母は目を大きく見開き、声にならない悲鳴を上げた。

「中禅寺さん、それはどういうことですか?母は――大祖母様は何をしたのですか?」

中禅寺はちらりと私を見てから、すうっと視線を外した。

「この件に関しては証拠がない。証明のしようもないから、推測です。たぶん時蔵さんの祖母、露子さんは、行き倒れて子供を産んだのではなく――攫われた子供を追い掛けて来て、そして果てたのです」
「おお――」

突如、隣から苦しそうな呻き声が聞こえた。母は頭を抱えていた。

「あなたのお祖母さんは、あなた達と同じように子供を失い、同じようにそのショックから露子さんの子供を攫ったのではないでしょうか。
臨月の遍路というのは考え難いが、乳飲み子を抱えた遍路というなら例がある。露子さんは、我が子を追って久遠寺に辿り着き、そして亡くなったのではないでしょうか。後には子供と、彼女が持っていた大金が――これは想像ですが――残った。そのお金が久遠寺家の東京進出の軍資金の一部になった。ならばそれは、第二の異人殺しではありませんか。そしてそれはまさに赤ん坊に因って齎された富でもある。これが第二の伝説の正体です。しかし、お祖母さんもあなた達と同じように悪気はなかったと思われる。
だからこそ、誹謗中傷に耐えられず郷里を離れたのではありませんか?悪い因縁を――断ち切るために」
「お母様……それは本当なのですか?」

私は震え乍ら隣で頭を抱えてままの母に尋ねたが、答えては貰えなかった。だが、母の態度はそれが一層事実であると私へ無言で突き付けているようだった。

「因縁は断ち切らなかったのです」
「おい!また混乱して来た。もう少し解るようにいってくれ」

中禅寺は私と同様に困惑している木場を垣間見て、
「歴史は繰り返す。嫌な言葉です」といった。

「それでもあなたのお祖母さんは、贖罪と感謝の気持ちを以て時蔵さんのお父さんを育てることが出来た。使用人としてではありますがね。しかしあなたはそれすら出来なかった」
「おい京極、だからそれは何のことだ!」
「内藤君のことだよ」
「何だと!」

木場が大きく目を開き、驚愕の眼差しで母を見た。

「奥様。内藤君のお母さんが亡くなったのは、あなたが産まれたばかりの内藤君を攫ったことが原因ですね」
「お母様そんな、そんなこと……嘘ですよね?嘘だと言って下さい――!」

母が赤ん坊の頃の内藤を攫ったという事実を私は認めたくなくて、堪らず母に縋った。
だが、私達姉妹が産まれる前から母が内藤に目を掛けて来たのも事実であるが故に、嫌でもそれが事実であると見せ付けられた。
私の懇願にも虚しく母はずっと押し込めていたことを告白した。

「ああ!あの方は、心臓が弱かった。私は知らなかった。いいえ、あのときは何が何だか――解らなかった……」
「おい、本当に攫ったのか!そうか、それであんたは内藤の養育費や学費の面倒をみていたんだな……罪滅ぼしのつもりだったか」

私は母の何とも複雑な表情を眺め乍ら、呆然と告白を聞くことしか出来なかった。

「本当は――育てたかった。私の所為で両親を失ったのですから――でもそうは出来なかった。
世間体もある。母が――いえ、この久遠寺家が許してはくれませんでした。だから、せめて娘の婿にと思ったのです。そのためには無学ではいけない……。だから学校には行って貰おう、そう思いました」

木場は父に向き直り、「院長、あんたは知ってたのか?」と聞いた。

「知っとった……といえば知っておった。あの子がその後どうなったのか、儂は一切知らされてなかったが――こいつが内藤を連れて来たときに大体察しは付いた。ただ、どうも隠そうとしている様子だったから、黙っていた。暴き立てても詮ないことだ。しかし、内藤がもう僅かでも人間的に信頼出来る男だったら、儂は仮令たとえあいつが医者にならんでも娘と結婚させとったと思うがな。別にこんな病院継いでくれなくたって、儂の代で潰したって、儂は良いと思っとったんだがな」

