「怪異は生きる者――生者が確認するものなんだ。死んでしまえばそれまでで、生きている方の人間が無念だったろうなと考えるんだ。つまり、怪異の形を決定する要因は死者ではなく、怪異を見る生者の方にあるということだ。男が見るウブメは女、女が見るウブメは赤ん坊で音だけのウブメは鳥なんだよ。この三つは同じものとして認識されていた。考察してみてウブメとは人間的母性と動物的母性のズレから生じた生理的嫌悪感ではないかと思う」
「人間的母性と動物的母性のズレ?」
「関口君にも話したんだが、嵐に見舞われた母猿は足を滑らせて濁流に呑まれてしまったとする。大人の猿でも命の危険を感じる程の流れだ。母猿はまだ泳げない子猿ともう泳げる大きい子猿を連れていたんだ。どちらか一匹を助けるとすると、関口君は何て答えたと思う?」
「……自分よりも小さな存在を護らなければという感情が働いて、小さい子猿の方を助けると答えたのではないですか?大きい方の子猿は自力で泳げるけど小さい方は母猿の助けが必要ですし」

私は一呼吸置いて答えた。

「そう。なまえさんが言う通りの解答を関口君も口にしたんだ。人間的母性の観点で考えれば小さい子猿を助けるという関口君の回答は間違ってはいないよ。人間とはそういうものだというだけだ。ところが、母猿は迷いなく泳げる大きい方の子猿を助けるんだよ。種を保存するのに一番適切なのは大きい子猿なんだ。小さい子猿を助けても生殖能力を得るのに時間が掛かるし、危険を冒して助けたとしても母猿自身も流されて共倒れになる可能性が高いからね。だが人間は種を保存することが唯一無二の目的でなくなってしまった……つまり、愛情というもう一つの価値観を生み出してしまったんだよ。そこが人間と動物を区別させる大きな差ともいえるね。それが同じ方向を向いている内はいいが逆の方向を向いた時に生じるズレを埋めるために怪異が発生するんだ」

私は想像する。
濁流の中、必死に我が子を助けようとする母猿。急な流れに呑まれてしまいそうな一匹と、流れに逆らって自力で泳いでいる一匹。
私という母猿はどちらを助けるか。

動物的母性なら大きい子猿を助けるというが、愛情という本来の獣にはない、感情が邪魔をする。
――ウブメが生まれる瞬間。

「藤牧の不明瞭で曖昧模糊とした行間を埋めるのがウブメなんだ」

中禅寺の声で私は想像の世界から現実へと引き戻された。

「つまり堕胎した水子だ。二十回も深夜に逢引を重ねていれば、可能性としては十分だと思う。それに、関口君から訊いた院長先生の話だと藤牧は結婚しなければならぬ理由があると言い張っていた。そして、彼は結婚した後に自分の子供がどうなったのか……生きているのか堕胎したのか聞き出そうとしたんだ。だが当の梗子さんは何も覚えていなかったから彼は彼女に記憶障碍の疑いを持ったのだろう。関口君も梗子さんに恋文の事を訊いた途端、それまで落ち着いていた彼女はヒステリイ状態になった。涼子さんは鎮静剤を梗子さんへ打ったそうだ。関口君に確認し損ねたんだが、涼子さんは薬の知識を持っているのかい?」
「ええ……薬剤師になるために勉強していた時期があったと話を聞いてます。簡単な薬は処方出来るかと――」

すると中禅寺は成る程なと、一言だけ呟いてから煙草に火を付けた。

「……とは言うものの納得していない様子だな、京極」

にんまりした榎木津からの指摘に、中禅寺は煙草をふかし乍ら決まりの悪い顔をした。

「……まあね。学生時代に久遠寺の娘を孕ませたとしても最終的にはちゃんと結婚したのに藤牧は最後まで贖罪の気持ちを捨て切れずにいたような節もあるし、恋文のこともどうもしっくり来ないんだ。十年前に久遠寺家で何か変わったことがあったはずだと思うんだ。例えば、今までの暮らしが変わったとかそういった変化はなかっただろうか」

