「わけ?どんな訳だ?妻と床を共に出来ずに、なおかつ間男を容認するような理由がこの世にあるとは思えねえな」
「牧朗さんは――もしかしたら被虐趣味者だったの?それとも性的不能者――」
「違うよ。もっと即物的な理由だ」

敦子の言葉に中禅寺はあっさりと否定してから、茶碗に茶を注いで喉を潤した。

「藤野牧朗が獨逸ドイツから帰国した本当の訳は開戦したからじゃない。彼は世情不安な異国で事故に遭い、下腹部に損傷を負ってしまった。
いや――瞭然はっきりいうと、生殖器の一部を失ってしまったのだ」

それが理由なのか!衝撃が心を襲った。

「何だと!」

木場がひと際甲高い声を上げた。

「牧朗は性器を失っていたってのか!それじゃあ幾らか女房を愛しく思っていたってどうにも出来ねえ訳じゃないか!しかしそれを隠して結婚するのは詐欺じゃねえか?」
「そうだね。しかし詐欺という意識が彼にあったかというと、たぶんなかったのだ。寧ろ、彼にはそれでも結婚しなければならないという事情があったのだ」

中禅寺はゆっくりと振り返る。

「さっきもいったが、藤野牧朗は子を生して育て上げることこそ生物としての人間に課せられた使命、人生の最終的な目標、という人生観を持っていた。僕は図らずも彼の母の手記を読む機会を得た。
その最後の一節、つまり絶筆に当たる文章が、彼のその後の人生観に多大な示唆を与えたと思われるのだ」

中禅寺はそういって、そのくだりをさらさらと暗誦した。

優しくて愛情に満ちた内容を聴いて、私達全員は何も云えなくなった。言葉が出なかったのだ。

「彼は開き癖が付く程この頁を開き、文字が掠れる程幾度も読んだ。彼にとって母は神聖にして冒すべからず、まさに信仰の対象といっていい程の人だったから、この手記こそ基督教徒にとっての聖書、回教徒にとってのコーランに値するものだったのだ。几帳面な彼は頑なにこの教えを守って、清く正しく道徳的に生きたのだ」
「京極、それは解答になってない。牧朗が妻を抱くに抱けない体だったことは解った。しかし奴がいくら品行方正でも、その他の不自然な振る舞いの説明にはならん」

木場が反論したが、中禅寺は相変わらずペースを崩さない。

「まあ聞け。そんな牧朗がただ一度、母の教えに背いたことがある。十二年前のことだ。彼は梗子と出会い、熱烈に恋をした。そこまでは良かった。
しかし彼は感情に、いや激情に流されて、不道徳な行いをしてしまった。学問の徒たる学生の分際で、歳端も行かぬ少女と通じ、のみならず妊娠させてしまったのだ」

牧朗が梗子達からの酷い仕打ちに何故耐えていたのか、中禅寺は今それを解き明かしているのだ。

「待てよ。梗子は知らねえといっているんだぞ!そんな事実があったかどうか解らないじゃないかよ。日記に書いてあったって創り話かもしれないじゃねえか。お前さんのいう仮想現実かもしれない」

私は十一年前のことをあの夜の光景を浮かべた。
梗子は妊娠していない。あのとき妊娠していたのは――。
私の頭の中にその答えがあったのだ。私は愕然とした。でも、その答えにどうしても釈然としない。据わりが悪い。

「それならそれでもいいんだ。問題なのは藤牧自身がそれを事実と認めていた、ということだ。まあ事実ではあったんだがね」
「梗子が嘘をいっているのか?記憶喪失とかいうヤツか?」
「違うよ。兎に角彼にとって、妊娠そして堕胎という筋書きは最悪だった。回教徒が豚を喰うより始末に悪い。無責任に子供を作って殺すなど、万死に値する。彼は必死で責任を取ろうとした。しかしそれは叶わなかった」
「結婚の申し込みを断られた――のね」
「そうだ。しかし彼は諦めなかった。生を完うすることが母の望みである以上、自殺することも出来ない。いや、命を絶つことなど考えもしなかっただろう。彼は時間を掛けてでも、正攻法での解決を望んだ」

