神保町にある探偵事務所に戻ると、心配した顔の和寅が出迎えてくれた。和寅は早速、饂飩の出前を頼んでくれた。鰹出汁の良い匂いと湯気が上がる饂飩が届くと、私は和寅に御礼を言ってから今日初めて食べ物を口にする。自分自身では判らなかったが、お腹を空かせていたのだろう。
残すことなく完食してしまった。和寅は私が完食して空になった器を見て安心したようだった。
お腹が膨れるとやって来るのが眠気である。
切羽詰まった状況でも睡魔はやって来るのだ。私は意外と神経が図太いのかもしれないと思った。
事務所には客間が一部屋あるので、その部屋を今夜は使わせてもらうことになった。食事を終えると私は客間へと通された。
ベッドと机と窓が一つ。そして本棚。本棚には本が所狭しと並べられていた。ざっと見て、法律関係の書物から心理学の書物まで種類は豊富そうだ。貸してくれた寝間着に着替えようとするが、打撲で身体が痛く着替えるのに少し手間取った。
寝台に身体を横にすると、どっと疲れが押し寄せて来た。
私は眼を閉じる。
網膜には、今日一日の出来事がぼんやりと浮かんだ後一瞬で過ぎ去った。そのまま私は深い眠りへゆるゆると堕ちていった。こうして私の長い一日は終わったのだった。
夢を見る事もなく、私は深く眠っていたらしい。遠くで雨がしとしとと降る音がした。
ゆっくりと目蓋を開けると見知った木目調の天井ではなかった。寝惚け眼のままのっそりと上体を起こして辺りを見回すと、そこは見慣れた私の自宅ではなかった。そういえば、昨夜は榎木津の事務所に泊まらせて貰ったことを思い出す。部屋の置き時計を確認すると、正午を回っていた。
私は大分眠っていたらしい。
打撲で怪我をした脚は痛かったが、その痛みもあまり気にならなかった。
借りた寝間着から昨日着たワンピースに着替えてみたが胸の奥に痼りが残ったままで、気分は変わらなかった。私はそのまま身体を横たえた。結局、事態は何も好転していない。
中禅寺曰く、牧朗失踪事件は既に終わっている事件らしい。昨日は躍起になっていたのに、今はなるようにしかならないからという投げ遣りな気持ちが胸に広がっている。
私は牧朗が失踪してから昨日までの出来事を思い出す。家族の問題は何一つ解決していない。むしろ悪化している。私も梗子と一緒に牧朗が帰って来るのを待っていた。でも、義兄は幾ら待っていても帰って来ない。日増しに衰弱する梗子の姿に私の胸は痛んだ。活路が見出せないから涼子も両親も、疲弊しているのだと思う。
私の失われた記憶とは何か。梗子は妊娠、出産した過去を持っているのだろうか。
私自身が記憶障碍であり、まだ判らないことだらけである。カストリ雑誌にはある事ない事書き散らされ、実家は最早病院として機能していない有様だった。警察は赤児失踪事件を調べ直しているらしいし、少なくとも私の家族は近い内に崩壊する可能性が高いのだ。
暫く雨足の音を聴き乍らぼんやりとしていた。
どの位ぼんやりしていたのか判らない。
ぎゅっとシーツを握り締める拳に力が入る。これからどう行動すれば良いか、ぼうっとした頭で考える始めようとした時。
コンコンと扉を叩く乾いた音がして、扉が開く気配がした。
「なまえさん、起きてますか?」
私が起き上がると、遠慮がちに開けられた扉の隙間から和寅が少しだけ見えた。
「お姉さんの涼子さんからお電話が入ってて、出れますか?」
客間から応接間に出て和寅から受話器を受け取る。
受話器から涼子の安堵した声がした。何故私がここにいると判ったのか涼子に聞くと、初めは私の自宅に電話を掛けたのだが、出なかったのでもしかしたら探偵事務所に居るのではないかと検討付けたらしい。当たって良かったと、受話器からほっと一安心した様子の涼子の声が届いた。
『関口様からの伝言で、今夜陰陽師を連れて来るそうよ。名前さんも来て欲しいと仰っていたから八時前にはこちらへ帰って来て下さいね』
「陰陽師?」
私は聞き慣れない単語に無意識に反応してしまった。
『何をするのか関口様は仰らなかったから判らないけれど……兎に角名前さん、お願いしますね。私はこれからお父様とお母様にこの事を伝える予定です』
何処となく涼子自身も不安になっているように感じた。
「……解ったわ、お姉様。今からそちらに向かいます」
私はそう短く答えて会話を終えると受話器を静かに置いた。
応接間は外の雨足が聞こえる位静かだった。
和寅も榎木津も私の様子を見ている。関口は赤児失踪事件の糸口を見出せたのだろうか。
