「何だい?こんなに民間人がいっぱいいる取り調べなど聞いたことがないぞ。上に知れたら問題になるよ。いいの木場君?」

内藤と入れ違いに、場違いな明るい声の持ち主が部屋へ入って来た。幾分後退した額の髪を、寂しくなった後頭部目がけ掻き揚げ乍ら、その男は満面の笑みを浮かべた。木場からの悪態を物ともせず、男は監察医の里村紘市と名乗ってから私や中禅寺、関口、榎木津、そして敦子へ一通り挨拶をした。

「それではあの、世にも美しい遺体に就いてのご報告を致します。あの被害者は――どんなに少なく見積もっても一年六箇月以上前に亡くなっております」

里村曰く、前後の状況から判断して牧朗は失踪した日――昭和二十六年一月九日未明に死亡したのはほぼ確実で、加えて死体を動かした形跡は殆どないという。
木場は少し落胆したような表情を見せた。

「それにしても綺麗な屍蝋しろうだったねぇ。いつだったか出羽の即身仏を解剖したときより感激したよ、僕は」
「しろうって何ですか?」
「死体が鹸化けんかして、蝋細工のようになってしまうことさ。あれ程綺麗な屍蝋は見たことないよ。皮膚や筋肉は殆ど蝋になっていた。肺翼こそ枯葉みたいにぺらぺらになってたけど、心臓や肝臓腎臓、いや腸間膜まで蝋になってたからなあ。素晴らしい屍蝋だね。しかし屍蝋なんてものはかなり条件が整わないと出来ないんだがねえ。貴重だなあ」
「どんな条件だ?」
「屍蝋はね、体の脂肪が化学変化して出来る訳。すぐには出来ないのね。先ず低温であること。
それから湿気ね。湿気があって暖かければ腐敗しちゃう。逆に乾燥してると木乃伊になっちゃう。
だから屍蝋の多くは多湿帯、いや、殆どは低音の水中で発見されるのね。つまり日本の気候風土から考えて、室内で放置されていて屍蝋になるなんてことは瞭然はっきりいって非常識。あの部屋は密閉性がかなり高かったから、それが原因かもしれない。
屍蝋は酸欠状態でないと出来難いから――だから、うん、あの部屋は何だか変な薬品臭がしてたし、ひょっとしたらなんらかの弾みで炭酸瓦斯ガスみたいな空気より重たい気体が発生して下に澱んでたのかなあ。僕は化け学は専門じゃないから判らないけど。それと、あそこ異常に低温だったでしょ。この暑い時期に。死んだのは真冬でしょ。だから一旦凍っちゃったのかなあ。氷河で発見される屍蝋もあるから。それは凍ってるの。それから彼、血も殆ど流れ出てたしねえ。そういう偶然がバランス良く積み重なったとしか今の段階じゃ申し上げられませんねえ。僕は高が監察医ですから。しかし偶然にしても凄い確率だなあ」

里村は孫を見る好々爺のような表情でそう語った。

「あの部屋――いや、この新館を含めて、久遠寺医院の建物は全館屍蝋を生成するのに持って来いの造りになってますよ。建てた人間は少し異常だ。室温が上がらないようにする工夫と、密閉性に拘泥こだわった職人芸のような仕事は偏執狂的です」

中禅寺が付け加えた。

「なる程。それじゃあの鼠もそのシロウになっていた訳だ。矢ッ張り無関係じゃなかったじゃないか。それ見たことか」

榎木津が子供のように得意げにいった。敦子が思い出したように呟いた。

「鼠?研究室の鼠ね。じゃああの鼠も牧朗さんの死んだ後すぐに死んでいたのね」
「マウスの屍蝋があるの?見たいなあ」

里村は子供のような眼をした。この監察医はどこかズレている気がした。

「そんなこたあどうでもいいじゃねえか!さっさと報告しろ!」

木場が先を急ぐよう怒鳴ったが、里村はマイペースに続けた。

「そうそう、それから遺体にホルマリンを振り掛けた痕跡があったよ」
「防腐剤のか?」
「いや、振り掛けただけじゃ防腐効果なんてないけれど。すぐに飛んじゃっただろうし。何かのおまいじないかな?」
「掛けた奴は効果があると思ったんじゃないのか?」
「いや。それはたぶんまじないですよ」