ず留学し、帰国して学位を取り、梗子と結婚する。子供が生きていれば必ず引き取って育てることだ。もし堕胎していたら――そのときは梗子との間にもう一度子供を作ろう。
それ以外に過去の過ちを繕う道を義兄は思い付かなかったのだろう。梗子に対して、久遠寺の家に対して、そして神聖な母に対して、贖罪の気持ちで満ち満ちていた筈だ。

「しかしそこに予想外の不幸は事故が発生して彼は生殖機能を失ってしまった。その時点で彼は常識的には贖罪の方法をなくしてしまったことになる。失意の帰国――ではあっただろうが、しかし彼は諦めなかったのだ。そして、その頃から藤野牧朗は少しずつ変質していった。慈愛に満ちた母の教えは、段段に変容し、いびつになって、歪んだ彼の心を満たし始めた」
「それが、牧朗さんの不可解な振る舞いの原因なんですね」

中禅寺は暗い表情で頷いた。

「子を生して育て上げることこそが、人間として、いや生物としての究極の目標であるのなら、性交はその手段でしかない。途中のプロセスなどは枝葉末節に過ぎない。そして慈愛に満ちた母の言葉はいつの間にか本末転倒した。つまり、性交せずとも子供が作れればそれでいいと――彼はそう結論した」
「出来るか!そんなこと!」

木場が声を上げて否定した。荒唐無稽なことだと言わんばかりに。

「でも兄さん、仮令たとえ子供がいなくても幸せな生涯を送る夫婦は沢山いるわ。どうしても子供が欲しいなら養子を迎えるとか、方法は幾らでもある筈よ」
「いや、彼はその辺で完全にズレてしまったのさ。彼には自分の遺伝子――いや母の遺伝子を受け継いだ子供以外は我が子として認めることが出来なかった。更に、妻に迎えるなら、過去に過ちを犯した相手――梗子以外には考えられない。
そして彼の大きな勘違いは、その考え方が正しいと思うだけでなく、一般的だと考えたところだ。梗子もまた梗子自身の遺伝子を受け継いだ子供を儲けることを人生の目標と考える筈だ――そう考えたのだ。愛し合う、慈しみ合うという意味が彼には解らなくなっていた。当然正常なコミュニケーションは望めない。彼の目には妻の淫奔な不義の行為も、子供が欲しくてしていること、としてしか映らなかった」
「牧朗さんの目には内藤さんと姉様の行為が不義には見えなかったのね」
「俺の女房はあんなに子供が欲しいんだ、と思っていたっていうのか?」

木場も私と同じように考えたようだ。

「そう――怒りや嫉妬とは凡そ掛け離れた感覚さ。彼は妻に罵倒され、乱暴され、内藤君との情事を見せ付けられる度に、一日も早く研究を完成させなければいけないと考えただろうね。梗子さんが自分に注意を向けるべく焦れば焦る程、彼は研究に没頭した」
「一体牧朗はそんなにしてまで何の研究をしていたんだ?」
「だから性交せずに子供を作る研究さ」

本当に――そんなこと出来るのだろうか。

「彼はそういう意味では天才だった」
「じゃあ、牧朗さんが研究していたものって――」
「彼は完全な体外授精の完成を志したのだ」
「体外授精?何だそれは?」
「それは慶応大学が昨今実験に成功したという?」
「それは人工授精だ。彼は生殖器の多くを失いはしたが、精巣だけは僅かに機能する程残ったのだ。しかし生産出来る精子の数は微量で、とても人工授精に耐え得るものではなかった。そこで彼はその僅かな確率に賭けた。彼は一匹の精虫が卵子に辿り着く確率を百パーセントにまで高めたかったんだ。
つまり彼は机上のシャーレや試験管の中で、摂取した卵子と精子を人工的に受精させる技術を開発していたのさ」