それまでの暮らしから何らかの変化はあったのだ。
内藤に指摘されたあの事である。

「昭和十六年の秋頃から約二年半、私は父の遠縁の親戚宅で生活していました。学校が親戚宅の方が近かったのもあるのですが、如何して親戚宅で生活していたのか理由が判りません。春から秋頃まで行気見習として知人宅で生活していた間の記憶はしっかりあるんですが、行儀見習の終盤頃の記憶は曖昧です」

行儀見習として生活していた間は一度も実家には戻っていない。ぼんやりした記憶は行儀見習後を境に徐徐に明瞭になり、曖昧で不明瞭な記憶は父の遠縁の親戚宅での生活へと繋がっている。

「恐らく――」

中禅寺は一旦言葉を切る。私は彼が言わんとすることが解ってしまい、私の心臓は鼓動が早くなった。

「朧気な期間が君の記憶にない映像と関係がある」

一瞬、書斎は沈黙に包まれた。ちりんと一つ、風鈴の涼やかな音色を緩やかな風が私達のいる書斎へ運んで来た。
一瞬の沈黙の後、中禅寺は麦茶を一口飲む。

「身に覚えのない映像とはどんな映像だったか少し詳しく教えて欲しい」

と質問されたので、私は黙って生生しい映像を思い出すことを努めたが頭に痛みが走る。まるで私自身が思い出すのを拒否しているようだ。
私の様子を見ている中禅寺の視線が肌に感じる。

「……午前中に実家に行った際、母に蛙の赤ん坊について確認すると突然血相を変えました。そんなものは知らない、忘れろと言われた時に身に覚えのない血塗れの母と蛙の赤ん坊が見えて、ごめんなさい。どうしても思い出そうとすると霞掛かって詳細が――」

思い出せません、と言葉を紡ごうとした私は薄ら寒さを覚える。

あれは一体何だったのか。の記憶なのだろうか。

中禅寺は私の様子を一瞥して静かに言った。

「……そうか。藤牧の日記から考えると、梗子さんの出産は昭和十六年の夏頃の勘定になるからなまえさんの記憶が曖昧な時期と被る。身に覚えのない映像や、榎さんが君の記憶から何度も視た蛙の赤ん坊は梗子さんが産んだ赤ん坊ではないか……。君は出産現場と赤ん坊殺害現場に居合わせて、ショックを受けてその事実を忘れてしまった可能性があると僕は思う」

――何かの弾みで忘れてしまっているんだ。

榎木津の言葉が脳裏に木霊した。
視界が、私の世界がグニャリと平衡感覚を失ったかのように歪む。目の前にいる中禅寺も、寝そべっている榎木津も。
私が座っている畳も、本がうず高く積み上げられたこの書斎も。じんわりと湿り気を帯びる空気も、夏の始まりを予感させる底のない青空も何もかもが――こんなにも世界というものは不安定なものだったのか。

記憶とは時間の経過が積み重なったものだと思う。
ならば時間とはその一瞬一瞬の瞬間の連続したものである。
今という瞬間が連続しているに他ならない。そんな時間という眼に見えない存在に、今から過ぎ去ったものを過去、今であるものを現在、今から先のことを未来と区別した。

なんて頼りないんだろう。
不安定な世界で何一つ違和感もなく暮らしていたのか。耳鳴が強くなり、少しだけ吐気を感じた。
中禅寺は気難しい表情をして顔を顰めていたし、横で寝そべっている榎木津はぐうぐうと寝息を立てていた。

「梗子姉様が妊娠していたなんてそんな筈……」

私はそこで言葉を噤んだ。
過去に梗子が妊娠していないと私は何故言い切れる?彼女が妊娠、出産していたという事実を私がそっくり忘れてしまっているかもしれないのに。
心の中にじわじわと生じる自分自身への不信感。

