――あんたに逢いたいんじゃない。
引っ込みなさい。おかあさん。

あのときの涼子は、笑っていた。

「涼子さんには死骸が見えていなかったの?」
「涼子さんが涼子さんでいるために、彼女の脳はどうしてもこの非常識な現実を認める訳にはいかなかったのだ。
涼子には牧朗を殺さなければならない理由も、況してや死骸を放置しておかなければならない理由もない。しかしそれをしたのは誰あらん自分自身なのだ。彼女なくして今回の事件は成立しない」

でも、自分が牧朗を殺したことを認めてしまったら、涼子は涼子でなくなってしまう。だから、涼子の目を通じて死骸を見ていたのは〈母〉なのだ。

中禅寺が語り終えると、誰一人言葉を発しなかった。いや、発することが出来ないというのが正解かもしれない。
私の口から言葉が勝手に出て来た。
それを止めることを私は出来なかったし、止める者は誰もいなかった。

「……記憶が無くなった後も心のどこかで、私は牧朗さんはもう死んでいると思っていた。だって、書庫室で大量の血を流して倒れているのを見ましたから。それでも、梗子姉様は頑なに牧朗さんの帰りを待っていたから、私も待っていた。
私は家族が好きでした。確かにぎこちない家族だったかもしれない。それでも、父様や母様、姉様達が好きだったからあまり気にならなかった。でも、私の家族は涼子姉様の妊娠騒ぎから狂ってしまった。
最初に違和感を覚えたのは菅野が涼子姉様を陵辱している場面を目撃したときです。姉様は妖しく笑っててあれは姉様じゃないと、自分に言い聞かせて過ごして来ました。そして、無頭児を殺す母様や何もしないでいる父様も恐ろしかった――」

私は止まることを知らない涙をただ流し乍ら軽く頬を緩ませて、両隣に座る両親へ顔を向けた。
凡て、心の歪み――空虚ウロを吐き出すように。

「大好きな姉様を傷付ける二人が許せなかった……。私は、私の大事なものが壊されることがとても哀しかった。でも、それとは裏腹に私は姉様を見捨てて逃げ出しました。あまつさえそのときの記憶すら無かったことにしたのです。言葉と行動が正反対で据わりが悪い思いは心のどこかでは自覚していました……」

語る口調は自然と自嘲染みた色を帯びる。

「君は自ら望んで自身の殻の中に入ったと?」

中禅寺が質問したので、私は暫く考えた。

「――そう、なのかもしれませんね。家族が崩壊した事実が記憶から消えれば都合が良いと思った。そうなれば私の家族はずっと昔のままの家族なんです。病気を治す頼もしい父に、厳しいけど優しい母。優しくて何でも知っている姉達」
「実際は現実に目を向けず有りもしない妄執に囚われていただけだろうよ」

木場が厳しい声音でいう。私はこくりと頷いた。

「……はい。牧朗さんの呪いだなんて嘯く母様や、見て見ぬ振りをし続ける父様。いつも苦しそうに何かを我慢する涼子姉様と、ずっと夫の帰りを待ち続ける梗子姉様。そして、家族と向き合わず自分だけを見ている私。
この歪な家族に私はどうして良いか分からなかった。何が正解なのか何が正しいのかいつしか判断が出来なくなってしまった……!狂った家族なんか全て壊れてしまえと――そう思っていました。小説家になって私がペンネームとして使っている“苗字”は遠縁の親戚の名字です。私は“苗字なまえ”でいるときだけ人間になれたような気がしました。
久遠寺名前でいるときは――朦朧ぼんやりとした訳の解らない存在でした。しまいにはカストリ雑誌にあること無いこと、誹謗中傷の記事が掲載されてしまって……。私が現実から目を背けたばかりに事件の発見が、家族の修復が手遅れになったんです。涼子姉様は修復したがっていましたが、もう修復の段階はとうに過ぎていた……。自分の殻に閉じ籠った結果が、この惨状です。
私は――私は自ら進んでこんな結末を招いてしまった……!」