科学の進歩と倫理観の危機。冒してはならない聖域へ遂に科学は辿り着き、自然の摂理さえも人間が操作しようとしている。

「そんな!それでは――内藤君じゃないが、まさに現代のホムンクルスじゃないか!」

今まで黙っていた関口が叫んだ。

「倫理観は人それぞれだ。国や宗教によっても違う。一概に非難は出来ないよ。考えようによっては、それがどんな形で誕生したものであろうとも、生命の尊さに変わりはないじゃないか。それに裏を返せば、医療行為による凡ての延命もまた天の意志に背く行為である、と捉えることも出来る」
「詭弁だよ。それに現実的な問題としてそれは可能なことなのか?僕には絵空事としか思えない」
「理論的には可能だよ。僕は手元にある彼の研究ノートをほぼ通読したが、彼の研究は終始整合性を保ち、理論的にも破綻していない。純粋に科学的な見地からいうと、この研究は極めて貴重な価値を持っている。独学に近い形でこれだけの成果を得た経過を考えても賞賛に値するだろう。
ただ――矢張り彼は間違っていたんだ。彼がこんな偉業を成し遂げられる程の力を持たぬ凡夫だったら――完全な体外受精などただの妄想であったなら、今日こんにちのこんな惨状はなかっただろう。しかし、研究は完成してしまったんだ。昭和二十六年一月八日の、煙霧の夜に」



昭和二十六年一月八日深夜から九日未明。
僕は顕微鏡に映るマウスの授精卵が順調に分割されているのを確認して、長年の研究が実を結んだことを噛み締めていた。シャーレの中で数日間培養させた良質な卵が百パーセント授精するのに適した温度調整と保温が長年の壁だった。

この家の造りは全て密閉性が高く、室温が上がらないよう出来ているから苦心した。昨今成功したという人工授精の過程を参考にしたくて慶應大学へ赴いたりした。
しかし、人工授精は僕の身体状態・・・・では耐えられそうになかった。落胆こそしたが、諦めなかった。

人工授精のノウハウをどうにか応用出来やしないかと考えた僕は、独自の理論を構築して体外受精の方法を模索することにした。そして今夜、僕の理論が間違ってなかったことはシャーレの中で証明されたのだ。

梗子と再びやり直すために久遠寺に婿入りするまで苦節十年。だいぶ遠回りしてしまったけど、それが報われた瞬間だった。
僕は母さんの教えが記されたノートを手に取り目的の頁を捲ると――白黒写真が栞のように挟まれていて――在りし日の母の膝上に乗せられた子供の僕が写っていた。

――人の一生のうち何よりも大切なことは子を産み、そして立派に育て上げることです。
――良き伴侶を見つけ子をして慈しみ合ひ、仕あわせな生をまったうしてくれると母は信じてゐます。

一語一句暗唱出来てしまう程、読み込んだ頁はすっかり僕の手垢で塗れている。母の綺麗な文字を愛しげに指でなぞる。
目の前の建物の窓から、梗子と内藤が絡み合っているのが見えた。二人がそういう関係になってどれくらい経ったのか僕には解らなかったが、兎に角早く研究を完成させることに心血を注いだ。
内藤にお詫びをしなくてはならない。
この技術を使えば梗子はもうあんなことをしなくても良いのだ。

ほら。あんなにも子供を欲しがっている。
僕達のあの子が十年越しに甦る。今度こそ、二人で育てるのだ。研究が完成したことを梗子に伝えなければと思った僕は、いつもより三十分早めに研究室を後して梗子の元へ急ぐ。
僕の報せを聞いて、彼女の喜ぶ姿が目に浮かんだ。

――梗子、喜んでくれ賜え。遂に、遂に僕は研究を完成することが出来た!

――何よそれ?それが女房を寝取られた亭主の言葉?あなた私が今何をしているか解らないの?

――解ってるさ。だから、もういいんだ。君はもうそんなことをする必要がなくなったのさ!