中禅寺がいった。

「お咒いなら専門は中禅寺君ね。僕は解剖専門。それから死因だけれども――」
「失血死だろう?判ってるからお前さんはもう帰れ」
「違うよ」

里村は素っ気なくいった。

「死因は脳挫傷。頭蓋骨陥没」
「は?」

木場と敦子と私は一斉に声を上げた。

「梗子の投げたもんが当たったのか?」
「違うね」
「それじゃあ里村先生、被害者は脇腹を刺されてあそこまで自力で逃げ、転倒して頭でも打った――ということですか?」
「それも違う。被害者はこう、こっちのお腹を刺されて、これはかなり痛いし、大量に出血して意識も朦朧としてたと思うよ。そのまま痛いからこう丸くなって、ころん、と倒れたんだと思う」

里村は実演して見せた。
脇腹を押さえて倒れると丁度胎児のような姿勢になった。

「転倒した訳でもないとしたら……第三者が牧朗さんの頭目がけて上から物を落としたということ?」

私は驚きに身震いした。
それなら、この部屋は二重の密室ではない!

「そうそう!こっち側に凶器が突っ立っているから体勢としてはこうなるでしょ。それで、この体勢で被害者はもう立ち上がるだけの力がなかったと思う。そしたらこの体勢でいるところへ誰かが何か重たい――鈍器を頭の上に落としたのだね。ぐちゃっと。それが死因」

里村は簡単に死因を述べたが、暫くは誰も口を利かなかった。敦子が頭の中で整理した事柄を述べる。

「え?それじゃ……待ってください。その傷は死後についたものじゃないのですね?」
「そう」
「被害者が刺されてから……手当をせずにいて、自然に失血死するまでの時間はどのくらいですか?」
「場所が悪いから。十五分から三十分」
「それじゃあ、藤牧さんが刺されてから絶命するまでの十五分から三十分の間に――密室に入ってとどめを差した者がいるってことじゃありませんか!」
「そうなるね」
「おい、待てよ里村。それはあり得ねえ。そんなことは不可能だよ!」
「そんなことは知らないよ。医者の口出す問題じゃないもの」
「ふふふふふ!」
榎木津が突然笑った。
唖然とする一同に向けて面白そうに言い放った。

「こりゃあいい。これでやっと普通の密室殺人事件になったじゃないか!」

父と母と私の事情聴取は同時に行われる運びとなった。通常、単独で行うのが決まりなのだが、展開の異常さも相まって異例が認めれた。
異例なことばかりが起こっている。私達は木場の前に並んで座った。
木場は暫くどこから切り出そうか考えていたようだが、いきなり顔を上げて、「いったいどうなってるんだ!」といった。

「あんたらはあそこに死骸が転がってることを知らなかったのか?」
「知りませんでした。牧朗さんは生きていると……思い込んでおりました。あの部屋には、恐ろしくて近寄れませんでした」

