榎木津に引っ張られるまま――街中を通り過ぎ駅に着くと、中央線で中野へと向かう。途中で何度か名前を呼んだが榎木津はこちらへ見向きもしない。
こうなった場合はもう誰もこの男を止めることは出来ないので、私は諦めて大人しく彼に着いて行くことにした。

中禅寺の古本屋兼自宅は中野駅から歩いて三十から四十分程である。駅に着いてから暫く歩くと湿気のお陰でじんわりと汗をかいた。道なりに沿って歩いていると目の前に眩暈坂という名称の坂が見えた。
この坂は右に左に傾き乍ら道が続いていて、おまけに道幅も狭い。
真っ直ぐ続く油土塀にばかり目が行くため、坂の七分目辺りで船酔いしたような感覚を覚えるという。
いつものように坂の七分目辺りで軽い眩暈を感じた。
今日は起きてから何も食べていないのだ。
それにあっちに行ったりこっちに行ったりと移動ばかりしていて忙しないが不思議と食欲は湧いてこなかった。だらだらとした坂をある程度登り詰めると、左右に脇道が現れる。油土塀はそこで左右に折れ、脇道を挟んで青青とした竹藪と数件続く古い民家が姿を現した。それらを眺め乍ら進むと私達は目的の古本屋に辿り着いた。
私はじんわりと汗をかいていたので、ハンカチでそっと拭いた。

中野と雖も、町外れに位置している。
店は閉まっていたので、そのまま母屋の方へ回ると榎木津はまるで自分の家のようにがらりと玄関を開けた。そういえば、最近は忙しくてここに来るのも久しぶりである。
細君はどうやら家には居らず、主人一人だけのようだ。

榎木津は靴を脱ぐと勝手知ったる様子で、ずんずんと家の奥へ入るので私はお邪魔しますと一声掛けてから榎木津の後ろを着いて行った。

「おい、京極!居るんだろう?」

勢い良く書斎の障子を開け放った榎木津に対して、主人はいつもと変わらずこちらには目も向けずに何やら本を読み乍ら、「何だ、騒騒そうぞうしい。木場の旦那と関口君が居なくなったと思ったら入れ替わるように今度は榎さんとなまえさんか」
彼にとってこれが挨拶の様式スタイルである。

「ご無沙汰してます、中禅寺さん」

私が中禅寺へ軽く会釈をすると彼は読んでいた本から目を離して小さく息を吐いた。いつの間にか榎木津は自分の所定位置である書斎の廊下側に陣取っていた。私は中禅寺の真正面に座った。

「京極、千鶴さんは何処に行ったんだ?さては遂に本馬鹿に愛想尽かして逃げられたか!」

榎木津は廊下の方をきょろきょろし乍らとても愉快そうに笑った。

「関口君の所の雪絵さんが辛抱しているというのにどうして千鶴子が出て行くんだ。この時期は祇園祭の手伝いで京都の実家に帰っているだけですよ。あと数日したら帰って来る予定です」
「……何だ逃げられた訳ではないのか。それにしても君にしろ関タツにしろ、どうして変人の所にこうも出来た嫁さんがいるのか僕には全くもって判らん!」
「輪をかけて変人なあんたに言われたくはありませんよ」

詰まらなそうに落胆した榎木津は津軽塗りの座卓の下に脚を伸ばすと、そのまま寝そべった。
中禅寺はすっと音も立てずに立ち上がると、麦茶で良いかね、と私に尋ねて来たので私はお構いなくと答えたが彼はそのまま台所へと向かってしまった。
書斎には、私と榎木津の二人だけとなった。榎木津は寝息を立てていたので、私は拍子抜けした。
少しすると、御盆に麦茶を三つ乗せた中禅寺が戻って来た。

「ところで榎さん、今日はただ昼寝をしにここに来た訳ではないでしょう」

中禅寺は幾分顔を顰めて私の方を見遣る。顔を顰めるといってもこの男の場合は少少違う。元元が親でも死んだような仏頂面なものだから、顔を顰めると尚更悪相に拍車が掛かる。