兎に角、事態は動き始めた。
「……動いたのか」
榎木津はぽつりと抑揚なく呟く。いつものように、長い脚を惜しげもなく探偵用のテーブルに投げ出している。
私は勢い良く榎木津の方へ振り向いて、榎木津と和寅に御礼を言う。
「榎木津さん、今夜私の家に陰陽師が来るそうなのでこれから実家に行って来ます。一晩泊めてくれてありがとうございました」
「その陰陽師がなまえちゃんの家族の溝を決定的に広げることになったとしても、それは承知の上かい?」
榎木津の表情はいつになく厳しかった。静かだが力のある眼差しである。
「もうずっと前から溝は広がっています」
鼻の奥がツンとした気がした。
「中禅寺さんはいずれ私の記憶が戻ると仰っていたけれど、私は知りたいんです。いや、知らなくてはいけないんです。一月九日と十日に何があったのか、どうして十年前の記憶がないのか、蛙の赤ん坊の正体を……私はずっと家族から目を背けて来たんだと思います。理由は判らないけれど受け入れなくちゃ駄目なんです。牧朗さんの行方と赤児失踪事件の結末をこの目でしっかりと見ないといけないんです」
いつの間にか私の声には涙色が混じっていた。上手く笑えているのだろうか。
「なまえちゃんがそう言うなら僕は止めない!元々止めるつもりも権利すらないけどね。和寅、雨が降ってるから傘を貸してあげるんだ」
榎木津は先程の真剣な態度から一変、いつもの調子に戻ると和寅に傘を持って来るよう命じた。
奥から傘を持って来た和寅がいそいそと戻って来て私はそれを受け取る。
「怪我してるんですから、気を付けて下さいよ」
「……ありがとう」
言葉短くそう言った私は榎木津と和寅へお辞儀をしてから探偵事務所を後にした。
雨がしとしとと降る中、どんな結末が待っているか判らないけれど実家の病院へ向かった。心は不安一色に染まっているが、目を反らすことは出来ない。
つい先程までなるようにしかならないと投げ遣りな気持ちを抱いていたというのに――。
病院の玄関口で私の姿を見た涼子は、酷く安心したようで今にも泣き出しそうな表情をした。
「来てくれて良かったわ、名前さん」
「姉様、手間取らせてごめんなさい」
「良いのよ。さぁ、こちらへ」
涼子に通されたのは、梗子夫妻の元寝室だった。
元寝室には既に父親、母親、内藤の三人が揃っていた。三人共どこか落ち着かない様子で手持ち無沙汰な雰囲気だったが、父は気怠げな空気を隠すこともせず身に纏っているし母はかなり神経質になっている。パサパサの前髪が顔に垂れ下がる度に何度も掻き分けていた。
私はソファに腰を落ち着けた。
それから約束の八時まで誰一人口を開かなかった。
父親も母親も内藤も涼子も口を噤んでおり、重苦しい空気が部屋を満たす。まるで部屋の空気が外の湿気を吸ったかのような具合である。
内藤は窓辺から外を眺めたりソファに座ったり落ち着かない様子だ。陰陽師の到着を待っているのは長いようで短かった。
午後八時。
玄関口から物音がすると、涼子は弾かれるようにソファから立ち上がって音も立てず客人を迎え入れるために部屋を出た。暫くして涼子が来客を連れて部屋に戻って来た。
いつになく具合が悪い関口が猫背気味に涼子の後から続いた。母は毅然とした態度で、父は相変わらずだらしなく前をはだけて上目遣いで、内藤は窓辺で煙草を吹かし乍ら横目で、私は緩々と緩慢な目線で小説家を見た。
「なあんだ、あんたか。一昨日の探偵さんじゃあないか。ん?後ろにいるのが祈祷師とかか?涼子、名前。お前達のお巫山戯に付き合うのもこれっ切りだぞ。また変な噂が立たんとも限らん。何かある度に玄関壊されちゃあ困っちまう」
父は危機感のない口調でそう云った。
関口の脇を巧みに擦り抜けて部屋へ入って来た人物に私は視線を向ける。その人物は私もよく知る中野の古書肆であった。
目の前にいる中禅寺は親戚全員が死に絶えたかのような仏頂面である。
その出で立ちは墨で染めたかのような真っ黒い着流しに薄手の黒い羽織に晴明桔梗が染め抜いてある。手には手甲を嵌め黒足袋、黒下駄を履いている。
全身真っ黒で鴉だと思った。
黒下駄の鼻緒だけが赤い。
「いったい何をしようというのです!この久遠寺の家をどうしようというのです!」
母は少し震えているようだ。
「中禅寺さん……」
古本屋の主人は本業は神主だと聞いたことがあるが、陰陽師もやっていることは初耳である。私は空気と同化してしまう程掠れた声音で呟いた。