母は顔を白くさせ、萎びた声を出した。

「怖ぇ?おかしな話だな。自分の娘が病気で寝てる部屋に、一年半の間入らないでいたのか!あんたはどうなんだ!」

木場は父の方へ目を向けた。

「儂ゃあ――うん。あんたのいう通りだ。儂は人の親としては不適合な人間なのかもしれん。知っていたかどうかというと……予想はしておったよ。そこの祈祷師もいっておっただろう。
前にも誰かにいったが、一足す一はいつでも二だ。だから扉を開けずに部屋から出ることなんぞ出来ん。だから扉を開けて出てったか、出てないかしか答えはないじゃないか。どっちにしてもあまり喜ばしい結果じゃあない。娘か、婿か、誰かが犯罪を犯してることになりゃあせんか。だから――」
「見て見ぬ振りをしていたってんだな。しかし久遠寺先生よ。あんた、いつまでそうしていられると思っていやがったのか?あんたの娘に至っては、その死骸を目撃したけど見えなかったと言っているんだぞ?死体は見えなかっただけで実はずっとあの部屋にありましたなんて、こんなお粗末な事件は犯罪史上類を見ないんだぜ!」
「な――、名前……一年半前に牧朗君の死体を目撃していた?何故今の今まで黙っていたのだ?」
「それは……私はこの一年半、義兄さんが行方不明・・・・の世界の中を生きていたから」

私がそう答えると、木場が反応する。

「それは、仮想現実・・・・というやつか?だから知覚しなかったと?」

私は頷いた。木場はすっかり参ってしまったようで深い溜息を吐いた。

「娘の言っていることが儂には理解出来んが……
刑事さんの言う通り、お粗末な事件なら放っておいたって露見するじゃろ。何も能動的に解決することはない。儂は――この久遠寺という看板を支えることに疲れてしまっていた。そんな馬力は、十年も前に失っておったんだ」
「あんたの娘が発見したけど、どういうことか露見されずに今日まで来ちまったんじゃないか!」

そういってから、木場はそれ以上の質問を辞めてしまった。後を受けたのは中禅寺だった。

「木場刑事。僕にはこの三人に聞きたい事が山とある。直接的に今回の事件と関係あるかどうかは判断できませんがね。あなたが質問に窮しているのであれば、僕にそれをさせてくれませんか?まあ民間人であるこの僕が、このような席で関係者に質問することが許されるのであれば――ですがね」
「許すも何も、好きにしやがれ。俺はお手上げだ」

木場は本当に手を挙げた。
この刑事の頭の中は、理解を遥かに超えた状況にごちゃごちゃになってしまっているようだ。

「それでは。先ず奥様にお訊きします。久遠寺家が憑物筋であることは――今更隠しても仕様がないことなので瞭然はっきりといいますが、少なくとも郷里の讃岐でそういった扱いを受けておられたことは事実ですね」
「はい。馬鹿馬鹿しいこととお思いでしょうが――間違いなく、久遠寺の家は今おっしゃられたような理由で長い間迫害を受けて参りました。私や母はこちらで生まれ育ちましたが、祖母などは讃岐におりました時分、随分と辛い思いをしたようでございます」

母は淡々と答えた。

「なる程。しかし僕にはどうも腑に落ちないことがある。久遠寺という姓から考えても、当家の歴史はかなり古いようにお見受けしますが……如何でしょう?」
「はあ――」

母は無感情に答えた。
中禅寺は、久遠寺家について彼独自の憶測と歴史を交えながら語った。

平安時代に中央で権勢を振るった当時の最新科学原理に陰陽道というものがあった。陰陽道は後に公的には禁止され、遊行する宗教者によって各地に伝播し、各地で様様な民間宗教と習合して形を変えて今日に至るようだ。
そして、どういう訳か極めて古い形のものが四国に残っているという。

「僕は久遠寺家もその古陰陽道に通じる信仰を伝える家系ではないのかと考えたのです。
奥様は昨晩、僕が行った密教系や神道系の加持、真言や呪文には殆ど反応しなかった。しかし四国に伝わる古陰陽道の影響下にある一流派の祭文さいもんとなえた途端に著しく反応した。案の定、奥様は御存知だったご様子だ」