「つまり、私は記憶障碍の可能性があるということですね……」

冷たい汗が身体から滲み出る。暫くの沈黙の後、私が口にした言葉は情けない程、寂しげなものだった。

「君を不安にさせるつもりはなかったんだ」

中禅寺は少しだけ困ったような表情をした。

「あ、いえ……。今まで確信が持てなかっただけで中禅寺さんの云う通り私に記憶障碍があるのは多分間違いないと思います」

身に覚えのない映像。蛙の赤ん坊と血塗れの母。
見た記憶がない牧朗の死体。新年の挨拶に二回実家へ行ったこと。記憶がない一月十日。

私は力なく笑った。
顔の表情筋が強張ってしまい上手く笑えているのか自信がない。

「無理して笑うことはないよ。僕の話は証拠が全てある訳ではないし、あくまで可能性の話だからね」

矢っ張り上手く笑えていなかった。

「自分が自分でない感覚がしたとか、そういったことは?」
「記憶にない映像、いえ、私が忘れている映像と言った方が良いですね。それが頭に流れた時は勝手に口が動きました。でも中禅寺さんが可能性として考えている乖離性同一性障碍の症状に当て嵌まらないかと思います。人格が入れ替わっている訳でもなくてあの時の私は変わらず今の私のままで、私以外の別の誰かの存在は感じていませんから……」

私が目の前にいる中禅寺の問いに答えると彼は吸っていた煙草を灰皿に徐ろに押し付けてから腕を組み、目を瞑って黙ってしまった。
どうやら今までの話を頭の中で纏める作業をしているように私には見て取れた。それからゆっくりと目を開け、僕は専門医でも何でもないんだがと前置きをする。

「……なまえさんの記憶障碍は心因性の健忘症ではないかと思う。それも特定された限られた期間スパンのものだ。脳が記憶喪失になる訳ではない。蛙の赤ん坊、血塗れの母、藤牧氏の死体……その“事実”を君の脳は憶えているんだが、厄介なことに“事実”に付随する感情――不安感、不快感、恐怖感、嫌悪感等――これらの感情を忘れるために脳の回路を断ってしまったんだ。健忘症については君の小説でも書かれているから詳しいだろう」

私の小説『ジグゾオパズル』のことである。
主人公は前向性健忘症である。健忘症の種類はいくつかあるが、ある限られた期間中の幾つかの出来事は思い出せても全てを思い出すことが出来ない健忘症のことを選択性健忘症という。

何らかの強い出来事でショックを受けた心はその精神的ストレスから逃れるために、無意識に記憶を封じ込めてしまう。一種の防衛反応である。
“事実”には“負の感情”は一切ないが、心が忘れたいのは付随する“負の感情”の方である。
せっかく“負の感情”を忘れたのに連想する“事実”が残っていたら脳の帳簿が合わないので、脳が帳尻合わせで改竄し“事実”に繋がる脳の回路も合わせて遮断する。
つまり、思い出せないようにしているだけである。

「君の脳は思い出せないよう制御しているだけだと思う。何らかの切っ掛けがあれば、思い出すことは容易いんだがな……」

中禅寺にしては歯切れが悪かったが、彼がその言葉の後を続けることはなく、マッチを擦って新しい煙草に火を付けた。燐のツンとした臭いがしたかと思うと煙草の苦い煙がゆらゆらと揺れる。

「オショボは死んだ子供のことを指すが、殺された蛙の赤ん坊との符合もあるしその上関口は赤児失踪事件にまでに首を突っ込むつもりだ」

赤児失踪事件。
一昨年の夏から暮れにかけて実家の病院で起きた事件だ。実家の病院で産まれたはずの赤ん坊がいなくなったという訴えが立て続けに三件あった。
自活しているとはいえ、関係者のため一度だけ自宅に刑事がやって来たのだが、私は事件自体知らなかった。

担当した刑事――顔付きは厳しく、太い腕と体格が良すぎる刑事だったと思うが、最初は信じて貰えなかった。しかし、その刑事から詳細を教えて貰ったので、事情を聴く側が関係者に詳細を伝えるという間抜けな時間だった。
刑事は直ぐに私は無関係だと踏んで帰って行った。

その後、刑事が自宅に来たことは両親には言わずに赤児失踪事件のことを聞いてみたのだが言い掛かりで迷惑だと、警察は横暴だとぶつぶつと不満を垂れていた。

「関口先生は今どちらに?」
「木場の旦那と元使用人である時蔵・富子夫妻の所へ事情聴取に行っている。関口がどう足掻こうがこれ以上引っ掻き回しても久遠寺家の事件は既に終わっているし、なまえさんの記憶も全て戻ってくるだろう」