父は悔恨の念をあらわに顔を歪めた。

「お母様が子供を失ったとはどういうことですか?何故、赤ん坊の内藤さんを攫ったのですか?」

私は中禅寺に問うた。彼は静かに私の両隣にいる父と母を見渡してから静かにいった。

「なまえさん、もう少ししたら理由が解る。奥様。あなたの産んだ不幸な子は、決して呪いや祟りの申し子などではありません。口を閉ざし、大いなる闇の彼方に隠蔽してしまうことこそが、呪いに外ならないのです。ですから――奥様。話しても宜しいですね」

私の心臓が跳ねた。

「あなたは――あの子のことまでも御存知なのですか」

母は重い口を開いた。
長い間硬く口を閉ざし語ることをしなかった両親の哀しい出来事――薄暗い闇が、この部屋全員に明かされるのだ。
中禅寺はゆっくりと頷いた。そして視線を父の方へ向ける。

「院長先生、僕は生憎それ程医学に明るくない。
そこでお聞きしたいのですが、あなたの最初のお子さんと同じような子供達は、いったいどれくらいの確率で産まれるものなのですか?そして、それが同じ家系に繰り返し現れるというようなことは――遺伝学上果たしてあり得るものなのでしょうか?」

私があの夜目撃した蛙の顔をした赤ん坊のことを指しているのだろう。

母は私達姉妹が産まれる前に、その赤ん坊を産んでいるという。
父は眉間に深い皺を作ると、その皺を指で摘んだ。暫くの間そうしてから、途切れ途切れに答え始める。

「巨視的な視野に立って見れば――そう珍しいことでもない。だが、確率となると恐ろしく低い。
ただ、儂はこの短い人生の中で――二度・・もその分娩に立ち合っておる。だから、たぶんあんたのいわんとしとるのとは概ね当たっていると、いえるだろうな」

父の答えを最後まで聞いた中禅寺は、もう一度母と――私の方を向いた。
母は中禅寺の視線を捉えてから、小さく首を縦に振った。私は緊張した面持ちでただ母の告白を待つばかりだ。

「奥様が最初に――三十年前に産んだお子さんは、無頭児だったのですね」
「無頭児――榎木津さんが幻視した赤ん坊が……」

私は榎木津をちらりと見た。彼は大きな鳶色の瞳を半眼にして私を見ていた。恐らく、私の記憶を視ているのだろう。私はあの夜見た光景と、先日見た悪夢を思い返した。

丁度頭蓋部分が欠落し――二つの眼球が飛び出るような出で立ちで、まるで蛙のような容貌をした赤ん坊。
関口は気分が悪くなったようで口を押さえた。

「久遠寺家は、この無頭児が誕生する確率が非常に高い家系――家系といういい方が正しいかどうか解りませんが――だったのです。原因は判りません。ただこれは祟りや呪いの所為などではない。これは医学上の問題です。病気や怪我と同じレヴェルのものです。恥じるべきことでも、隠すことでもない。しかしこの国の土壌はそうはさせてくれなかった。無頭児に限らず、先天的に異常を持って生まれて来る子供達は悉皆しっかいまともな扱いを受けなかった。悲しい事実です。そしてそれは、今もそう変わるものではない」

中禅寺はそこで言葉を切って、蒼冷めた母の様子を窺った。

「民族社会に於ける畸形児や障碍児は、あるときは福子として歓待され、またあるときは鬼子として殺された。久遠寺家の場合は後者だった。連綿と、長きにわたって。しかしそれに就いては責めることが出来ない。少なくともあなたのお母さんは、しきたりに従うべきではなかった。そして……あなたも」
生生しく再生されるあの夜の出来事。
母は気丈に振る舞うことを辞め、限界に達して泣き崩れた。父は、涙を流している母に哀れむような視線を送ると、ゆっくりと胸の内を明かした。

「儂は、迷信なんぞ大嫌いなたちだった。この家に婿入りしたときも、まあ悪い噂は結構あったが、半ばそういう風潮に挑戦するような気でここに来ることを決めたんだ。馬鹿馬鹿しい、古い因習など粉砕してやるわい、そう思っとった。だが壁は厚かった。それで最初のうちはバリバリやっとったが、最初の子が出来たときだ。儂は義母に呼ばれた。最初の子供が男の子だったら殺さねばならん。覚悟せい、といわれてな。儂は大いに憤慨した。
しかし、産まれたのは無頭児だった。自分で取り上げたんだ。ショックだった――義母はその子を見るといきなり――」
「やめてえ!」