昨夜、中禅寺が誦えた独特な祭文に変わった途端酷く母は怯えていたのを思い出す。

「はい。我が家に伝わるものと殆ど同じように思います。母から教わりましたが絶対に使ってはならぬものと聞いております」
「矢張りそうですか。つまり久遠寺家が陰陽道を伝えるかなり古い家系であるということは間違いないようです。そこで奥様。あなたはオショボという妖怪ばけものを御存知ですか?」
「オショボ――ですか。たしかに幼い頃、母からそんな名前を聞いた覚えはありますが――しかし私は能く存知ません」
「木場刑事!関口君!今の奥さんの話をきいていただろう!矢っ張り久遠寺家はオショボ憑きの筋なんかじゃなかったんだ!」

中禅寺はとても嬉しそうに関口を見た。

「思った通りだ!オショボを人に憑けるなんて非常識だよ」

すかさず木場が質問する。

「何でた?土地の古老がいってるって現地の警察から報告があったんだぞ」
「古老ったって精精せいぜい七八十年前のことしか知らないさ」
「それはそうだが……古くからの伝説といっていたそうだから関係ねえんじゃないか。久遠寺は子供を殺して水子の霊を操るという――」

中禅寺はそれが先ずおかしいんだといった。水子が祟るという考えはつい最近になってからの考え方だそうだ。
彼曰く、江戸の頃は七歳前の子供が死んでも人間として供養すらしなかったらしい。

「かの悪名高い生類憐みの令にも子供を捨てるな、という条文があるくらいだからね」
「生類憐みの令って?動物保護のか?」
「犬猫並だったということさ」
「しかし京極堂、君は以前好色一代女に水子の話が載ってるといってなかったか?」
「あれは水子じゃない。ウブメだ。祟ってるんじゃなくって産褥死さんじょくしの概念を具現化したものなのだ。
現代なら兎も角、過去の民族社会では死んだ子供が祟ることはない。オショボと水子は無関係だ。オショボというのは四国の一部でいう、おかっぱ頭の子供の妖怪ばけものだ。詳しくは知らないが、どうも、座敷童子や板ぼっこといったものと同類らしい。君達は座敷童子は知っているかい?」

一人の刑事が座敷童子について回答する。
赤い顔をした子供の姿で、それがいる時は家が栄え――いなくなると衰退する存在のようだ。

「彼の説明にもあったように座敷童子というのは、家の衰退や富の偏りを説明するという機能を持っている。これは実に憑物の持つ機能と全く同じだ。
ここで注目すべきなのは、座敷童子は家にいるときは気配だけで、出て行くときに目撃されるという性質を持っている――ということだ。目撃譚の多くは家人以外の者に依って語られ、それは家を出るとき、即ち家が滅びたときのものだ。
つまりそもそも座敷童子は今まで栄えていた家――多くは成り上がりの他所者よそものなのだが――それらの没落した理由として語られて来たモノなのだ。
それが遡って過去家が栄えた理由としても機能するようになる。今まで富を運んで来たのは座敷童子というモノである、と考えた訳だ。その考え方が定着して初めて、今栄えているのは童子がいるからだ、という現在進行形の座敷童子が発生する。つまり、座敷童子は本来出て行くことで憑物と同じ機能を果たす民族装置であったことが解る」

そこで――といって、中禅寺は一同を見渡した。
昨晩と同じようにすっかりこの男の独断場となっている。

「オショボも同じ機能を持つモノだと定義すると、これを他人に憑ける筋というのは少少納得が行かない。自分の富を他人に分け与えることになるし、そもそも出て行くことで機能するものを使役したって意味がない」
「すると、どうなるんだ?」
「だから古老が語った久遠寺に対する伝説は、比較的近年になってから捏造されたものではないかという疑惑が湧いて来るのさ」
「ちょっと待ってくれ京極堂。慥かに僕達が澤田富子さんから聞いた久遠寺家の伝説にも、童子の神様が出て来た筈だ。君はそれも捏造だというのか?」
「ああ、六部殺しの伝説だね。それはたぶん古いものさ。因みに奥様。あなたの受け継がれた久遠寺流が使役するモノは何なのですか?」
「色色です。式王子や護法童子ごほうどうじ、不動明王の眷族けんぞくの童子達などです」
「そうでしょう。そもそも使役される神霊というのは童子の形を採ることが多い。童という字は元元身分が低いとか召し使いとかいう字義だったと聞く。
これがいつの頃からか子供を指すようになった。そこで何らかの混乱があったのだと、僕は考えている。座敷童子が童形どうぎょうなのも、その辺りに遠因があるかもしれないね。だから富子さんが語った童子の神様とは、オショボや水子ではなく文字通り童形の使役神のことさ。いずれにしても水子とは関係ない――木場刑事!」

