ありがとうな

ペトラさんとランチをした後、それまで迷っていたのが嘘みたいに私の行動は早かった。
私の周りの人が私のために色んな協力をしてくれた。今度は自分で決めなくては。ペトラさんの言葉に、私はハッとさせられたのだ。数日間既読スルーしていた元彼とのトーク画面にメッセージを打ち込み、すぐに既読マークが付いた。今日のトレーニングのためにジムへ向かうと、受付には珍しくライナーさんがいた。

「ナマエさん、久しぶりだな」
「ライナーさん、こんにちは。あ!この間はフレンチトーストのレシピを教えてくれてありがとうございました!」

ライナーさんも人気のインストラクターだ。受け持っている会員も多いようで、面と向かって会うことがあまりない。いつもはアプリを通して食事指導をしてもらっているので、会話をすること自体久しぶりな気がする。

「おう。美味く出来たか?」
「はい。まさかダイエット中に、フレンチトーストが食べられるなんて思ってなかったので、満足出来ました!」
「それは良かった。違うものに代用するだけで意外と食べられるものがあるだろ?」
「ふすまパンと豆乳で代用出来るなんて知らなかったです。今まで損してました」

糖質制限生活を始めてから、時々無性に甘いものが食べたくなってしまう時がある。今までは何とか我慢をしていたが、割と限界だったのでライナーさんに相談して良かった。
今まで続かなかったダイエットも、誰かと一緒にやれば孤独じゃない。

「トレーナー長が待ってるから今日も頑張ろうな」
「はい!」

いつものように着替えてトレーニングルームに行くと、既にリヴァイさんがいた。そしていつものように、鬼のようなメニューを言い渡されて私はげっそりするのだ。
でも、このメニューはリヴァイさんが私のために考えて作ってくれたものだから、今日も頑張ってこなす。それが、私に出来る唯一のこと。

重いダンベルが身体に負荷を与えて来る。普段使わない筋肉を使うので、キツイと身体がプルプルしてしまう。それを後ろからリヴァイさんがサポートしてくれる。鏡に映るのは、顔を醜く歪めている自分だ。息遣いも荒く、汗も噴き出している。
黙々と鬼メニューをこなす私を不思議に思ったのか、珍しくリヴァイさんが話しかけて来た。

「……今日は大人しいじゃねぇか。何かあったのか」
「……何も、ないですよ」
「そうか」

リヴァイさんが短く返事をする傍らで、私はスクワットをしながら、重りを膝の高さまで上げる動作を10回ずつ繰り返す。辛い動作だけど、綺麗になるためには必要なことだ。トレーニングルームは、私の口から吐き出されるフーッフーッと荒い呼吸音しか響かない。
メニューも後半に来ると、リヴァイさんが納得いかない様子でおもむろに口を開いた。

「オイオイオイ、嘘を吐くな。この間から妙にソワソワして落ち着きがないと思ったら、今日はだんまりか?」
「ええっ、だんまり!?そんなことないですよ!」
「普段のお前なら、黙って集中しろと言いたいくらい口数が多い。妙に静かだと気味悪いじゃねぇか」

トレーナー長……その言い草、酷くないですか?まるで私が普段から全く集中していないみたいだ――と、初めの頃ならそう思っていたし、売り言葉に買い言葉で、ムカッ腹立てながら言い返していただろう。
リヴァイさんが私の専属トレーナーになってから2ヶ月経ち、だいぶこの人について解った気がする。口ではあんな憎まれ口を言っているけれど、多分私が何も喋らないから何かあったんじゃないかと心配してくれているのだろう。
……私がそう思いたいだけなのかもしないが。

口下手な上、言葉使いだって粗野だから中々本意が伝わらないと初めの頃に言っていた。それを今更ながら実感した私は、特に怒りなど湧いて来なくて。思わず、口許が緩んでしまう。

「……私のこと、心配してくれたんですか?」
「あ?寝言は寝てから言うものだ」

やっぱり手厳しいなあ。スクワットが終わり、次はベンチプレスだ。シャフトを握って上下に持ち上げるのを20回。絶妙な重さが二の腕の脂肪に効くのだが、私はベンチプレスが苦手である。

「実は、元彼から連絡がありまして……。今月末に会う約束をしました」
「……、ほぅ。それはまた……急だな」
「私もびっくりしました。まさか連絡が来るとは思ってなかったので」

リヴァイさんが以前言っていたことが本当に起こるとは。どうして彼は連絡して来たのか解らなかった。LINEには、近状報告をしたいとだけメッセージが送られていたから。
クリスタちゃんと順調なのではないのか――そこまで考えて、私はふと立ち止まった。
順調でなかったら、私はどうしたいのだ?リヴァイさんに問われたことが今になって身に滲みる。

「いつ会うんだ?」
「ジムの契約が終わってから。けじめを、着けようと思います」

元々このジムに通い始めたのも、綺麗に痩せて彼を見返したかったから。そして、逃した魚は大きいぞと――後悔させてやりたかったからだ。
リヴァイさんとの二人三脚も、あっという間で今月いっぱいだ。だから最後の追い込みとして、真面目に取り組まなければならないのだ。