「ああ、そうそう。藤牧の件でね、話を聞いて貰おうと思って」

ね、と顔を合わせて来た探偵に私がどう切り出せば良いものかと少し悩んでしまった。

「なまえさんのことは、敦子と関口君経由で久遠寺家の三女であることは聞き及んでいるよ。勿論、御家族が抱えている問題も承知している」
「なら話が早い!」

がばっと隣で榎木津は起き上がると、探偵事務所で話したことを分かりやすく手短に中禅寺へ説明した。

「榎さん、あんたは死体を見たのか?」
「あんな不気味なものはもう御免だ!僕はなまえちゃんと知り合ってからずっと蛙の赤ん坊が気になって仕方がないんだ!」
「……赤ん坊だって?」

中禅寺が榎木津の言葉に何やら思い当たるものがあるらしい。榎木津は目敏くその様子に検討付けたのか、知っていることを全部話せと中禅寺にせっつく。うんざりしたような中禅寺は息を軽く吐いてから、口を開いた。

「……榎さん達と入れ替わりで木場の旦那がここに来たんだ。久遠寺は故郷では憑物筋として迫害されていたことと、中でもオショボを――これはおかっぱ頭の子供の妖怪なのだが――オショボ憑きの家系であるという噂を持って来たんだが……どうもしっくり来なくてね。オショボというのは家に憑く家霊のようなものなんだが、そんな筋があるのか考えていたんだ」
「つきものすじ?何だそれ」

榎木津はきょとんとした表情である。

「……民間信仰の一つです。憑物筋の家系はその動物霊を使役して他人から財産を奪ったり、憑物を他人に憑けて不幸にするんだそうです」
「おお!そんなことが本当に出来るのか」

私の説明に榎木津は、色素の薄い鳶色の瞳を子供のように輝かせた。

「憑物筋とは民族社会におけるひとつの装置だよ。共同体内に不可解な出来ごとや不条理な出来ごとが発生した場合、それを解決する手段として設定されている民族装置で“家の盛衰”や“富の偏り”といった説明機能を持っているんだ。貨幣経済が全国的に普及すると、隣村や都市と交易することで商才や好機さえあれば身分関係なく誰でも豊かになることが出来るようになる。多くの村民は経済システムの仕組みが理解不能だったから、それまで自分達と同じような暮らしをしていた家が短期間で裕福になるのは不思議で仕方がない訳だ。その内……羨望、嫉妬や憎悪という感情が出て来て『あの家は他人の富を横取りして豊かになった』『あの家が豊かになったから別の誰かの家が貧しくなった』という嫉妬の理由付けになる。先に結果があって、後から原因が生まれることもあるんだよ。だからこそ、憑物筋の家系は差別や迫害されて来た歴史がある。昭和の時代になっても、憑物の信仰をしている地域やそれを信じている人々の間では呪いとして効くんだよ」

中禅寺は澱みなく、そして要領良く説明してくれる。この男は、各国各地の宗教、風俗、口碑伝承の類の知識が豊富なのだ。

「博打で儲かるとツキが回って来たとかいうでしょう。これは狐が憑いて富を運んでくれた――の略だ。一時的に憑物筋となって、憑物を使役して富を独り占めしている状態だ。憑物は田舎に限らず、東京でも生きいるんだ」
「東京にも憑物がいるだけで充分だ!」

榎木津は満足そうに言うと再び畳に寝そべった。

「なまえさんは久遠寺の家が憑物筋だと知っていたんですか?」

中禅寺がそう聞いてきたので私は静かに首を縦に頷いた。

「子供の頃、お祖母様が教えてくれました。故郷の讃岐で、久遠寺家はクロ・・だと言われていたそうです。でも、何を祀っているのか私は知りません。母なら、知っていると思いますけど」