木場はいきなり呼ばれて驚いた様子で背筋を伸ばした。

「な、何だ?」
「久遠寺家がオショボ憑きの筋だから代々子供を殺して来たというのは、以上の理由でデマゴギーだったと判明した。以下そういった先入観は捨てるように」


それから中禅寺は一呼吸して再び語り始めた。

「そこで――久遠寺家が憑物筋と考えられるようになった原因を考えてみましょう。勿論、陰陽道の大夫という特殊な家系であったことの影響もある。
だがそれ以上に、富の偏りが大きな原因としてあったのではないかと僕は推測しています。それは富子さんが語った六部殺しの伝説から窺い知ることが出来る」
「中禅寺さん。その六部殺しの伝説とは……一体?」

私の質問に、中禅寺は六部殺しの伝説に就いて説明してくれた。
中禅寺の説明によると、六部とは六十六部の略で六十六回写経した法華経を持って日本全国にある六十六箇所の霊場を巡り、一部ずつ奉納して回る僧のことだ。ストーリーによって様々なバリエーションがあるようだが、六部を殺害した家が後に裕福になるが、そのために六部に代々祟りを受けるという。
この話をベースに、富子が語った六部殺しの伝説はこんな話だ。

あるとき、村外れに旅の六部が住み着いた。
この六部は秘伝の巻物を持っており、その神道力で病気を治したりしたもので、大層評判になったそうだ。久遠寺の大夫はその状況が面白くなかったので童子の式神を使って六部を呪い殺そうとした。

しかし六部の神道力は強く呪いは呪詛返しに遭い、村に災厄を齎したそうだ。策に窮した久遠寺の大夫は一計を案じた。お詫びをするから、と六部を騙して家に招き、蟇蛙の毒を飲ませて殺したのだ。六部は苦しみ乍ら死んだ。そして久遠寺の家を呪った。蛙の毒を盛ったのなら蛙の毒で返してやる、末代まで祟ってやると呪詛の言葉を吐き乍ら……。

久遠寺は六部から秘伝の巻物を奪い、そのお陰で大層栄えた。しかし六部の呪いは非常に強く、久遠寺の家に産まれる男の赤ん坊は、必ず蛙の顔をしており長くは生きない。だから久遠寺の一族は皆女で、村人は誰も久遠寺の娘を嫁に貰わないという――。

「蛙の赤ん坊……」

私が目撃したあの赤ん坊は、六部殺しの呪いを受けた赤ん坊なのだろうか。気味の悪い符合にぞくぞくした。

今でこそ電車やバスが発達し始めているが、数十年昔は交通機関も未発達であった。
江戸時代なら移動は己の脚が殆どなので、六部として全国行脚は命懸けでもあった。家族は不測の事態に備えて大金を持たせることが多く、その大金を狙った犯罪なのだ。
しかも村――共同体――の他所者なので、犯罪捜査も他藩の死体となると行き倒れと処理される場合が大半だったそうだ。

