実年齢より老けて見えたという。六十歳以上に見えるのであれば、老人という表現に当て嵌まらないこともない。それから彼は少女を対象とした性的倒錯者であった可能性がある。これはそう珍しい性癖でもないから、噂が立ったのならそれに相当する何らかの事実があったのでしょう。
そして彼は古文書に興味を持っていた。さらに涼子さんの主治医でもあった。加えて牧朗君が求婚しに来た直後に失踪している」
「全然繋がらねえじゃねえかよ。それぞれ何の関係もねえぞ」
木場が噛みついた。
「菅野氏が件のような不埒な性癖を持った人間だったとしましょう。どんな性癖を持とうが他人が責められる筋合いのものではないが、少なくとも今の社会の一般常識に照らせば、菅野氏のそれは不道徳の烙印を頂戴するであろう困った性癖です。
何故なら彼は性的欲求を満たすために犯罪に近い行為を行わねばならないからです」
「まあ――近いと言うより、もろ犯罪だな」
「況してや患者に手を出してしまったりすれば、それは命取りだ。だが悪い噂が立ったということは、彼は欲求を抑え切ることが出来なかったのでしょう。そういった癖は我慢して直るという
中禅寺が菅野について話してる間、私は嫌な動悸を感じていた。
「菅野氏はそこで一計を案じた。相手は子供だ。仮令何をしても、本人が覚えてさえいなければバレないのではないか」
「相手が子供じゃなくたって覚えてなけりゃバレないだろうよ。しかしそんなことが出来るなら世の中ァ強姦だらけになっちまう。変態破廉恥漢は世間に溢れてるんだ」
「久遠寺家は古くから生薬の類を作ることに長けていた。今も敷地内には薬草が繁茂している。そしてその精製の仕方も代々伝えられて来た。違いますか?」
中禅寺に問われて、母は頷いた。
「それはそうですが――その多くは先代で失われてしまいました。この人は元来外科医でしたし、そういったものが好きではなかったのです」
「日本の医療は近代化しなくちゃならん。咒迷信と共存は出来ん」
「だからあなたは――土蔵にどんな古文書が残っているのか確認すらしなかった、違いますか?」
「まあ、読んだことはないな。尤も読もうたって古文書など儂にゃあ読めんが。ただ文化的な価値は認める。だからああして残してある」
「書物の持つ価値は歴史的遺物としての価値や骨董品的価値だけではありません。
読む者にそれを読み解く力さえあれば、仮令何百年経とうが昨日書かれたもののように価値を生み出すのです。この世に役に立たない本などないのです」
中禅寺は続ける。
「菅野氏は古文書から久遠寺に伝わる秘薬の製法を学んだのでしょう」
「秘薬?」
「ダチュラを使った一種の媚薬ですよ」
私は庭の一角に咲いている白いトランペットのような形をした朝顔を思い出した。涼子が昔から世話をしている花である。
「あの、庭に咲いている朝顔か?華岡青洲が日本で初めての全身麻酔手術に使った、通仙散の材料だな」
「通仙散は中国でいう
しかし――その効力が切れると、娘達はそのことを一切覚えていない。
印度や亜細亜の国国などでも同じように使われたらしいと中禅寺は語った。
「ダチュラは、男性が己の劣情を一方的に満たすために古くから使われて来た。あれはそうしたものなのです」
「それじゃあ菅野は――」
「そしてそれが齎す心神喪失状態はまた、神憑りと呼ばれる状態にも酷似しています。所謂宗教的高揚感には、勿論薬物など必要としないものもありますが、薬物によって人工的に生み出されるものも多くあるのです」
それはつまり、神憑りの状態を人工的に作り出そうとするなら、ダチュラのような薬物は極めて有効だ、ということだ。
「この家にその処方が伝わっていた、というのか」
「それは当然伝わっていたのでしょう。どの時代のものかは判然としませんがね。菅野氏がそれを見つけることを目的に古文書を調べたのか、ただ古文書に興味があって偶然見つけたのかそれは判りませんが、兎に角彼はそれを発見した。
そして彼はそれを自分の欲求を満たす道具にすることに思い至った。彼は自分の患者から生贄を捜した。妙な噂の立たぬよう、慎重に――最終的に彼が白羽の矢を立てたのは、普通の患者ではなく、いつでも傍にいる、しかも美しい少女だった」
「涼子――君は菅野が涼子に手を出してたっていうのか!」
父が裏返った声を発した。
「涼子さんに度度訪れたウロこそその証拠です。尤も彼女には生まれ付きそういう
菅野氏が己の邪な欲求に任せて涼子さんにダチュラを投与し、思うがままに
「ま、待て京極堂!」
関口はもうこれ以上聞きたくないとばかりに、声を上げて中禅寺を止めた。
「そ、そんな、当て推量で勝手なことをいうな。もし違っていたら、それは菅野氏だけじゃなく、涼子さんの名誉も著しく傷つける中傷だ!」
「落ち着け関口。話はまだ途中だ」
木場がいった。
――そこにいるのはだあれ?