梗子は内藤と繋がったまま僕に怒りをぶつけた。

――怒らないで聞いておくれ。僕達はもうそんなことをしなくても子供が作れるのさ!僕と君の子だ。死んでしまった最初の子のために、もう一度二人の子供を、

育てよう、と続けようとすると梗子は内藤から徐に離れるとベッドの上に仁王立ちになって、ヒステリックに叫んだ。

――誰がお前の子など産んだ!
いいや、これからだって産むものか!何だそのへらへらした顔は!怒れ。怒ってみてよ。怒れないんだ。蛆虫!

梗子がヒステリックになるのは、決まって僕があの子のことや十年前の邂逅を尋ねるのが原因だった。
彼女が思い出したくない程、心に深い傷を負ってしまったのも僕の責任だからいつものように梗子を慰める。

――落ち着いて、落ち着いておくれ。今までのことは僕が悪かった。謝ります。だから話を聞いておくれ。い、いや今でなくてもいいです。君の気が鎮まったら……

――黙れ!出て行け!死んでしまえ!

更に激昂した梗子は皿やワイングラス、フォークなどその辺にあるものを手当たり次第に掴んでは投げ付けて来た。
投げ付けて来た皿や食べ物が僕に当たる。

――乱暴は止めるんだ、内藤君がいるじゃないか。

内藤はそんな梗子の言動に驚いてしまったのか、ベッドから転げ落ちると、服を掴んで逃げ出そうとした。

――内藤君、今までは色色とすまなかった。妻は今興奮しているようだから、改めてお詫びに伺います。悪いが、今日は引き取ってくれ賜え。

梗子は僕の言葉を聞くと一瞬呆気に取られたような顔をしてから直ぐに、前にも増して激昂した。僕は只管ひたすら謝った。

――許しておくれ。僕が悪かった。いっときの劣情に流されて、君を傷付けてしまった。
本当に反省している。しかしもう大丈夫なんだ。
僕はもう学生じゃない。立派な医師だ。久遠寺家の跡取りの父として、お義父さんも認めてくれた。あの子は十年振りに、またこの世に生を享ける。君と僕の、

――そんなもの知らない!出て行け!

しかし、梗子の癇癪は治る所か更に悪化しており手が付けられなかった。飛んで来る皿が壁に当たって砕け散る。皿やワイン瓶の破片が辺り一面に散らばっていて部屋は酷い有様だった。
少し時間を置けばきっと梗子も落ち着いてくれるはずだと思った僕は、一旦隣の書庫室に避難することにする。
しかし、書庫室の扉はとても重くて直ぐには開かなかった。
梗子だった女は呪詛の言葉を僕に振り撒く。

――あの頃の君に戻ってくれ。十年前の、優しかった君に……

突如脇腹に鋭い熱を感じると共に生暖かい液体が脚を伝った。赤黒い血潮が見る見る内に床に広がって行く。

――え?

一瞬、何が起こったか解らなかった。
脇腹に目をやると果物ナイフが深深と突き刺さっていて。目の前には愛しい梗子が鬼の形相で僕を睨み付けていて。

僕は漸く、梗子に脇腹を刺されたことを自覚した。
身体を書庫室に滑り込ませて、残った力で扉を閉めて鍵を掛ける。

どうして、どうして――

痛みに耐え切れず、意識が朦朧とした僕は冷たく硬い床に身体を横たえた。身体から大量の血液がだらだらと無機質な床へ流れ出るのを眺めた。身体が徐徐に冷えて行く。

僕はどこで間違えたのだろう?
十年前の過ちを正すために、梗子とあの子を倖せにするために日夜研究を続けて来た。体外授精なんて荒唐無稽にも程がある、出来る訳がないと大学教授や医師達から言われて来たけれど、僕は諦めなかった。

諦める選択肢なんて初めからなかったのだ。妊娠を告げる手紙が来た昭和十五年の大晦日から、僕は十年近く、ずっと終わることのない罪の意識に苛まれて来た。
あの時の劣情に流された僕と、堕胎された嬰児の命の代償だ。
今夜、苦しい思いから抜け出す光明を得た。僕達の悲願が叶う筈だった。梗子も彼女自身の遺伝子を受け継いだあの子が甦ると喜んでくれると、そう思っていると信じていたのに。