「寄りを戻すかどうかは、まだ解りません……」
「……そうか」

リヴァイさんがポツリと返答した。淡々と続く会話のキャッチボールは終わった。何故だか解らないけれど、私はちょっとだけ寂しく感じつつ――本日のトレーニングは終了した。締めのストレッチを終え、リヴァイさんが私に背を向けて機材を片付け始める。最終日までここに通うのも後7回。

「リヴァイトレーナー長!あ、あのっ……!」
「何だ」

きょとんとした顔でこちらを見るリヴァイさん。その顔を見ると、こんなこと頼んで良いのか急に解らなくなってしまった私は、思わず言葉を口にすることが出来なくなる。
迷惑なんじゃないだろうか――そう思えば思う程、喉まで出かかった言葉が先に進まずにつっかえてしまう。名前を呼んだ癖に何も言わない私に、痺れを切らしたリヴァイさんの綺麗な顔に苛立ちが滲む。

「……何グズグズしてんだ。言いたいことがあるなら言え」
「差し出がましいお願いをしても良いでしょうか……」
「だから、何だと聞いている」

あ、圧が……強い。
目付きが常人のそれとは違い、まるで裏社会に生きる人間のものだ。人相が悪いので、初見であれば震え上がるに違いない。

「最終日は……私を励ましてくれませんか?」
「励ます?」
「……きっと、リヴァイさんに激励を貰えたら。私、頑張れる気がするんです」

思い切って頼んでみるとリヴァイさんの苛立ちが消え、代わりに真剣な顔付きで見つめられた。

「それでナマエが前に進めるのなら、幾らでもくれてやる」
「………っ、あ、ありがとうございます」

どきりと心臓が高鳴ったような気がした。何故だか目の前にいるリヴァイさんを直視することが出来なかった。だけど。とても、嬉しかった。



それからトレーニングは黙々と続け、早いもので今日が最後日だ。定時ダッシュして歩き慣れた道を進む。未だに最終日だと自覚が持てないのだけど。

「どうしたの、ヒッチ?」
『ナマエ、お疲れ〜!今、大丈夫?』
「うん、あんまり時間ないんだけど……少しなら」

いつものようにジャージに着替えて、これから体型測定に向かおうとしていた時。スマホがけたたましく鳴った。着信の相手は友人のヒッチからだった。

『手短かに用件だけ話すけど……、本当ごめん!今度、アニのバンドライブに一緒に行くって約束したけど、仕事が入っちゃってさ、一緒に行けなくなった』
「ええっ!そうなの!?」

丁度1ヶ月前の合コンの場で、アニが皆に告知していたバンドのライブ。インディーズデビュー後ということもあり、お祝いを兼ねて絶対行くから!と約束していたのだが……。

「仕事じゃあしょうがないねえ。ヒッチの代わりにお祝いしに行くね」
『うん、そうしてやって。今度3人で会えるように調整する。アニには私が言っておくから……本当にごめん!』
「気にしないで。仕事、大変だろうけど頑張ってね」

ヒッチと行きたかったけど、また行けば良い。さて、切り替えよう。これから最後の測定だ。

測定器に乗ると30秒くらいで結果が表示された。体重、体脂肪率の数値を確認した私はとても嬉しかった。リヴァイさんも心なしかホッとしたような面持ちだった。

「……初回よりマイナス9キロの減量に成功だ。ホラ、これが3ヶ月前のお前だ」
「これ……本当に私ですか?」
「正真正銘のお前だ。だが、こっちが今のお前だ」

渡されたのは初日に体型測定した時と先程撮影した写真だった。並べて見てみると、その差は一目瞭然だ。
いや、何というか……。思わず3ヶ月前の写真を指差して、これは本当に私なのかリヴァイさんに確認してしまう有り様だった。仕事に疲れ果て、丸々と肥えた女がそこに写っている。

でっぷりと脂肪を蓄えていたお腹も、しっかり引き締まってその名残りは皆無だ。前に張り出した太腿も、むくみで凝り固まった脹脛も。むっちりした二の腕も、たるんだ二重顎だって。そして猫背気味だった姿勢も、若干矯正されていた。

「……すごい」
「お前は厳しいトレーニングを制して、目標を達成した。誇りを持て」
「頑張ったな、ナマエさん」

リヴァイさんとライナーさんに褒められて、私は嬉しくて惚ける始末。こういう時、感謝を伝えたいのにどうしても言葉が出て来ない。ついつい2枚の写真を無言で見比べてしまう。

「ライナー、食事面ではどうだったか?」
「そうだな……。最初は塩分多めの食事が多かったが、試行錯誤をしていた点は良かったと思う。途中で糖質解禁されたものの、概ねこちらの指示に従っていた」
「あの時はすみませんでした……」