――一緒に遊びましょう
あのとき。小児科棟を探検していたときに偶然目撃してしまった光景。
「それは
私は下を向いて蚊の鳴くようなか細い声で言葉を発した。
「名前……お前……知っていて黙っていたのか?」
父が尚も衝撃を受けたような声を発した。
私は、顔をふっと上げて中禅寺を見た。そこにはいつもの仏頂面はなく、悲しげだった。
「子供の頃は病院内の探検をしてよくお母様に怒られました。あの日もいつものように探検をしていて、私は小児科棟に行きました。
そしたら……涼子姉様があいつに性的虐待されている所を偶然目撃してしまいました。そして、涼子姉様と目が合ったんです。姉様は笑って貴方も一緒に遊びましょうと――。
怖くなって一目散にその場から逃げ出しました。次の日、姉様は全く覚えていなかったから聞くに聞けなかった。両親に言ったらそれこそ菅野にバレてしまうと思い誰にも言えませんでした。私は次第に、あれは悪い夢だ、幻覚だと思い込みました。
そしたら、現実と夢との境界線が曖昧になってしまった。あいつが姉様へ行った行為がどんな意味を持つかは、当時の私には解らなかった。でも、いけないこと……であるのはなんとなく解った。幼いながらも怖かったし、嫌悪感を感じた程です。それ以来小児科棟に近寄らなくなりました。私が――勇気を出して両親にそのことを言っていたら今回の事件は起きなかった……!」
私は子供の頃から、忘れようという思い込む癖が出来ていたのかもしれない。
結局、私は全てに於いて逃げているだけなのだ。狡くて、情けなくて、涙が頬を伝った。両親はそんな私の話に衝撃を受け、何も言葉が出ない様子だった。
私が話し終わると、中禅寺は悲しげな視線を私に向けていたが気を取り直して再び話し出した。
「幼少期の性的虐待はその後の人格形成に大きな影を落とすといわれる。しかし涼子さんの場合は少し違っていた。彼女は通常の人格でいるときは何らそういった虐待を受けていなかったのです。彼女は、俗にいう神憑りに近い状態のとき、つまり
――そうか。私は
「その瞬間〈京子〉が生まれたのです。恋文を受け取ったのも、藤牧と奔放な恋愛を重ねたのも、その結果妊娠したのも、凡て第二の涼子さん――いや、〈久遠寺京子〉という別人格の女だったのです」
「二重人格――とかいうヤツか」
「一般的にいうそれとは少しばかり違いますがね。兎に角形勢は逆転した。
結果、菅野氏は〈京子〉に恐喝をされるような格好になったのでしょう。彼がして来たことが世間に知れれば、それは社会的には死刑を宣告させるのに等しい。菅野氏は
だが〈京子〉の恋の相手である牧朗が夢破れて去ったその途端、菅野は用なしになってしまった。
「菅野はどうなったのだ?真逆……」
父は泣きそうな顔をした。
それこそ今となっては判らない。兎に角、牧朗が去り――菅野が去った後、この
「私の……所為なのですね」
母はそういってから沈黙した。
中禅寺は大きな溜息を吐いてどっかりと椅子に身を沈めた。
「人格とは何なのか、明確に定義できるひとはいません。それは仮令個人の中でも、昨日と今日、朝と夕では微妙に、いや、ときには大きく違っている。ただそれは如何なるときも矛盾なく連続しているように感じられるから、結局ひとつの人格であると認識されているに過ぎない。だから本来、人格はひとつふたつと勘定出来るようなものじゃない。
二重人格というのは人格が二つあるという意味ではありません。それは、それらがひとつの人格であると認識されない、或いは認識出来ないほど乖離してしまっている状態のことをいうのです。一人の人間には人格がひとつしかないと思うことこそ、脳のまやかしなのです。つまり連続した意識と秩序だった記憶の再生こそが、所謂人格を形成する条件な訳だ。だから脳なくして人格は語れない。
そして脳の色色な部分とアクセスして社会生活を送っている。しかしこの回路のどこかが接触不良を起こすことがある。普段使われている脳より一段低い脳としか繋がらなくなってしまったらどうなるか。当然人格は変わってしまいます。人間としての細かな情報や感情が解らなくなる。酷いときには言葉すら失う。動物の本能だけで行動したりする。
これが俗にいう獣憑きの状態です」
――あたしの子供を返せ。
――お前達は、寄って集って私の大切なものを台なしにしたんじゃないかっ!