泣いている年老いた母が、まるで小娘のような声で悲鳴を上げた。母は自分の身体を抱くようにして震えていた。何だか母が小さく見えた。

「殺したのか?」

木場が訊いた。

「殺したのなら殺人じゃねえか。幾ら自分の孫だって、それがどんな障碍を持った子供だって、殺したら殺人だ!あんた黙って見てたのか!」

木場の言葉に今度は父が堪らずに口を挟んだ。

「刑事さん!あんたそういうが、無頭児は生きて生まれて来ることすら稀だ。よしんば生きて生まれたって何分と生きちゃいない。脳がないんだから。あのときだって……死産だったのかもしれん。確認する間もなかったんだ!」
「しかしな」

中禅寺が興奮する木場を諌めた。

「木場刑事。どっちにしたってこのご夫婦は自分の子供が目の前で死んで行くのを見なければならなかったんだ。もう十分な罰を受けている。
そんなに責めないでくれ賜え。少なくとも今の医学じゃ産まれてくるのが男か女かも判らない。障害を持っているかどうかなど、最後まで判らない。まして、過去においてをや、だ。障碍児が産まれる可能性があるから子供を作らないというのでは家系が途絶えてしまう。久遠寺の家にしてみれば、兎に角産んで、障碍があった場合は民族社会の通例通り殺す――いずれ死んでしまうのだが――という方法を採るしかなかったのだろう……」

母は顔に手を当てて泣いた。中禅寺は少しの間その姿を見ていたが、やがてこう訊いた。

「それより、僕が知りたいのはその子の祖母――あなた達のお母様が、どのようにその子を始末したかということです。辛いことでしょうから訊くに忍びないのですが、もしかしたらそこが重要な鍵となる可能性があるものですから」

顔を押さえて泣き続ける母に代わって、父が答えた。

「義母はね――石をね。石を持ってた。赤ん坊は産声を上げなかった。義母は臍の緒の付いたままのそれを儂から奪い取って床に置くと、何やら呪文を唱え乍ら」

父の声が遠くに聞こえ、視界も狭くなる。冷や汗が出てブルブルと身震いした。
その先の遣り方を私は知っている!

「石で無頭児を叩き潰した!」

思わず私は叫んだ。いつの間にか私の頬には涙が伝っていた。
母は一瞬びくりと身体を震わした後、「石で打つのが、代々のしきたりだと聞きました」と、涙声でいった。

「母はきつい人でした。私は母にさからうことなど出来なかった。しかし女の躰というのは不思議なものです。子供が死んでしまったというのに赤ん坊の泣き声を聞くと乳が張る。二三日はぼうっとしていましたが、三日目には何が何だか判らなくなって、気が付くと赤ちゃんを抱いて乳を遣っていました。

ここが産院でなかったら、近くに赤ちゃんがいなかったら、ひょっとしたらあんなことはしていなかったのかもしれない。母はすぐに私から赤ん坊――内藤を取り上げましたが、そのときにはもう遅かった。子供の母親は亡くなっておりました。体面を考えた母は暫く赤ん坊を隠していましたが、そのお陰で悲観した父親も……」
「あなた達久遠寺家の人人は東京に出て来るときに過去の凡てを捨てて来るべきでした。名誉や家柄といったものと、呪いだの因縁だのは表裏一体なのです。どちらか一方を切り離して持って来ることは出来ない――」

中禅寺は諭すように続ける。

「地域の民族社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則というものがある。無意味な誹謗中傷では成立しません。民族社会では呪う方と呪われる方に、暗黙のうちに一種の契約が交わされている。呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし現代社会では、その契約の約款やっかんが失われてしまった。さらに共同体の内部では、呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物の所為にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子の所為に出来る。都市にそんな救済措置はありません。
あるのは自由、平等、民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗あっこうぞうごんばりざんぼう、誹謗中傷の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。
そして……因習を捨てきれなかったあなたたちは、ついに第三の伝説を作り出してしまった。その場面を偶然にもなまえさんは目撃してしまったのです。その伝説を作り出したが故になまえさんとあなた達夫婦の間に溝が生まれた契機きっかけにもなった」
「私が見たあの場面は……中禅寺さんの言う通り殺害現場だったんですね」