私は泣き崩れた。
弱くて狡い私の胸に押し寄せるのは後悔ただ一つである。

「――なまえさん。慥かに君は、奥様が無頭児を殺す場面や藤牧が死んでいるのも目撃しているし、涼子さんが藤牧殺害に関与していた可能性が高いと気付いた筈だ。それらの記憶は非常にショックを受けたであろうし受け入れ難いことは解っている。君の瞳には家族は誰一人映ってすらいなかった。君が一番大事なのは家族でも何でもなく、自分自身なんだ。家族から逃げ出さずに勇気を持って向き合っていたのなら……と思うと、僕は残念でならない」

中禅寺の表情はとても哀しそうに見えた。

「……ええ。木場さんと中禅寺さんの言う通りです――まるで、幼い子供が大事なものを壊されて泣いているだけ。私が一番好きなのは、家族でも何でもなく私自身・・・だったのです。中禅寺さんは先程私のことを観客のようなものだと、仰ってましたけど私は観客ですらなかった……。今までずっと自分の掌の上で右往左往していただけなんです。
なんて――滑稽で狡い人間なんでしょう」

誰も何も言葉を発せなかった。
私は長い間内包していた全ての感情を、生気すらも――全て吐き出した。体はずっしりと重く泥のようで力すら入らなくて。
涙は枯れることを知らず、暫くの間部屋には私の啜り泣きだけしかしなかった。

「待て関口!勝手な真似は許さんぞ!」

突如木場の鋭い声が部屋に響いた。
関口の行く手を遮るかのように刑事が立ちはだかった。

「久遠寺 涼子は重要参考人だ。取り調べは警察がやる」

木場は関口へ冷たくいい放ってから、もう一人の刑事に涼子を護送して来るよう命じた。関口は足が硬直して、その場から一歩も動かなかった。
暫くは無音の時間が続いた。警官二人に手を添えられた父と母、そして私が部屋から退場しようとしたときである。
乱暴に扉が開いて蒼冷めた刑事が飛び込んで来た。

「しゅ、主任!りょ、涼子がいません!」
私は刑事の言葉に耳を疑った。

「何だって!警護の警邏はどうした!」
「殴られたらしく、昏倒しています!部屋はもぬけの殻です!」
「まずい!」

中禅寺が立ち上がった。その声音には緊迫感が含まれている。

「木場修!真逆この建物に赤ん坊はいないだろうな!」
「一昨日生まれた赤児がいたが――いや、事情を話して警察の病院に移って貰った筈だ。おい!どうなっている!」
「それが――」
「それがなんだ!」
「あんまり雨足が強いんで、一日見合わせようかと看護婦と話していて――」
「馬ッ鹿野郎!さっさと見て来い!赤ん坊に何かあったらタダじゃおかねえぞ!手前てめえ等もぼやぼやしてるんじゃねえ!総動員で出口を固めろ!絶対に逃がすなッ!犬の子一匹外に出すんじゃねえ!」

木場が怒鳴り散らしている。
急展開で慌てて警官達が駆け出す。
私はどこにそんな力が残っているか解らなかったが居ても立っても居られず、涼子に会おうと駆け出した。
涼子はきっと――あそこに居る!

長い一日はまだ終わらない。
いや、もしかしたらまだ一日は始まっていないのかもしれない。
もうずっと私は、醒めない夢を見ているような感覚だ。外に出ると、激しい雨が体を打ち付けた。雷が鳴っており、空には時折白い稲妻が駆け抜ける。
もう夏が始まろうとしているのに、今夜の雨はとても冷たく感じた。ワンピースが雨水を吸い、身体に纏わりつき重くなっても、視界が悪くても構わずに私はあの部屋に向かって走る。

小児科棟を大きく周り込み、雑草に囲まれた扉は開いており――

「――お姉様!」

扉の前に涼子と、関口がいた。
涼子は私の声に反応してこちらへと目を向けた。彼女の腕には赤ん坊が抱かれていた。
涼子は私を一瞥しただけで、直ぐに関口へと視線を戻した。

「そこをどいて。そこは私の部屋。私は今度こそこの子を育てるの。あなたはあの夜来てくれなかったんだから、今更来たって駄目よ。この子の父親はあのひとなのだもの。さあ、どいて」