悍ましい程の擦れ違い。
狂気だと思える程行き過ぎた想いに私は絶句した。

「それで牧朗は、梗子の追撃を避けるために、扉を閉めて、鍵を掛けた訳だな」
「そう。鍵を掛ける音が聞こえた。奴は刺されて初めて気付いたんだ。事態が収拾し切れないところまで進んでいることにね。鍵まで掛けるなんて余程怖かったんだろう」

空白の時間は内藤によって語られる。
あの夜、その場にいて一部始終目撃した男は尚続けた。

「腰の抜けた俺は暫くあの油絵の下で馬鹿みたいに口を開けていた。梗子は鳥みたいな鉄切かなきり声をひと頻りあげて、それから静かになった。
五分か十分か――もう少し長かったかな。その後はただ茫然と扉の前に突っ立って動かなくなっちまった。俺はがくがくする足腰を無理矢理動かして、散らばっていた自分の服を掴むと裸のまま這うように部屋に逃げ帰った。兎に角震えはずっと止まらなかった。俺は考えた。この後いったいどうなるのだ?
奴は死んだのだろうか?俺は殺人の共犯者になるのは御免だ。ならば今すぐ警察に通報するか?それとも院長に知らせるか?いや、それはどちらも駄目だ。まだ奴は生きているかもしれない。もし奴が生きていれば、俺たちの背徳の関係が露見する。俺も傷害――いや殺人未遂の共犯になるかもしれない。そうならなくとも少なくともこの家にはいられなくなる」

榎木津が堪らずに椅子の肘掛を思い切り叩いた。

「あんた、そんな状況でも保身を考えたのか?先ず人命が第一だろう!錯乱した梗子さんを保護し、藤牧の命を助けようとは思わなかったのか!」
「おもわなかったよ!」

榎木津の叱責に内藤は大声で反発した。
一年半の間、押し込めていた感情を白日のもとに晒した今、彼の顔からは怯えが消え失せていた。喉のつかえも取れたようで内藤のすっきりとした顔は久々に目にする。

「俺はもう貧乏な暮しには死んでも戻りたくなかった。この病院だって今は左前だが、土地も、建物もある。黙っていれば俺は先生と呼ばれて、妻も迎えて一生を過ごせる。
みすみす女郎部屋に戻るなんて――出来るかよ!考えを巡らせていると、すぐに朝が来た。外は全く静かで、何も動いた様子はない。俺は凝乎じっとしていられなくなって、梗子のところへ行った。部屋は綺麗に片付いていた。床の血痕は拭き取られ、壊れた備品の欠片も取り払われて、ベッドも綺麗になっていた。梗子はきちんと服を着て、矢張り扉の前に立っていた。そして俺の姿に気付くとこういった――」

――牧朗さんがここから出て来ないんです。鍵が掛かって開かないの。内藤さん宜しかったら開けてみて戴けません?

梗子は惨劇の記憶も、内藤との爛れた関係も――覚えていなかった。

「俺は困惑した。しかしこれは好機かもしれない、と思った。幸い二人の関係を知る者はいない筈だ。噂など無視すればいい。しかし問題は牧朗だ。もし万が一奴が生きていれば、破綻だ。だが幸い牧朗のいる部屋には中から鍵が掛かっている。つまりこの部屋には誰も入れない。放っておけば奴は必ず死ぬ。中から鍵の掛かった部屋で死んでいれば、普通自殺と考えられるのではないかと思った。だから、俺は扉に鍵が掛かっていることを証明する証人が必要だと考えた。
そこで梗子に院長を呼びに行かせた。俺が行くのは変だと思ったからね。俺は部屋に帰った」
「だが院長は来なかった」
「そう。昼過ぎまで待って再び行ってみると、富子がやって来てわあわあ騒いだ。梗子は牧朗と喧嘩した、酷い仕打ちをしたというようなことを富子にいったが、矢張り俺とのことは忘れているようだった。これ幸いと――まあ奴が死んでいるかどうかは賭けみたいなもんだったが――時蔵を呼んで扉を開けたのさ。時蔵がもたもたしてるから、俺が蝶番を叩き壊した。あの扉はそれでも頑丈でね、少しばかり隙間が開いただけだった。
梗子は俺を突き飛ばしてその狭い隙間から中にはいったんだ。そして、絶叫した」

――いない、牧朗さんがいない!あの人が消えてしまった!