私は悲鳴染みた声で言葉を発することが精一杯だった。中禅寺によって、点と点の事象が線で繋がりひとつの答えが導き出される。

「今回の事件ね」

敦子がいった。

「そうだ。口碑伝承の類は一箇所に長い間語り継がれるものだが、都市の伝説は違います。寿命は短いがあっという間に広範囲に広がる。文化の均一化に加えて、新聞や雑誌などの情報伝達媒体の発達が滑車を掛けたためです」
「カストリか」
「そう。密室から消えた婿養子、いつまでも産まれない子供、次次と消える新生児――悪い噂こそが都市の伝説です。そして第三の伝説の主人公は――涼子さんでした」
「え?梗子――じゃないのか?」
「梗子さんは哀れな脇役に過ぎないし、なまえさんは謂わば観客――の役割だ。主役は飽くまで涼子さんなんだ。そうですね、奥様。院長先生」

部屋の中は静かになった。

「どういうことだ、説明しろ」

「凡ては恋文から始まったのです」
中禅寺は酷く悲しそうな眼をして、関口を見ると、それに倣って部屋にいる全員も一斉に関口を見た。

「十二年前、藤野牧朗という真面目な学生が生まれて初めて激しい恋をしました。相手は当時十五歳だった久遠寺梗子さんです。彼はその胸の内を手紙に認め、そこにいる関口君に託したのです」

しかし、梗子は恋文は知らないと木場は指摘する。

「今回の悲劇も、そもそもそこが発端じゃねえか!」
「そうです。手紙は梗子さんには届かなかったのです」
「待ってくれ京極堂。ぼ、僕は届けた。気が遠くなるような思いで――」

関口が中禅寺を止めた。

諒解わかってるよ。関口君。しかし君が手紙を渡したのは涼子さんだったんだ」

中禅寺の次の言葉によって彼の頭の中は白紙になったかのようにショックで呆然としてしまった。

「う、嘘だ!僕は表書きを見せ、本人にしか渡せない、といった。涼子さんは偽って妹宛の手紙を受け取ったというのか?そんな馬鹿なこと――」

震える声を発した。

「最初は偽った訳ではなかったろう。関口君、恋文の表には、たぶん間違いなくそう書かれていたのだ」

中禅寺は矢立から筆を取り出すと懐紙に何やらさらさらと書き付けて部屋の全員へ見せた。

『久遠寺京子様』

私は中禅寺の綺麗な文字を見て、呟いた。

「それが“大いなる誤謬”の正体だった……」

中禅寺は後を続ける。

「そうだ。関口君、君は藤牧の日記を覚えているかい?これが彼が長い間思い込んでいた“些事ではあるが大いなる誤謬”の正体だ。“桔梗”の“梗”の字を名前に使うのは珍しい。しかし、“きょうこ”と聞いて“京都”の“京”を思い浮かべるのは自然だろう。そして、読みは兎も角、字面からいうと“京子”と“涼子”は極めて近い」
「君は、またそんな詭弁をろうして……僕を誑かそうったって無駄だ。字を間違えるといったって“きょうこ”の“きょう”の字なんて星の数程あるじゃないか!僕は信じない!」

関口はまるで騙されないぞと言いたげに中禅寺に反論した。
だが、中禅寺が一枚上手だったようだ。

「そういうだろうと思って確認を取っておいたよ。院長、慥か最後の家族旅行は日中戦争の頃だったと聞きましたが――」
「そうだが」
「関口君、君がここを訪れていた日――昭和十五九月十六日――君の鬱病が発露した日だ。その日こそ久遠寺家最後の家族旅行の日だ。箱根の仙石楼に連絡を取って調べてみたが、宿帳にもちゃんと載っていた。久遠寺嘉親、菊乃、梗子、名前四名様。あの日……ここには時蔵夫婦と涼子さんしかいなかったんだ」
「関口先生が、涼子姉様と知り合っていた?」

私は関口へ視線を移した。

「そんな、そんな――それじゃあ」

次第に関口の声から反論の色が消えていく。

今までは信じていたことが崩れ去る感覚を――味わっているのかもしれない。

「僕は――僕は――」

関口は譫言のように同じ言葉を繰り返していると、中禅寺の目が関口を制した。

「ほら。矢っ張り会ってたじゃないか」
「おい、だったら――恋文を受け取り、藤野牧朗と密会を重ねて、ついにはその子を宿してしまった女というのは……!」
「涼子さんだった訳です」

ああ!私が見たあの悍ましい光景。
何故梗子ではなく涼子だったのか、これで痼りはなくなった。


 -  - 
- ナノ -