関口は何も言えず硬直していると、涼子は痺れを切らしたかのように怒鳴った。

「早くどいて!」
「涼子!」

涼子が叫び、私が彼女へ取り縋ったのと同時に暗闇の中から母が飛び出した。

「あかちゃんを、あかちゃんを返してえ!これ以上恐ろしいことをするのは止して!」
「お姉様様!もう、こんな……こんな哀しいこと終わりにしましょう!」
「五月蝿い、黙れ!離せ!お前はまた私を見捨てるんだ!」

私は物凄い力で引き剥がされてしまった。
涼子は自身の身体に縋っている母を悪魔のような表情で睨み付ける。

「――お前などに渡せるか!お前はまたこの子を殺すんだろう!」
「違う、違うの涼子、それはあなたの子じゃないの。返してあげてえ!」
「お前は私が何回子供を産んでもみんな殺してしまうんだ!もう沢山だ!離せ!悪魔!ひとごろし!」

滝のような雨が視界を歪ませる。私は母に加勢するため再び立ち上がる。

「あたしじゃない。殺したのはあたしじゃないの。それは」
「うそをつくな!」

稲妻が走り、辺りは真っ白になった。
母の頸の中央に鋭い金属の棒――手術用の大型メスが深々と突き立っているのを、私は見た。

「そんな――やめてええええ!」
母の喉がひゅうう、と鳴った。
残りの力を振り絞り、母は涼子の腕を掴んで――。

「母さんを」

「かあさんを許しておくれ」

涼子は母へ突き刺したメスを容赦なく思いっ切り切り裂いた。
風のような音を立て乍ら、大量の鮮血を吹き出して倒れる母を私は抱き止めた。母の生温かい血液がワンピースに沁み渡る。

「おかあ様……!」

私は痛々しい声で母を呼んだ。
ひゅうひゅうと喉から空気が漏れる母は、私の腕の中で果てた。
頭上で涼子の落ち着いた声がするのも構わず、私は事切れた母の身体を抱き締めていた。

「りょ、涼子さん」

激しい雨音の中、関口の震えた声が聞こえて私は緩緩ゆるゆると顔を上げた。

「あのお喋りな陰陽師が何をいったか知りませんが、今の私が本当の私、久遠寺涼子です。あなた達が邪魔するのなら容赦は致しません。そこをおどきなさい」

涼子はこの世のものとは思えない冷たい目で関口と私を見た。口調も硬くて、いつもの柔和さがない。
今の姉は〈母〉なのだ。
彼岸の住人が目の前にいた。
どかん、と大きな音がした。

「涼子さん!その子を離すんだ。残念だがあなたはその子を殺すことは出来ない。子供を殺すにはこの石が必要なんだろう?それが久遠寺のしきたりだ」

書庫室側の扉が破られ、数名の警官がなだれ込んだようだ。その中から中禅寺の声も聞こえた。
私からは中禅寺の姿は視界が悪くて見えないが、恐らく子供の頭を潰すための石を持っているのだろう。

「しきたりは私が作る」

涼子はそういうと、母の血をたっぷり吸い込んだ大振りのメスを赤ん坊に押し当てた。

「止せ!」

新館の方から更に二、三人の警官が走り寄って来た。拳銃を持っている。

「小賢しい真似をしたって無駄です。所詮あなた達には解らぬこと」

涼子は血の通わない顔に薄い笑みを貼り付けて新館の方へ身を翻すと警官の一人に体当たりをした。
そして不意を突かれて怯んだもう一人の顔面をメスで勢い良く切り付ける。警官は悲鳴を上げ、顔を抑えてしゃがみ込む。残った一人は怯えたような声を出して拳銃を構えた。

「撃つな!赤ん坊がいる!」

木場の声だった。
木場の怒号に一瞬躊躇った最後の一人を突き飛ばして、涼子は闇に消えた。
関口は後を追うように駆け出す。私も自然と彼の後を追う形で走り出した。

横殴りの雨の中、私は前を走る関口の背中を目印にして駆ける。関口の視線の先には赤ん坊を抱き締めた涼子が見えているのだろう。
私の背後には木場が――警官隊が迫って来る。

暫く外を走って、建物に入る。研究室の横を駆け抜け、大聖堂のようなホールに出る。屋上まで吹き抜けた天井の大穴は、先の戦争の爪痕だ。大穴から轟轟ごうごうと音を立てて雨水が流れ落ちる様子は滝のようだった。
ここは、この世とあの世の境界線だ――私はふと、そんなことを思った。