中禅寺は何やら考えながらそうか、と一言発した後私に質問した。

「先程の榎さんからの話によると、丁度藤牧氏が行方不明になった時期の記憶が一部抜けているのは確かなんだね?」

私が十一日に実家に挨拶へ行った時。
開口一番、涼子から牧朗が行方不明になり、梗子が倒れて父から妊娠三箇月の診断がされたと聞かされた。驚いた私が涼子に案内されたのは書庫室だった。部屋の中に入ると梗子は、静かに眠っており、牧朗の姿はなかったのだ。だが榎木津は書庫室で牧朗の死体を見ているようだし、私の記憶からも牧朗の死体を視ているのだ。つまり私も記憶が曖昧で尚且つ抜け落ちている一月九日から十日の間に死体をこの目で見ている訳である。

今朝見た夢に出て来たあの死体は私の身に覚えのない記憶の断片だったのではないか……私は中禅寺にそう説明した。私の説明を聴いて中禅寺はさらに眉に皺を寄せた。

「夢?それはどんな夢だったんだい?」
「それまで年に何回か、片手に収まる程度です。私はいつも子供の姿で誰かに泣き乍ら謝り続けるんです。誰にも言ってはいけない、今見たことは忘れろと、誰かにきつく叱られる夢です。子供の私は泣いているのですが、もう一人の私も存在しているんです。感覚的には、泣いている私の心の中にもう一人の私がいる……とでも言うのでしょうか。分かりずらいかもしれないですが、泣いている私と心の中にいる私は別別の精神を持っている別人なんだと思います。その夢は一年半前からよく見るような気がするんです。いつも叱られて泣き乍ら謝る所で目が醒めるのですが今朝は――」

そこまで言った私は、気分が悪くなった。何も入っていない胃から胃液がせり上がる。咄嗟に手で口を覆った。

泣いている私を叱る血塗れの母。頭蓋部分が陥没した赤ん坊。赤ん坊が牧朗の死体に成長したこと。
母に蛙の赤ん坊のことを確認した時に起きた出来事が夢の内容と繋がったこと。
私が努めて冷静に言うと、中禅寺の顔はより悪相になった。

「君はどっちなんだい?」
「泣いている方です」

彼の質問に、私自身が初めから解っていたように――そう答えることが決まっていたかのように――答えた。そして目の前の古書肆は私のことを暫く鋭い視線で見ていた。
私はその視線を痛い位に感じたが、目を反らすことはしなかった。というより出来なかった。目を反らしてしまえば、私自身が不安で消えてしまいそうだったからだ。

「……昨日、久遠寺医院での現場検証の際に敦子と関口君が藤牧の日記を持って帰って来たんだ。僕が日記を持って帰って来るようにと敦子に頼んでおいたんだが、一部だけ誰かが抜いたみたいで足りない部分があってね――」

中禅寺は先程読んでいた書物をトントンと軽く叩いた。

本だと思っていたのだが、よく見るとそれは日記のようだった。

「……足りない日記というのは――」
「正確に言うと、昭和十六年の前半部分が足りないんだ」

十一年前。昭和十六年。それは私の記憶が曖昧な部分がある時期である。

「この日記を読んで関口君と一つの仮説を立てたんだ」

そう言うと、中禅寺は私に牧朗が記した日記を見せてくれた。隣で榎木津が僕にも見せろと言うので一緒に目を通すことにした。
何度も手に取ったのであろうことが解る程、日記のページには手垢が付いており、紙はよれていた。その頁に記された文字は、繊細さの中に神経質さも内包しているような筆跡だった。義兄とは片手で数える程度にしか言葉を交わしたことはなかったが、そのときに感じた印象と概ね変わらなかった。字は人を表すとは良くいったものだ。

牧朗の日記によると、彼は結婚当初から梗子に対して記憶障碍しょうがいを疑っていたようである。この日記は、牧朗にとっての現実・・なのだ。

「表現が抽象的過ぎて何のことか爽然さっぱりじゃないか!」

榎木津がムッとした。ぱらぱらと日記に目を通す。
他人の生活の一部を覗いているみたいで良い気持ちはしないのだが。

「例の件とは一体何のことでしょう?それに、子供の顛末てんまつって……。この日記の感じだと贖罪するために久遠寺家に婿入りしたニュアンスですけど、如何して昭和十六年の日記が重要なんですか」
「彼が久遠寺家と何らかの関わりを持った時期なんだ。実は僕と関口は藤牧とは旧制高校の一級下で、榎さんは藤牧と同級なんだよ」