「今になって思えば、梗子は蝶蝶でも捜すみたいに空中ばかりきょろきょろ見てたな。そう、さっき祈祷師の先生が俺は怖くって中など見てないとかいってたがね。俺だって見たんだよ。怖かったが、確認せずにはいられなかった。でもね、俺にも見えなかったのさ。俺も梗子の一言を聞いてから、その仮想現実とやらを見ていたんだな。
馬鹿らしい。そうと知っていれば――でもそのときは、中に奴がいないと知って腰が抜ける程驚いた。脱出したということは、生きているということだ。俺と梗子の関係が露見する。それだけじゃない」
「復讐、か」
「絶対来ると思った。もし俺が奴なら、情夫を八つ裂きにして肥溜めにぶち込んでも気が済まないだろうからな。それから昨日まで――俺は一人で風呂に入るのも怖かった。
夜も殆ど寝られなかったし飯も喉に通らなかった。
でも、奴は――奴は死んでた。ふふ、思い過ごしだった。ははは、はははは」

内藤は今までの重圧から解放されてほっとしたようで、笑い出した。笑いを止めさせたのは中禅寺だった。

「内藤君。あの扉を直し、ベッドを運び込むように指示したのはいったい誰なんだ?」

内藤は乾いた笑いをぴたりと止め、暫く考えていった。

「ああ――あのとき、中に牧朗がいないといって梗子が泣き喚いて――俺と時蔵はどうすることも出来ず、愈愈いよいよ院長か奥様を呼びに行こうとしたとき……そうだ、涼子が、涼子がやって来ていったんだ」

――いったい何をしたのです?梗子さん。
良くないことをしたのならそこで反省なさい。反省しない限りあなたには幸せな結婚生活は訪れませんよ。

「何か知っているような口振りだったから俺は警戒したんだが――梗子は富子に言ったようなこと――牧朗さんと喧嘩した、酷いことをした、というようなことを繰り返し口走っていたなら、そのことをいっているのだと思い直した。それで、涼子は時蔵にすぐに扉を修理するようにいった」
「そのとき涼子さんはどんな感じだったのだろう。例えばどんな格好をしていた?」
「ああ、和服を着ていて――」
「それで?元気がないとか、疲れていたとか。なまえさん、君はそのときの涼子さんと会っているんだ。もう思い出せないことはないだろう?」

中禅寺は急に私の方へ顔を向けたので、私は暫く考えた。

「いつもよりきびきびしていました。雰囲気もどことなく母様に似ていて……」

一月九日。
涼子は探偵事務所では不在にしていたと関口にいっていなかったか。私はそこで口を噤んでしまった。

「時蔵は本当に大工を入れたりして良いのか――と訊いたんだ。涼子はお前が壊したなら自分で直すのだ、職人など入れるな、といった。時蔵は妙な顔をしたが、まあ時蔵に死骸が見えていたのなら訊き返したくもなるな」
「それでベッドは?」
「ああ、梗子はその後すぐ気を失った。俺は仕方なく梗子を本館に運んで休ませ、院長と奥様に都合よく事情を説明した。そしてそのまま梗子は二三日本館で床に就いた。しかしどうもおかしい。そこで院長が診察して、妊娠三箇月と診断した」