――あたしはちゃんと見てたんだ!
昨晩。中禅寺の唱えた祭文で突如トランス状態に陥った涼子から現れた〈京子〉。
「それが憑物の正体なのか?」
「憑物のある部分の正体だ。誰だって激怒したり酒を飲んだり、色んな理由で我を忘れることはあるだろう。しかしそれが普段の意識と連続しているうちは憑依状態とはいわない。断続的だったり、あるいは二つの人格が共存したりして初めて憑物と呼ばれる。しかし、これらはきっと微妙な違いに過ぎないんだろうけどね」
「まあ酒飲んで性格変わる野郎はいるからな。ありゃ獣みたいなものだ」
「憑物は獣憑きに限ったものじゃないんだ。普段使っている脳より一段高い脳、普段使われない脳が機能してしまう場合もある。これが神憑りだ。
この場合は普段再生されることのない記憶や一般の常識を遥かに超えた感情が発露する。
つまり、自分の知らないことまで知っているような状態になってしまう。普段見えないものまで見える。聞こえない音まで聞こえる――神の声を聞き、託宣を語る」
「それも同じことなのか?」
木場が質問した。
「ここで注意が必要なのは、上位の人格は下位の人格を含むということだ。
つまり神憑りの状態のときは普段の状態の記憶はあるが、普段の状態では神憑りのときの記憶は一切ない。逆に獣憑き状態のときに普通の状態の記憶はないが、普通の状態では獣憑きのときの記憶は朧げ乍らある。ただし、その記憶は通常の自分の行動原理にそぐわないから自分の意志で行動した記憶だとは思えないのだがね」
「じゃあ、獣憑きの状態の涼子が〈京子〉だったということか?」
「最初は違ったと思う。〈京子〉は普段の涼子さんと同等か、もしくは普段の涼子さんより上位の人格だった筈だ。しかし元元繊細な彼女の精神は急激な状況の変化に耐え切れなくなってしまった。そして、赤ん坊を目の前で殺されるに至って〈京子〉の人間としての人格は完全に崩壊した。〈京子〉は本能だけで生きるけだものになってしまったのだ。
更にその後、彼女を待っていたのは、ベッドに縛りつけられ、ホルマリン漬けの子供の死骸を枕許に置かれる拷問だった。これが涼子さんだったら道徳なり倫理なりも通じただろう。しかし拷問を受けていたのはけだものになった〈京子〉だった。そんなものは通用しない」
〈京子〉という人格は、涼子が知らない内に崩壊してしまったのだ。
「しかし、実際の悲劇はその後に起きた。一週間以上に亘る拷問は
「二重人格じゃなくて三重人格だってのかい?そんなのあるのか?」
木場は正否を問うように関口を見た。
「ひとつ以上の人格が交互に現れる症状を多重人格症といいます。それは二つに限ったものではない。三つでも四つでも、幾つだってあり得ます」
関口は投げやりに答えた。
「断食などを含む所謂苦行は、肉体を苛める一種の精神修養であるように受け取られがちだが、それは違う。例えば食べ物――エネルギーを一切摂取せずにある一定期間を過ごすと、身体、特に脳に物理的な変化を齎す。詳しいことは今説明したって解らないだろうが、それは丁度さっきの神憑りに近い状態を作り出す。
修行者は、人ならぬモノの声を聞き、神の姿を見る。〈京子〉も、図らずもそういう状態になってしまった。本人の涼子さんの知らないところで発生した〈京子〉という人格は、本人の知らないうちに崩壊し、本人の知らないうちに次の人格を生んでしまうことになった」
「第三の人格とはいったい――」
「死に勝る拷問を彼女に齎したのは、奥様、あなたなのです。その状況を打開するには、あなたの望む人間になるよりない。一番手っ取り早いのはあなたになることだ。第三の人格とは
「では――あの
「以来涼子さんは〈涼子〉〈京子〉そして〈母〉という三つの人格を行き来することになったのです」
つまり、赤ん坊を攫ったのは譫妄状態の涼子だった。その真実に私は胸が締め付けられた。
「崩壊した〈京子〉は獣の如く、本能のままに取られた我が子を求めて彷徨い、そして子供を取り戻す。それは獣の母性です。だがその状態は長くは続かない。
〈京子〉はたぶん菅野氏からダチュラの処方を聞き知っていた筈だ。そしてそれを自分に投与していたのだと思う。ダチュラの力で精神は揺れ動く。そして獣の母性は人の母性に、そして更に魔性の母性に昇り詰める。キーワードは〈母〉だ。譫妄状態が去った後に現れるのは〈京子〉でも涼子でもなく、久遠寺の〈母〉なんだ」
「だから何なんだ!」
「だから久遠寺の母は子供を見ると石で打ち殺すのですよ」