中禅寺は私の方を軽く一瞥しただけだった。
「いっておくがね、儂にゃあインチキは通じんぞ。愚妻は何かと信心深いもんでな、御覧の通り動揺しとるが。一応儂は科学者だからな」
父は不躾な眼差しで、中禅寺を眺め回し牽制する。
しかし、そんな父の牽制も虚しく、中禅寺には効かなかった。
「あなたが科学者ならば御自身が置かれている事態をもう少し冷静に御判断願いたいもんですな」
「どういう意味かね?」
「あなたは僕がこれから何をするか、その結果どうなるのかは、大体予想していらっしゃる筈だ」
父は一瞬面食らったような顔をした。
「何をいっとる。儂は生憎お祓いや加持祈祷の類のことは一切判らんぞ。祈祷師にそんなこといわれる筋合いなどないわい。だいいち儂は幽霊だの祟りだのは信じてやせん!」
中禅寺は足音も立てず父の後ろに回り込んだ。
「僕だってそんなものは信じちゃあいませんよ。御老体」
「何だとお!」
「いい加減にご自分を偽ることはお止めなさい。この世には不思議なことなど何もないのです。あるべきものしかないし、起こるべきことしか起こらないのです」
黒衣の祈祷師は顔を赤らめた父に尚も語り続けた。
この部屋はすっかりこの男に呑まれている。
「
「そんな馬鹿な、あんた幾ら何だって――」
父も黒衣の男に呑み込まれてしまったようだ。
堕ちたのだ。死神のような黒衣の男は、一段と低い声でいった。
「自分の目でお確かめになれば良い。簡単なことです」
一瞬の沈黙の後、実に面白いと内藤が声を上げた。
「涼子さんと名前さんが連れてくる人種は実に見事に期待を裏切ってくれる。ハンチングを被らずに航空隊の格好をした探偵が現れたかと思えば、今度は着流しの祈祷師だ。悪魔祓いだ、怨霊退治だというから山伏か叡山の僧兵みたいなのが現れるかと想像していたが、如何にもこれじゃあ歌舞伎の
中禅寺は、
「いいですか、仏教の基本理念は輪廻転生です。生を全うした者は必ず六道のいずれかに再び生を享ける。つまり浮かばれず迷っている暇などない。仏教は本来霊の存在を認めていないんです」
黒衣の男は一歩前に出る。白衣の男は少しだけ身を引いた。
「では基督教はどうかというと、こちらは洗礼を受けずに死したる者は地獄へ行く。信仰の成っている者は天に召される。神に対しての悪魔はいるが、こちらも霊魂がどうのこうのいう隙間はない。回教とて大差はない。コーランに従い、いかにアッラーの意思の通りに生きたかが問題であり、その出来不出来で死後行く場所が決まるだけだ。計らずしも世界宗教と呼ばれる三大宗教の凡てが、如何わしき霊魂を歓迎していないのです。何故なら宗教とは即ち生きている者のためにあるのであって、死者のためにあるものではないからです」
中禅寺は淀みない口調て語り続け、内藤との間合いを少しずつ詰めて行く。
「つまり宗教者であることと霊魂の存在を認めることは厳密にいえば両立しない場合の方が多いんです。内藤さん!だからあなたはその未熟な認識を改めるべきだ。それに――」
中禅寺は挑発するように続ける。
「正確にいうと、僕は宗教者ではありません。あなたが――医者でないようにね」
その一言で内藤は中禅寺を睨み付ける。その視線を中禅寺が捕らえた。
「しかしあんたは、呪いを解きに来たんだろうが!宗教者でもない者が、どうやって呪いを解く?何が出来る!」
中禅寺は先程から何度も言っている。あの扉を開けて私達を書庫室へ入れるために来たのだ。
「涼子さん、名前さん、僕は残念だがこの降霊会だか除霊だかには参加出来ない。これならまだ、胡散臭い探偵に捜査して貰った方が幾らかマシだ。百歩譲ってこの人が霊験灼かな霊能者だったとしてもだ。牧朗君は生きているんだ。そんなもの役に立たない」
私と涼子は何もいわなかった。私は二人のやり取りをただ見ているだけだ。
「内藤さん、そんなに隣の部屋に入るのが怖いのですか?」
「な、何を戯けた!」
確かに内藤の怯え方は異常である。
「あなたが執拗に牧朗氏の生存を主張なさるのには何か根拠があるのですか?」
「根拠も何も君――」
中禅寺は内藤の言葉の上に被せて喋る。わざとである。
「それはあなたの希望なのではありませんか。生きていて欲しくない癖に、生きていて貰わないと困る訳が――あなたにはあるんだ」
そう。中禅寺の言う通りそれは私も感じていた点である。
「だから何を――!」
「心配しなくても」
「心配しなくても牧朗氏はきっちり死んでいますよ」