それは間違いだったのだけど。中禅寺が先程いった通り、実際の妊娠と同じ兆候が出るからだ。

「そう、俺だって一応は医者志望だ。院長の話を聞いて、間違いないと思った。奥様は烈火の如く怒ったよ。産むな、堕ろせ、妻をおいて姿を消すような男の子供など、産んではならん――俺は複雑な心境だった。だって腹の子は俺の子に間違いないんだ。
梗子は、堕ろすのは絶対に嫌だといった。俺は混乱した。梗子は俺とのことを完全に忘れている。しかし牧朗との間に子供など出来る筈もない。
梗子は自分がどうやって妊娠したと思っているのだろう。しかし、奥様はきつい人だから幾ら梗子が頑張ったところで俺の子は堕ろされるだろうと思ったね。ならばどうでもいい。所詮は不義の子だ。ところが、事情が一変した。涼子が産ませてやってくれといったのだ。不思議だったな。あのきつい奥様が急に温順おとなしくなった。しかし低姿勢にはなったが、執拗に堕胎するよう懇願はしてたな。
結果涼子は梗子をあの書庫に移してしまった。奥様はそれ以降は黙ってしまった。黙認したという風に受け取れた」

私が二度目に実家を訪れたのはその後のことだと、内藤の話で検討付けた。

「つまり、ベッドを搬入させたのも涼子さんな訳だ。関口君!」

中禅寺はいきなり小説家の名を呼んだ。

「彼女は一月八日の午後に意識を失い、九日の深夜までの記憶はない、といっていたんだろう?それじゃあ彼女は意識が戻る前に扉を直す指示を出したことになるじゃないか」

私は頭を殴られたような衝撃を感じた。

「え?涼子姉様がそんなことを?それじゃあ……私は九日にと言い争ったのですか?」

涼子が八日から九日の深夜まで意識を失っていたのなら、私と言い争った人物は誰なのだ?

私が衝撃を受けていると、内藤はやにわに、にやりと笑った。鄙俗いやらしい顔付きである。
これがこの男の本性なのかもしれない。

「刑事さん、俺はいったいどんな罪になるんだ?聞いてただろう?俺は何もしてないんだぜ。法律は俺をどうやって裁くんだ?」

木場は厳しい表情で考え込んだが、
「あれこれ考えりゃあ――貴様を逮捕して起訴することくらいは簡単だ。幾らでも罪はある。だがな、そんなことしたって貴様を死刑に出来る訳じゃねえ。俺は正直いって貴様の顔なんぞもう見たくねえんだ。一連の証言の裏が取れたら、何処へなりともとっとと消えて欲しい心境だ」
といった。内藤は破顔していう。

「へへ、そうだろうね。幾ら俺でもこんな薄気味悪いところは御免だ。とっととおさらばしますよ。女郎部屋の方がまだマシさ」
「おいっ!」

榎木津がテーブルの端を思い切り叩いた。

「あんたいったい何なんだ!僕はあんたのような生き方は理解出来ない。いや、したくもない。慥かに法律で裁くことは出来ないかもしれないが、あんたのしたことは最低だ!吐き気がするぜ!」
「お宅なんぞに俺の気持ちが解るかよ!」

内藤が怒鳴り返す。そしてげらげらと下品に笑った。
榎木津が我慢出来ずに立ち上がるのを横目に、私は内藤を睨み付けた。木場が透かさず指示をしたので、内藤は警官に両脇を掴まれて強制退室を余儀なくされた。

「内藤君」

中禅寺が呼び止めると内藤は振り向いた。

「君の背中にべったりとへばりついている久遠寺牧朗、当分は離れないだろうから、十二分に注意することだね」

内藤は意味が解らないとばかりに、瞬間きょとんとしたがすぐに蒼冷め、恐怖の表情になり何やら喚き散らそうとした。しかし警官によって容赦なく扉は閉ざされ、強制退室となった。内藤の叫び声が私達に届くことはなかった。

「刑事も探偵も腹に据え兼ねているようだったし――何よりなまえさんもいたしね。法で裁けぬのなら少しばかり罰を与えてやろうと思ったのさ。関口君、今のが呪いだ。彼は悔い改めて生まれ変わらぬ限り、永遠に藤牧に取り憑かれて――苦しむことになるだろう。人を呪わば穴二つ。気持ちのいいものじゃない」

中禅寺はそういった。


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