関口は階段を駆け上がる。私も、後ろから駆けて来る木場達もそれに続く。
何でこんなにも必死になっているのか私は解らなかった。既に家族は崩壊してしまったというのに。今更足掻いても手遅れで何かが変わることはないというのに。

それでも、私は何かに突き動かされたかのように足を動かして階段を昇る。一段、一段と階段を昇る度にあの世に近付く感覚。
三階まで駆け昇って、私はやっと涼子と関口の姿を確認した。横殴りの雨の中、涼子は穴の縁にいた。そして穴の対岸には――。

「もう逃げられないぞ!」

榎木津が立ちはだかっていた。
涼子は榎木津の姿を認めると足を止め、ゆっくりとこちらへ振り返った。
涼子は赤ん坊をぎゅうと抱きしめて、関口と私の顔を見た。

束ねた髪は解け、血の気のない白い顔には表情がなかった。額に静脈が浮き出ている。
白いブラウスは雨に濡れてぴったりと身体に張り付いている。
その様は殆ど半裸のようで。
下半身は母の血で真っ赤に染まっている。
子供を求め、攫う――姑獲鳥が目の前にいた。

「関口!」

突如、中禅寺の鋭い声がした。
背後の階段にはいつの間にか大勢の警官隊が控えており、先頭に木場と中禅寺がいた。

「関口!そこにいるのは涼子さんだ!この世のものなんだ!怖じ気づくな。涼子さんが赤ん坊を抱いて立っているだけだ。君はそれを受け取ればいいんだ。それは君にしか出来ないことなんだ」

中禅寺の言葉に突き動かされた関口は、一歩前に出た。私も様子を慎重に窺い乍ら少しずつ彼等に近付く。涼子は一歩下がる。
もう一歩。もう後がない。

「さあ。渡してください」

「かあさん」

関口がそう呼ぶと、涼子は急にいつもの困ったような表情になり――。
両手を差し出して赤ん坊を関口に手渡した。

姑獲鳥がうぶめになった瞬間だった。

関口へと受け渡された途端、赤ん坊は火が点いたように泣き出した。
その泣き声を聞くと、涼子は安心したような優しい顔をして、ゆらり、と揺らめいた。
私は急いで駆け出して――涼子へと手を伸ばす。

「待って……行かないで……!」

そのとき、涼子と目が合った。
やっと――こちらを見てくれたのだと思った。
それはまるでスローモーションのように、時がゆっくりと感じられた。
涼子の表情はいつも見慣れた優しい姉のもので。
彼女の小ぶりな唇が何やら動いたが、何をいっているのか解らなかった。

泣いている赤ん坊を抱き締めている関口を横目に、奈落の底へ落下する姉を追うように私も大穴の縁へと足を踏み出し、浮遊感を感じる瞬間に――ぐいと、身体が引っ張られた。

「なまえちゃん、危ないじゃないか!」

いつの間にか榎木津が私の片腕を捕らえていた。私は身を捩る。

「榎木津さん離して!だって……姉様が――!」
「もう凡て終わったんだ!君はそんなに死にたいのか!何なら、僕は今すぐこの手を離したっていいんだ!だが、君のお姉さんは君に死んで貰いたい訳でも一緒に道連れにしたい訳じゃないだろう!なまえちゃんは、生きなきゃいけないんだ!だから僕は手を離さないぞ!」

探偵はいつになく怒っていた。
私は榎木津からの一喝で漸く悪夢から目が醒めたような感覚を覚えた。足元から力が抜け、ずるずるとその場に崩れ落ちる。

大穴の縁を覗くと、
奈落の底に涼子が横たわっていた。

「姉様……姉様……、ごめんなさい……!」

結局私は涼子を助けることが出来なかった。
私の目の前で、母と姉は逝ってしまった。
溢れた感情はとどまることを知らず、涙という形で発露した。
私は榎木津にしがみ付いて子供のように泣いた。大きな手が私の背中を優しく撫でる。
生と死の境界線の中で、私はやっと――生きている心地がした。
彼岸から此岸へ引き戻されたのだ。


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