ああ、耳が痛い。恐らく、合コンで勝手に糖質解禁したことを暗に示しているのだろう。リヴァイさんの鬼メニューが待ち受けていたなんて、当時の私は知る由もない。

「今後は体重をキープし続けることが大事だ。意外とこれが難しい。大体の人は少しリバウンドするが、キープ出来れば問題ないだろう」
「が、頑張ります……!」
「まあ……、また元に戻ったらここに戻って来い。いつでも待っている」

これはリヴァイさんなりの気遣いなのだろう。
だけど、冗談に聞こえないのは何故なのか。私は苦笑いで誤魔化すことにした。戒めとして、3ヶ月前の自分の写真を貰った。暴飲暴食したくなったら、この写真を見て一旦冷静になりたいと思う。3ヶ月前までの私を反面教師にしよう。全身ボディメイクコースは終わり、ゴールを迎えたように錯覚してしまうが、漸くスタートラインに立ったばかり。
ある意味、独り立ちのようなものなのだ。最後の面談が終われば、後は帰るだけ。私服に着替えて受付に行くと、エレン君とミカサちゃんがいた。どうやら、私のことを待っていたらしい。

「無事脂肪を駆逐出来たんですね!おめでとうございます」
「……ナマエさん、お疲れ様でした」
「2人とも、ありがとう。これからも頑張ってね」

一通り挨拶をしたライナーさん達は、それぞれの仕事に戻って行った。リヴァイさんは私を見送ってくれるらしい。

「お世話になりました」
「お前は良く頑張った。綺麗に痩せたと思う。いや……、」
「リヴァイさん?」
「ここに来たばかりの頃は弱音ばっかりで、正直どうしようもないヤツだったが……それでも歯を食いしばってオレに着いて来てくれた。ありがとうな」

リヴァイさんの言葉にびっくりた。いや、正確に言うと彼の表情に――だろう。
いつも無愛想で、悪人面の彼が微かに笑った――ように見えたからだ。

「……っ!そんな、!御礼を言うのは私の方です!1人だったら絶対に出来なかった。リヴァイさんやライナーさん、ミカサちゃんやエレン君のお陰です。ありがとう、ございました……!」
「おい、泣くな」

リヴァイさんから感謝の言葉が飛んで来た。目頭が熱くなり、ブワッと急激に視界が滲む。今日でここに来るのも、最後なのかと思うと急に寂しくなった。涙が溢れないよう耐えていたのに、目尻から涙がやっぱりだめだったようだ。
いつの間にか、このジムに通うことが私の日常の一部になっていたようだ。初めこそ、筋トレなんてキツくて嫌だったし、自炊だって面倒だと思っていたのに。体重計のメモリが下がる度に嬉しくて、それがモチベーションにもなっていた。トレーニングは辛いけれど、叱咤激励してくれるリヴァイさんがいたし、食事で困ったことがあればライナーさんに何でも相談出来た。
ミカサちゃんやエレン君だって陰ながら私のことをサポートしてくれた。もっと沢山、『ありがとう』と伝えれば良かったのに。
そして、今生の別れでもないのに、情けないくらい私はリヴァイさんの前で泣いてしまった。彼は何も言わず、私が泣き止むまでただそばにいてくれた。こうして、長かったような短かったようなトレーニング期間は終わりを告げたのだった。




あれから仕事は相変わらず忙しく、私は目まぐるしい日々を過ごしている。社内は外線と内線の着信音が鳴り響くし、営業の安請け合いの皺寄せでメンバーはカリカリしている。今日もプログラム言語のコードを打つ手は止まらない。まるで自分が機械になった気分のまま、週5日が終わった。
以前はシステムを納品出来ると達成感を味わっていたのに、あまり遣り切った感じがしないのは何故だろう。

食生活は何とか自炊をしようと頑張っているし、面倒で出来ない時は惣菜で簡単に済ませていた。勿論、低糖質のものを摂るよう心がけている。運動に関しては、ミカサちゃんが時々ランニングに誘ってくれるので一緒に走ることもある。
これが結構ストレス発散になり、良い汗がかける。私も何か運動を始めようかと考えている。あんなに足腰が重たかったのに、それが嘘のようだ。元気そうなミカサちゃんを見て、私も安心した。

ジム通いが終わってから1週間が長く感じるようになった。やっと週末。今日は元彼と会う日だ。
待ち合わせの場所であるマリア駅の改札前で彼を待つ。妙に緊張して心臓が口から出そうだ。
彼と面と向かって会ったのは何ヶ月前だろう?記憶があやふやになってしまう程、私達は会っていない。そわそわして、腕時計を何度も確認してしまう無駄な行為を繰り返す。

「ん……?」

ふと、視線を上げると案内板付近に彼らしき男性が立っていた。きょろきょろと辺りを見回しているが、私には気付いていない様子。誰かを待っているような雰囲気だ。トン、と肩を叩いて私は声をかけた。

「……久し振り」
「……えっ、えぇ!?も、もしかして……ナマエ、なのか?」

案の定、やっぱり元彼だった。

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