木場という刑事の話に寄ると、時蔵・富子夫妻は現在板橋で乾物屋を営む遠縁の親戚宅に身を寄せて居るらしい。私が夫妻を最後に見たのは酷く怯えている姿だった。

事件が終わっている?私の記憶も回復する?
一体それは如何いう意味だと中禅寺に問おうとすると、

「さては何か判ったな!」

寝息を立てて寝ていた榎木津が勢い良く起き上がったので私は驚きの余り言葉を飲み込んでしまった。

「……聴いていたのか」

中禅寺はそんな榎木津にぶっきらぼうに声を掛けたが、当の探偵は全く気にしていない。

「聴いていたとも」

榎木津は気持ち良くうんと伸びをして、

「関君が木場修と捜査に乗り出した所まで全部聴いたさ。さあ、京極!藤牧を殺したのは誰なんだ?蛙の赤ん坊とは何なんだ?」
「僕が今話したことは全て臆測の域を超えていないし、裏付ける物的証拠だって何もないんだ。そんな状態で無責任に結論は話せないよ。赤児失踪事件に木場修がもう一度動き始めたみたいだし、その線で家宅捜査がされれば藤牧氏の件も捜査されると思う」

警察が介入すれば一介のカストリ雑誌だけでなく新聞の一面に載るだろうし、ラジオでも一大ニュースとして流れるだろう。私の家族は無実であったとしても、崩壊する。

「榎さんはなまえさんの側に居てあげるのことだ」
「ふん、京極。お前に言われなくても僕はそのつもりだ」

中禅寺は榎木津を見てから溜息を吐いた。

「なまえさん、君はもう考えるのは止めてもう寝る方が良い。顔色が悪い。怪我もしているし、身体を休めないと治るものも治らない。藤牧氏失踪事件は既に終わっていて結末も用意されているが、関口が首を突っ込もうとしている赤児失踪事件や君がどう関わるかによって結末も変わってくる……不確定性原理だ。正しい観測結果は観測しない状態でしか求められない」

咎めるような厳しい眼差しを私に向けて言葉を結んだ。つまり、中禅寺自身はこの件に一切合切関わらないということだ。私は庭へ目を向けた。いつの間にか墨を流し込んだかのように漆黒が広がっていた。
書斎にはいつ点けたのか判らないが、電気が点いていた。

時刻は八時を指そうとしていた。
大分時間が過ぎている。私と榎木津は中禅寺の自宅を辞して、眩暈坂を降っていた。
特に会話はない。榎木津が掲げている薄ぼんやりとした提灯の灯りがほんの少しだけ私達の前を照らしてくれる。この提灯は、帰る時に中禅寺が勧めたものだ。
夜にここを歩く時はこいつが必要なのだと云っていた。

提灯紙には大きな五芒星――晴明桔梗があしらわれている。魔除けである。魔除け云々は抜きにしても、この坂は街灯が一つもないから有り難かった。

「なまえちゃん、今夜は僕の事務所に泊まるのが良い!何なら今夜だけじゃなくて落ち着くまでずっと泊まったって良いんだ!」

榎木津はいつものように天衣無縫な調子で言い放った。

「でも迷惑なんじゃ……」

私が榎木津の申し出に遠慮しようとしたが、すかさず彼の声が遮った。

「迷惑なものか。それなら最初から依頼なんか受けてないし、何も京極の所までなまえちゃんを連れて行く訳ないじゃないか。それに迷惑か如何かはなまえちゃんが決めることじゃなくて神である僕が決めることだ!神が迷惑じゃないと決めたんだから気にすることではない」

わははははと愉快に笑う目の前の探偵の姿に私は気が抜けてしまった。

「……有り難うございます、御言葉に甘えて事務所にお邪魔しますね」
「そうと決まれば早く帰ろう!」

矢っ張り、榎木津は変人だと思う。だけど、その気持ちが有難かった。


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