「まさに富子さんの語った古伝はこのモチーフそのままです。しかし、これは単なる誹謗中傷ではない。根も葉もない噂は伝承として定着しません。長い間語り継がれるには、共同体内部の論理に合致した説得力が必要なのです。
民族社会での六部――異人殺しは、憑物や座敷童子と同じように富の偏りを説明する機能を持っています。ならば、富子さんの語った六部殺しの伝承も、久遠寺家に富が偏った古い時期に発生したものと考えることが出来るでしょう。つまりその伝承が発生した時期には、それに対応する何かがあった筈なのです」
「何か、といいますと?」
「たぶん久遠寺家が御殿医になって権力を得たという事件でしょう。共同体に富の偏りが発生した訳です。富子さんの語った古伝はこの事実を反映しているのだと思う。曰くありげな医術の秘伝書まで出て来ますしね。
そしてその異人殺し伝説は長い間変質して憑物筋へと発展した。四国は陰陽道の他にも憑物信仰が盛んな土地です。犬神やトウビョウなどの憑物筋が沢山ある。一方久遠寺家は代々陰陽道の大夫だった訳だから、実際は憑物筋というよりそれを払い落とす役回りだった筈なのだが、それがいつの間にか逆転してしまった。そして久遠寺家の悲しい歴史が始まります。しかし、そうだとするとこれは相当に古い話だ。その頃ならオショボ憑き――水子の霊を使役する筋だといわれていたとは思えない」
「私は、何何筋と具体的にいわれたという話は――母からは聞いておりません。ただ、あの家はクロだから、といわれたと―」
「なまえさんからも同じことを伺いました。クロというのは憑物筋を表す隠語です。一般人はシロ、憑物筋と婚姻して産まれた子供はハイイロです。今の奥様の話からも判るように、久遠寺が使役するモノ自体は特定されていなかった可能性が高い。しかし現在の土地の古老はそれをオショボと特定した。一方当の久遠寺の人人はそれを知らなかった。
すると古伝である六部殺しに次ぐ第二の伝承、オショボ憑き筋は、久遠寺家が讃岐を出た当時、或いは出た後に捏造された、とても新しい伝承ではないかと推理出来る」
「水子という設定が出て来るところからもそれはいえる訳ね」
「そう。だが新しいとはいえ、この第二の伝承も対象である久遠寺家を抜きに、既に何十年も語り継がれて来た。最初の伝承の例からも解る通り――第二の伝承が形成された期間にも何かがあったという推測が出来る」
「何があったっていうんだ?」
「ヒントは久遠寺家の帝都進出さ。その時期はたぶん、大昔お大名に召し抱えられた頃に次いで、久遠寺家が栄えた、つまり、富が偏った時期になるのじゃないか?」

中禅寺がそういうと母は静かに答えた。

「私共が上京しましたのは――明治三年と聞いております」
「すると矢張り明治維新前後に形成された伝承ということになる。そこで僕は或る事件に思い当たった。契機きっかけは矢張り――異人殺しでした」

中禅寺は母を見据えてから言葉を続けた。

「あなたは勿論ご存知ないのでしょうが……時蔵さんの祖母に当たる人は、お遍路さんだったそうですね。行き倒れて久遠寺の先祖――というよりあなたの祖父母に助けられたという」

母は、もうどうにでもなれ、といったような笑いを幽かに浮かべた。その笑みの端には疲れが色濃く浮かんでいる。

「どうもご存知のようですね。これは今では私しか知らぬことですが、時蔵の祖母、露子といったそうですが……その方の持っていたお金で久遠寺家は救われたのだと――母より聞いております」

中禅寺と母から聞かされる久遠寺の歴史に、私はただ耳を傾けていた。
私は知らねばならない。今まで目を背けていた事実に。

「矢張りそうですか。憑物筋の家、異人殺し、オショボ、これらの伝承は錯綜して意図的に組み合わせられた。そして久遠寺はオショボ憑きの筋だ、という実に奇っ怪な第二の伝承が生成された。
それは村を捨てて中央に出て行く筋の家に対するやっかみだけから捏造されたものではありません。表立っていえないある事件を反映している―と、僕は思います」
「事件……と申しますと――?」
「あなたや、あなたの娘と同じことを、あなたの祖母もしたのではありませんか?」


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