私は目の前に座っている古書肆と寝そべっている探偵に目をやった。そんな繋がりがあったのか。
私は知らなかった。私が驚きを隠さないでいると中禅寺は過去の経緯を話してくれた。

昭和十四年。彼等は縁日に行き、牧朗は梗子を見初めたそうだ。一目惚れである。彼の梗子に対する恋心は思いの外激しかったようで、思い悩む彼に中禅寺が恋文を書くよう助言をしたという。
中禅寺は日記のノートの山から一冊を取り出し、私に差し出した。私はそれを受け取ると頁を捲った。
静かに日記を読み進めて行く。

牧朗の激しく燃える恋心。燃えれば燃える程、行き場のない不安感が彼を襲ったのだろう。思いの丈をしたためた恋文を、意中の相手に自分自身で渡す勇気がなかった彼は、関口に託した。自分の覚束なさに苛立ったと胸の内が記されていた。
その後、色好い返事を貰った牧朗は梗子との逢引を何度もしていたことが記されていた。

「――ああ、思い出したぞ!確かあの時の関君は冬眠中の熊みたいに引き籠ってて御飯も食べなかったから京極と一緒に面倒を見たんだっけか」

熊じゃなくって亀の方がしっくり来るねと、榎木津は暢気な口調でそう言った。

「中禅寺さん、一つの仮説というのは一体?」

私は日記から目を離して中禅寺へと訊いた。

「十二月三十一日の記述を見ると、藤牧は『ぼんやりとは畏れて居た云々』が起こったと記されている。僕は畏れて居た事実というのは、梗子さんが妊娠したという報せが藤牧に届いたのではないかと考えたんだ」
「梗子姉様が妊娠……?」

少なくとも私は知らない。母や父は知っているのだろうか。

「その根拠を教えて下さい」

すると中禅寺は古い和綴の本を開き、ある頁を私へ見せた。

激しい雨に見舞われて片手を額に当てた半裸の女。もう片方の手に抱かれたまるまると太った赤ん坊が描かれていた。恐らく女は母親なんだろう。周りは荒野である。
行水中に通り雨にでも当たったのか、困った表情をしている。
頁の右側には『姑獲鳥』と表記されていた。

「これは……『こかくちょう』と読むのですか」

私の問いに中禅寺は和綴の絵に目を向けると短く答えた。

「いや、これはウブメだよ」
「うぶめ?」
「諸国百物語に出て来る『うぐめ』だよ。話を戻すと、姑獲鳥こかくちょうと書いてウブメと何故読ませるのか等関口君とも色々考察したんだ。常陸の国の民間伝承にウバメドリという怪鳥がいる。こいつは産着を夜干ししておくと飛んで来て毒の乳を付けるという。中国の姑獲鳥こかくちょうは羽毛を纏うと鳥になり、攫おうとした子供の夜着に目印として血を付けておくといわれている。非常に似ている性質を持っているんだ」
「でも中禅寺さん。この本に描かれているのは鳥ではなく、母親・・です。諸国百物語でも、ウブメ退治で斬りつけたら正体は五位鷺だったとありますし、常陸の民間伝承も鳥だというのに何故ウブメは母親なんですか?」

私は姑獲鳥が描かれている頁を見乍ら質問すると中禅寺はそう、そこなんだよと言ってから言葉を続けた。

「ウブメが鳥だという場合の根拠は啼き声に求められるようだ。でも、啼き声からの連想なら赤ん坊の筈だからおかしいと思っていたんだが、西鶴の『好色一代女』巻の六を思い出したんだ。堕胎した赤ん坊達が主人公を取り囲んで――声のあやぎれもなく、負はりよ、負はりよと泣きぬ。これかや聞き伝へし孕女うぶめなるべし――とある。ここでいう主人公とは母親・・のことだ」

母親。堕胎した赤ん坊。
血塗れの母と蛙の赤ん坊が頭を過ぎった私は、この符合に吐き気を感じた。


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